付き合っていた頃には会う度に笑いかけてくれて、好きだと言って抱きしめてくれて、帰らないでと引き止めてくれた。それがいつしか自分ばかりが好きなような気がして、段々と千紘から笑顔が消えて別れる時にはうんざりしたような表情を浮かべていた。
付き合っている時はあんなにも楽しかった。寄りを戻せればあの頃に戻れる気がした。しかし、千紘の笑顔は樹月以外の男に向けられていて自分との差を感じた。
凪さえいなければまだチャンスはあったかもしれない。そう思ったのに、凪に指摘されたらいつまでたっても千紘を諦められない自分と同じように千紘もこの男を諦めないのかもしれない。そんなふうに、じわじわと感じる。
もしそうなったらずっと思いは一方通行で、他の男を愛しそうに見つめる愛しい人を追いかけ続けなければならない。それを見ているのも辛い気がした。
「千紘……どうしても俺じゃダメなの?」
樹月は縋るように千紘の腕に触れた。せめてもう一度抱きしめて欲しかった。髪を撫でて優しく微笑んでくれたら満たされるのに。それを求めて千紘想い続けた。
しかしその後に向けられる視線は、求めているものとは程遠い。
「何度も言ってるけどダメだよ。今回この人に手を出そうとしたことで完全に許せない存在になった」
何度尋ねても結果は同じだった。質問すればするだけ傷が抉られていく。凪の顔を見ればまるで他人事のような顔をしていて憤りを感じる。
「千紘のこと好きでもないくせに思わせぶりなことするなよ……」
千紘にこれだけ言われたら、凪を攻撃するのは逆効果だとわかっている。それでも言わずにはいられなかった。
こんなに好きでも叶わない恋もあるのに、相手の好意を知っていて「好きでもないし付き合ってもいない」と平然と言う凪が恨めしかった。
凪は大きくはあっと息をついた。結局男も女も大差ない。以前自分が言った言葉だ。女だから泣いて縋るだとか、男だから我慢するだとかそんなものは存在しないと凪は思う。ドロドロした女の裏側を知っているし、粘着質な男がいることも証明された。
性別など関係なく、要は人間性。そう考えたら恋愛に男も女もない気がした。
「思わせぶりな態度をとった覚えはない。俺は付き合えないってはっきり言ってるし、千紘はそれをわかってて俺と会ってる」
嘘をつく必要などないと感じた凪はそう言った。説明する必要さえないが敵意を抱かれている以上、この場で解決させた方がいい気がした。
凪が口を開いたことが意外だったのか、千紘は凪に目を向けた。
「でも家から出てきたってことはヤルことヤッてんだろ!?」
今にも泣きだしそうな顔で樹月が言う。そんなことを言われてしまえば千紘との肉体関係を隠したい凪はぐっと押し黙るしかない。ここで抱かれてないと嘘をつくのは簡単だが、それならと樹月を安心させ期待までさせてしまいそうだし、千紘のことを傷つけてしまいそうだとも思った。
だからといって、体だけの関係だと言えば自分が千紘に抱かれていることを認めてしまうし千紘が喜ぶ姿が想像できて面白くはない。
黙ってしまった凪を見て千紘は察したのか、肩をすくめると「ヤッてるヤッてないなんて樹月に関係ある?」と抑揚のない声で言った。
「俺はセフレとして側においておきたいわけでもただの体目的でもないよ。付き合えるなら別にセックスはなくてもいい」
さらりと言った千紘に樹月は信じられないと言った顔で千紘を見上げた。自分と付き合っていた時には毎日のように抱き合ったのに。自分を求めてくれることが愛情表現だと思っていたし、俺だって好きだから抱かれたいと思ってたのに……とまるで理解できなかった。
「俺にとってそれだけ大事ってこと。セックスしてる、してないは問題じゃない」
「でも……」
「正直、好きじゃなくてもセックスはできる。でも好きじゃなきゃ大事にはできない」
「……千紘は俺のこと好きだった?」
「好きだったよ。だから大事にしてきたつもりだった。でも樹月はいつも自分本位で俺のこと大事にしてくれなかったよね」
千紘にそう言われて樹月ははっとする。何度となく自分のことばっかりだと千紘に言われてきたが大事にしてくれなかったと言われたのは初めてだった。自分の中では大事にしているつもりだった。愛情をたっぷり注いでいるつもりだった。こんなにも好きなんだとアピールもした。ただそれは、千紘にとっては「大事にされていない」だった。
こんなにも与える側と受け取る側の想いが相違することがあるだろうかと眩暈すらした。
「俺は彼氏だから大事にするわけじゃない。セックスするから優しくするわけでもないよ。好きだから大事にするし、嫌われたくないから優しくする。樹月の好きは全く俺には響かなかった。思いやりのない単なる依存だ」
千紘の言葉には棘があった。そんな冷たい言葉を投げるような男じゃなかったはず。いつも冷静でそれでいて優しくて寛大で男らしかった。
そんな千紘が好きだった。ただ、こんな言葉を言わせてしまっているのは自分自身なのかもしれない……。樹月はようやくそう思った。
「俺には思いやりはなかったかな……」
樹月の声は震える。自分が甘えることばかりを考えてきた。自分の心の拠り所を求めてきた。けれど考えてみれば千紘が自分を頼ってきたり、甘えてきたりしたことは一度もなかったと気付く。
だったら千紘は誰に甘えるのか、そう考えた時に視界に入ったのは凪だった。
恐らく凪は自分が知らない千紘の顔を知っている。そう思ったら悔しくて仕方がないのにそれと同じくらい虚しくもなった。
付き合っていた時でさえ千紘の支えになれなかったのに、今じゃ到底無理じゃないかと絶望を感じた。
「全くなかったわけじゃないよ。付き合い始めは樹月にもあった。俺もちゃんと好きだったし会えるのが嬉しかったし」
突き放されるかと思いきや、千紘は静かにそう言った。それが事実なんだと思うが、嬉しかったり、もう元に戻れないのならそんな優しい言葉は辛いだけだと思ったり樹月の感情はめちゃくちゃだった。
じわっと視界が滲む。
「でも途中からそれもなくなってった。お互い余裕がなくなったし、仕事だけのせいでもないって思う。樹月はさっき、あの人に好きでもないのに思わせぶりなことするなって言ったけど、彼は誰に対しても思い遣りはある人だよ」
「え……」
「俺のことを好きじゃなくても、むしろ嫌いでも思い遣りだけは忘れない人。仕事の心配してくれたり、自分の仕事都合つけて俺に合わせてくれたり、無関係なのに面倒事に首突っ込んだり」
千紘は、店先で樹月の協力者に噛み付いていた様子を思い出し、ふっと頬を緩めた。
「だから好き。俺のことが好きじゃなくても好きになってもらえるように努力しようって思える。そういう気持ちにさせてくれることが嬉しいって思える。樹月じゃそうはいかない」
千紘が首を左右に振ると、樹月はもうこれで本当に最後なんだと今まで以上に距離を置かれた気持ちになった。
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