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#恋愛
n217(エヌ・ニイナ)
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第4話:地獄のアフタヌーンティー
部屋を支配していた「偽りの安らぎ」は、ガラス細工が砕けるような音を立てて消え去った。
仕事部屋の冷たい空気の中で、志乃は床にへたり込んだまま、目の前の青年を凝視していた。毎日、自分に温かいスープを運んでくれたその手には、今、真っ黒なインクの染みがこびりついている。
「……あな、たが。あなたが拓也を、唆したの?」
志乃の声は、掠れて消えそうだった。
蓮は、買い出してきたレジ袋を無造作に机に置くと、志乃の目線に合わせてゆっくりと腰を下ろした。
「唆したなんて人聞きが悪いな。僕はただ、彼に『きっかけ』を与えただけだよ。君の親友である莉子さんが、どれほど君を羨み、君からすべてを奪いたがっているか……それを彼に教えたんだ。男ってのは単純だよ。自分を『特別な存在』だと思い込ませてくれる女がいれば、家庭なんて簡単に捨てる」
「どうして……そんな、ひどいことを」
「言っただろ、志乃さん。僕は世界に飽きてたんだ。日本全国を巡って、綺麗な景色も、ありふれた感動も、もう全部描き尽くした。僕が欲しかったのは、そんな手垢のついた物語じゃない。人間の内側にある、もっとドロドロとした、逃げ場のない『真実』だ」
蓮は、志乃の頬に伝う涙を、愛おしそうに指先で拭った。その指は、氷のように冷たい。
「君をこの港町へ導くのも、少しだけ工夫が必要だった。莉子さんに、君がこの辺りに潜伏しているという『噂』を流したりね。……そうすることで、君は孤立し、僕という唯一の救いに縋るしかなくなる。……ほら、最高の展開だと思わないか?」
志乃の身体から、急速に体温が奪われていく。
信じていた温もりは、すべて計算された「餌」に過ぎなかった。彼が毎日淹れてくれたコーヒーの香りさえも、今は自分を縛り付ける鎖の匂いに感じられた。
「……狂ってるわ。あなたは、人間じゃない」
「そうかもしれないね。でも志乃さん、君だって気づいているはずだ。僕が君の『毒』を吸い上げてあげた時、君は確かに救われていた。……莉子への憎しみを語る君の顔は、今まで見たどんな景色よりも美しかったよ」
蓮は、机の上から一本の万年筆を取り出した。
志乃の夫、拓也から奪った——いや、蓮が意図的に「落とさせた」例の万年筆だ。
「さあ、クライマックスだ。外に、君の『親友』が来ているよ」
その言葉と同時に、アパートの廊下から、激しくドアを叩く音が響いた。
「——志乃! 志乃、そこにいるんでしょ! 開けなさいよ!」
莉子の声だった。
かつての鈴を転がすような愛らしい声は、今や嫉妬と焦燥で濁り、獣の咆哮のように響いている。
「志乃、あんたのせいで! あんたが変な情報を流したせいで、拓也が……拓也が会社をクビになったのよ! 私たちのマンションだって解約になった! 全部、あんたの仕業でしょ!?」
志乃は、震える手で耳を塞いだ。
莉子が何を言っているのか、最初は理解できなかった。けれど、蓮の不敵な笑みを見て、すべてを悟った。蓮は、志乃の「救済」を演じる一方で、莉子のアカウントを密かに煽り、自滅するように裏で工作を続けていたのだ。
「……開けてあげなよ、志乃さん。君が一番望んでいた場面だろ? 自分を裏切った女が、ボロボロになって君の足元に跪く……その『スカッとする』瞬間を、僕と一緒に見ようじゃないか」
蓮は、志乃の手を引いて立ち上がらせた。
志乃は、まるで操り人形のように、蓮に導かれてリビングへ向かう。
蓮が玄関の鍵を外すと、扉が勢いよく開き、土砂降りの雨の匂いと共に莉子が飛び込んできた。
莉子の姿は、無残だった。
高価だったはずのブランドもののコートは泥に汚れ、手入れの行き届いていた髪は乱れ、化粧は涙で無惨に崩れている。
「志乃……! この、地味女のくせに……! あんたが、裏で何を吹き込んだのよ! 拓也に、私の過去を……あのクラブでのことを教えたのは、あんたね!」
莉子が志乃に掴みかかろうとしたとき、蓮が冷ややかにその間に入った。
「莉子さん、落ち着いて。彼女は何もしていませんよ。……それをやったのは、僕だ」
「……誰よ、あんた」
「彼女の、新しい『共犯者』ですよ」
蓮は、手際よくスマートフォンを操作し、ある動画を莉子の目の前に突きつけた。
そこには、莉子が拓也以外の男とも関係を持ち、拓也の貯金を使い込んでいたことを裏付ける、決定的な証拠が収められていた。蓮が全国の「旅人」というネットワークを使い、莉子の過去の足取りを徹底的に洗って作り上げた、極上の毒物。
「これを拓也さんに送ったのも、会社に匿名で通報したのも、僕です。……君は、志乃さんからすべてを奪ったつもりだったんだろうけど、残念だったね。……君の欲望は、僕の漫画の『一番の悪役』として、最高に使い勝手が良かったよ」
「……あ、あぁ……っ」
莉子は、その場に膝から崩れ落ちた。
これまで志乃に向けていた優越感も、傲慢なマウントも、すべてが音を立てて崩壊していく。
莉子は志乃の足元に縋り付き、なりふり構わず叫んだ。
「志乃! 助けて、お願い……! 拓也を、拓也を説得して! あんたなら、あいつの言うこと聞くでしょ! ねぇ、親友でしょ!?」
志乃は、自分を見上げる莉子の顔を見つめた。
そこにあるのは、友情でも慈悲でもない。ただ、自分を「便利な道具」としてしか見ていない女の、醜い足掻き。
志乃の心の中に、蓮が丹念に植え付けた「毒」が、静かに芽を吹いた。
「……ごめんね、莉子。私、もう外の世界には戻れないの。……ここで、この人と一緒に、私たちの『お話』を完結させなきゃいけないから」
志乃の声は、不思議なほど凪いでいた。
蓮は、満足そうに志乃の肩を抱き、その耳元で囁いた。
「いい子だ、志乃さん。……さあ、最高のエンディングを、書き上げようか」
外の雨は、莉子の絶叫を呑み込むように、いっそう激しさを増していった。
(第4話・おわり)
コメント
1件
「地獄のアフタヌーンティー」、読了しました……なんというか、蓮のすべてが計算尽くだったという衝撃がすごいです。毎日スープを運んでくれた優しい青年が、こんなにも冷徹な“毒の蒔き手”だったなんて。特に「君の顔は今まで見たどんな景色よりも美しかった」という台詞、ゾッとすると同時に、彼なりの歪んだ愛のようなものを感じてしまいました。最後の、雨の中で崩れ落ちる莉子と、凪いだ声で「お話を完結させなきゃ」と呟く志乃——この構図、鳥肌が立ちました。続きが気になります。