テラーノベル
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第5話:終わらない旅(最終話)
警察の赤色灯が、濡れたアスファルトと古いアパートの壁を赤く染めていた。
乱心して暴れた莉子は、蓮が密かに通報していた警察官の手によって連行されていった。雨の中に消えていくサイレンの音を聞きながら、志乃は土間に立ち尽くしていた。
嵐の去った部屋には、再び静寂が戻ってきた。
けれど、かつての「温かい安らぎ」はどこにもない。そこにあるのは、完全に狂った世界と、それを構築した一人の男だけだ。
「さあ、温かいハーブティーでも淹れようか。体が冷えただろう?」
蓮は、何事もなかったかのように台所に立ち、お湯を沸かし始めた。
その背中に向けて、志乃は掠れた声で問いかける。
「……どうして、私だったの?」
蓮の動きが止まる。コンロの青い炎が、彼の横顔を怪しく照らしていた。
「日本全国を巡り尽くして、四十七都道府県のどこに行っても同じ景色に見えたと言ったよね。……でも、一つだけ嘘があったんだ」
蓮は静かに振り返り、志乃を見つめた。その瞳には、これまで見せたどんな表情よりも深く、暗い「情熱」が宿っていた。
「僕が本当に飽きていたのは、旅じゃない。……人間そのものだ。誰もが同じような幸せを望み、同じような嘘をつき、同じような絶望で死んでいく。どこにも『本物』なんてなかった」
蓮は一歩、志乃へと歩み寄る。
「でも、あの日。東京の編集部で君の姿を遠くから見かけた時……君だけが違っていた。夫の浮気に感づきながら、親友の企みに気づかないフリをして、壊れそうな心で懸命に『理想の妻』を演じていた。……その圧倒的な狂気と健気さに、僕は一瞬で奪われたんだ」
志乃の息が詰まる。
「僕が君をこの港町へ誘導したんじゃない。……僕が、君のためにこの場所(物語)を用意したんだよ。君を追い詰め、絶望させ、傷つけ、そして僕の手で救い上げるために。……君は、僕が人生で巡り会った、唯一の『本物のヒロイン』なんだ」
すべてが、蓮の掌の上で仕組まれた自作自演。
志乃の人生そのものが、この男が描く「最高の連載」のための舞台装置だったのだ。
「……悪魔」
「なんとでも言っていいよ。でも志乃さん、君はもう外の世界へは戻れない。夫も、親友も、かつて住んでいた家も、君の『居場所』はすべて消えた。……君に残されているのは、僕が描く物語の中の、幸せなヒロインとしての席だけだ」
蓮が差し出したカップから、甘く芳しい湯気が立ち上る。
志乃はそのカップを受け取り、ゆっくりと口をつけた。
……美味しい。狂おしいほどに、体に染み渡る味だった。
志乃は、自分の心がゆっくりと死んでいくのを感じていた。
同時に、猛烈な「快感」が全身を駆け巡る。外の世界で踏みつけられ、誰にも必要とされなかった自分が、この男の世界では「唯一無二の存在」として愛されている。この狂気的な執着こそが、自分に与えられた唯一の救済なのだと。
「……ふふ」
志乃の唇から、小さく乾いた笑いが漏れた。
涙はもう出なかった。
「……ねぇ、蓮くん。次の原稿の締め切りは、いつ?」
蓮の目が、歓喜に細められた。彼は志乃の腰を引き寄せ、その唇に、雨の匂いがする静かなキスを落とした。
「すぐだよ。……君と僕の『新連載』は、今始まったばかりだからね」
◇
数か月後。
全国の書店や電子書籍サイトでは、ある一冊の実録サスペンス漫画が異例の大ヒットを記録していた。
#恋愛
n217(エヌ・ニイナ)
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『雨降る窓辺の共犯者』——。
不倫、裏切り、そして狂気の愛を描いたその物語は、「あまりにもリアルで恐ろしい」「救いがないのにページをめくる手が止まらない」と、SNSを中心に爆発的な話題を呼んでいた。
その頃、北陸の寂れた港町のアパートは空き家になっていた。
澄み渡る秋空の下、誰もいない駅のホームで、スーツケースを引く二人の姿があった。
一人は、一眼レフカメラと原稿用紙の詰まったバッグを肩にかけた青年。
もう一人は、青年の腕にしっかりと抱きつき、穏やかな笑みを浮かべた美しい女性。
「日本全国制覇の次は、どこへ行くの?」
志乃が尋ねる。その瞳には、かつての絶望の影は微塵もなく、完璧な「ヒロイン」としての光だけが宿っていた。
「そうだね……まずはヨーロッパかな。言葉の通じない国で、誰も僕たちを知らない場所で……もっと深くて、誰も見たことがない『毒』を探しに行こう」
蓮は志乃の肩を抱き寄せ、優しく微笑んだ。
「大丈夫。僕がどこへ行くときも、君の手を絶対に離さないから。……僕たちのは、永遠に終わらない」
ガタゴトと、遠くから列車が近づいてくる音。
二人は示し合わせたように顔を見合わせ、完璧で歪んだ「幸せ」の笑顔を浮かべながら、新しい取材の旅へと踏み出していった。
(『雨の夜に駆ける居候』・全5話完結)
コメント
1件
ああ、読み終わりました…。胸がぎゅっとなる感じが、まだ冷たい雨の匂いと一緒に残ってるみたいです。 最終話、まさに蓮の「本物のヒロイン」という言葉がゾッとするほど響きました。志乃が差し出されたカップを受け取り、「次の締め切りは?」と笑うラストシーン、あれがもう救いようのない幸せで。完全に狂った世界観なのに、どこか美しく見えてしまう自分が怖かったです。 全5話、どっぷり浸からせていただきました。ありがとうございます。