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廊下に控えている女官がひそひそ話している声が聞こえて来た。
「なんと、畳を敷き詰めたお屋敷にお住まいであったのか、あの方たちは」
「東国には、贅を極めた暮らしをしておる元都人もあると聞いたが、やんごとなき御身分の姫様ではあるまいか?」
畳の事で変な誤解を与えたようだが、まあ、それはそれでいいだろう、と陽菜は思った。
ほどなく、廊下の奥から足音が近づいて来て女官たちが床に額をこすりつけんばかりの頭を下げた。
どうやらさっきの牛車の中の人物が現れたらしい。明雄が胡坐のまま、上体だけを深々と下げて両手を床につけたので、陽菜、玄野そしてフーちゃんも見よう見まねで同じ姿勢を取った。
部屋に足を踏み入れた人物はさっきとはうって変わった飄々とした声と口調で陽菜たちに告げた。
「よいよい、堅苦しい事は無用じゃ。みな、顔を上げよ」
その人物の顔を見た陽菜たちは一瞬きょとんとした。そこにいたのは、まだ30代にしか見えない、思いのほか若い男性だったからだ。彼は早速フーちゃんの方へ視線を向け、気さくに話し始めた。
「いや、朕も帝として位にあった時は珍しい物や人を幾度も見たが、そなたのような黄金色の髪を持つ姫を見たのは生まれて初めてじゃ。その髪は生まれつきの物であるか?」
「はい」
フーちゃんは、おっかんびっくりという感じで頭を下げながら答えた。
「そうか、そうか。ああ、いちいち頭を下げんでもよい。朕はもう退位して、いわば隠居の身。宮中の堅苦しい作法だの礼儀だのはもうたくさんじゃ。そなたらも、そのように振る舞うがよい。それにこのような狭苦しい屋敷じゃで、気遣いは無用じゃ」
これが狭苦しかったら、あたしの家は何なんだ? さしずめ犬小屋並みか? と陽菜は思った。まだ呆気に取られている陽菜に比べ、フーちゃんは既に状況を呑みこんでいるようだった。今度は自分から上皇に話しかける。
「あの、上皇様」
「うむ、何かな?」
「帝をお勤めになった程の方であれば、もしやご存じかと思いまして。セッショウセキという物をご存じありませんか?」
「セッショウセキとな? いや、知らんな。それはどのような物であるか? 漢籍ではどう書くのか?」
「それが、わたくしもどのような物かは存じません。漢字、あ、いえ、漢籍での記し方も。ただ、どこかにそういう名の不思議な力を秘めた物があり、それがわたくしの一族を救う事が出来るかもしれないと聞いて、行く土地の先々で尋ねております」
「ほう! 不思議な力を持つ何かとな! それは面白そうな話じゃ。うむ、都に知る物がおらぬかどうか、調べさせてみよう」
「本当ですか、ありがとうございます」
「礼には及ばん。このところヒマを持て余しておったところじゃ」
さらに上皇が何か話しかけようとした時、部屋の外の廊下にあわてた足取りで一人の武者がひざまずき、上皇に声をかけた。
「お上、火急の事にて」
上皇は舌打ちせんばかりに顔をしかめてその武者に答えた。
「これ、そちは気を使え。客人の相手をしておる最中ぞ」
「されど、関白様が帝のお女中の事にて、大変にお怒りのご様子にて、帝がお困りに、その……」
「藤原の忠道がまた騒いでおるか。娘が帝に入内したのじゃから無理はないが……いやはや、隠居も楽ではないのう」
そう言って上皇は立ち上がり、陽菜たちにこう言って足早に部屋を出て行った。
「すまんが用が出来てしもうた。明日、ゆるりと話そう。今宵は旅の疲れを癒されるがよい」
上皇が部屋を出て行った直後、フーちゃんは多分自分でも声に出している事に気づかなかった様子で、独り言を口にした。
「だとしたら、あの二人はここより過去の時代に行ってはいないのね……」
それが耳に入った陽菜は思わず問いかけた。
「え? フーちゃん、今何か言った?」
「あ、ううん、何でもないの」
フーちゃんはあわてて首を振って、作り笑いを浮かべた。
その夜、夕食中に陽菜がまたひと騒動起こした。漆塗りの御膳でしずしず運ばれてきたのはいいのだが、乗っていたのは白米のご飯にただのお湯をかけた椀と皿に乗った野菜の煮物がほんの少し。
「ちょっと! これだけじゃ足りるわけないでしょ!」
陽菜に詰め寄られて怯えた女官から陽菜を引きはがしながら明雄が場を取りなした。
「こら、よせ、陽菜。この時代の食事はこれが普通なんだよ。後でリュックの中の缶詰食べていいから……ああ、すいませんね。なんでもありません」
湯漬けの飯をかき込みながら陽菜はまだ小声でぶつぶつ言った。
「けど、ここ、上皇様とやらのお屋敷でしょ? 京の都の貴族ならもっといい物食べてるはずじゃない?」
「いや、この時代は都の上流貴族でも普段の食事はこんなものだったらしいぞ」
それから陽菜が缶詰を貪り食っている間に、明雄は持ってきたタブレット型パソコンをバッテリーで機動させ、女官たちが近くにいないのを確かめて何かの資料を調べ始めた。しばらくしてひとり言のように言う。
「どうやら、あの人物は鳥羽天皇だな。いや、もう譲位しているから鳥羽上皇か」