美冬がやってきた翌日は土曜日で夫は朝からサッカー観戦にひとりで出掛けていった。……円が生まれる前はふたりで楽しんでいた趣味だ。というか、夫に合わせてやっていたのだが。
サッカー自体は好きだ。面白い。けど……夫ののめり込みようは常軌を逸していて。サッカーがある日はナイトゲームでも朝から出かける。で待機列に並ぶ。勿論年間チケットは買っている。昼ご飯は試合中か試合の後に食べ、帰ってからもテレビでサッカー観戦をし(見たばかりの試合を何故もう一度見るのかわたしには理解出来ない)、それから風呂に入ってゲームをやって寝る。……のが彼の生活スタイルだ。
わたしは趣味を大事にしている。『本の虫さんのレビュー本当面白いです!』ブログを更新すると毎回5個ほどコメントがつく。俄然、やる気が出る。この趣味を初めて以来、わたしは、以前ほどサッカーにはのめり込めなくなった。週一回、丸一日を潰す趣味はわたしにとって負担が大きすぎる。ましてや、円はまだまだ手がかかるし、趣味を続けるには電車内だけでの読書では足りないのだ。土日のどちらか、しっかり読書する必要がある。
昨晩、――美冬。夫の浮気相手といったら、ご丁寧にも食事の提供、コンロ回りや換気扇、部屋の掃除以外に、洗濯物の処理や部屋の掃除、挙句は床磨きまでやってくれたのだ。ありがたいやら迷惑やら。――勿論、夫の浮気相手に借りを作りたくないという思いはある。
『いいんです。わたしがしたいからさせて頂いているんですから……』
『罪滅ぼしのつもり?』布団に横になったまま、わたしが強がりを言ってみれば、
『――罪だとは思っていません。正しいこととまではいいませんが……篤子さん。わたしは、篤子さんの家庭を壊すつもりはありません。それだけは、信じてください』
それを本気で言っていたのだとしたら女優顔負けだ。騙されたっていい。
美冬が帰った後、夫が帰宅したので聞いてみた。美冬の仕事ぶりといったら抜かりがなく――正直、お金を支払って雇いたいくらいだ。紘一は部屋を見回しただけで事態を把握したらしく、
『すげーだろ美冬。あいつ、本当にすげえよな』
わたしのコンディションがよければ夫をまたビンタしていたかもしれない。夫はそんなわたしの様子には気づかず、悦に入った様子で、そんなことを言う。わたしは腹が立ち、
「てかなんで円用の鍵を渡してんの。信じらんない。あれ、……円のための鍵なんだよ!」
うちは、分譲マンションなだけあってセキュリティがちゃんとしている。このマンションに引っ越してきたときに、鍵は四本貰った。それも、鍵穴に棒を突っ込むくらいでは簡単には開かない、見たこともないくらいにでこぼこで重厚なものを。スペアキーは業者に頼まないと作れない。なお、うち二本はエントランスにかざすだけで、鍵穴に鍵を差し込まずとも開く。その二本をわたしと夫で、残りの一本は義理両親で使っており、最後の一本はいずれ、円が鍵の管理を出来るようになったら渡すつもりだった。その、大切な鍵を……。
黙って浮気相手なんかに渡した夫が許せない。なにを――考えているのか。
「円が鍵なんか使えるのまだまだ先だろ。いいじゃんそれで。うちも綺麗になって平和なんだし……怒るポイントどこかある?」
「事前に相談する……」ここまで言ってわたしは咳き込んだ。いかん。ストレスも満載で、風邪の虫を撃退するのは元気がなさすぎる。必死でわたしは声を張った。「今後あのひとを呼ぶなら、事前に言ってちょうだい」
「分かった」と明らかに分かっていない夫が答える。「とにかく……美冬には色々任せちゃっていいから。あいつなんでも出来るから」
朝早く、じゃーな、と言ってあのひとは出かけていった。……馬鹿みたい。
顔を洗い、横になっているとインターホンが鳴った。見れば――美冬だった。
「お引き取りください」
「いえ」画面越しに見る美冬は、相変わらず美しかった。憎らしいほどに。「篤子さんが治るまで、しっかりと看病させて頂きます」
女は宣言し、エントランスで鍵を開き――入ったようだった。なかなか強引な女だ。
間もなく玄関で物音がして、「篤子さん。円ちゃん。お邪魔しまーす」
「あっみふゆちゃんだ」弾んだ娘の声。タブレットから離れ、玄関に向かう姿に愕然とした。――いつの間に、円はこんなに美冬に懐いたのか? パパの浮気相手だというのに。「みふゆちゃーん。あーそーぼー。トランプしよう?」
「いいわよ」と玄関から美冬の声。「でも先ず、手を洗わないとね」
突っ立ったままのわたしに向けて美冬が頭を下げる。「篤子さんおはようございます。篤子さんは寝てらしてくださいね」――美冬は、一目でカシミヤと分かる、ベージュのコートを着ていた。流行りのパーマをかけたヘアスタイルといい、コートの下から伸びた足が華奢で――女としても完全に負けていると思った。わたしは産後のストレスで8kg太って、いまだ戻せていない。黒歴史、というかまさにいまが黒歴史だ。
明らかに40kg台と思えるスリムな美冬はコートを脱ぐときびきびと動き、スーパーで食材を買ってきたのか、次々と食材を冷蔵庫に仕舞っていく。そんな美冬を邪魔せぬように、でも羨望の眼差しで円が見守っている。――この事実に愕然とした。この女をこれ以上、ここで――うろつかせるわけにはいかない。でも、いま、それを言うわけにはいかない。円のいないところで――穏便に切り出そう。わたしは覚悟を固めた。
「……お言葉にあまえて、休んできます……」
ノーメイクの頭ぼさぼさでパジャマ姿のわたしは、なにもかも――負けた気持ちになった。
* * *
――こんなにぐっすり眠れたのなんかいつぶりだろう。
と思えるくらいにぐっすり眠れた。
「ああ……篤子さん。お昼ご飯食べますか? お茶漬けと雑炊、どちらが食べたいですか?」
まさかこの女一日中ここにいるつもりなのか。――いま、何時だ?
げっ、と時計を二度見した。15時。お昼をとっくに過ぎている。にも関わらず、美冬は昨日と同じ花柄のエプロンを手早くつけ、「昨日はお雑炊だったから、今日はお茶漬けにしますね」と台所へと入っていく。
体調は相変わらず最悪だ。……が、深く眠れて気分はすっきりとしている。なんという皮肉。夫に――この女、美冬の存在を示唆されてから、胃の痛む日々を送っているというのに。あろうことか美冬になにもかもを任せたことで、体力を回復している。
娘の部屋を出てリビングを見れば娘は美冬とトランプをしていたようだ。最近ハマっている神経衰弱――をしている様子が見られる。何枚ものトランプのカードが床に散らばっている。
ちくり、と胸が痛んだ。――あれは、家族の大切なコミュニケーション。円とのやり取りは、犯されない聖域。たまに家族三人で遊ぶ――誰にも犯されない家族の聖域、だったはずが。
でも。例えば――娘が友達とトランプを始めたら、一抹の寂しさを感じるだろうけれども、納得するだろうに。納得出来ないのは、美冬が相手だから。夫の浮気相手が相手だから――なのだ。
とはいえ、肝心の円の姿が見られない。分かってはいつつもわたしは美冬に尋ねた。「……円は? 出かけていますか」
「はい。十時ごろにお友達が呼びに来て、いま公園に行っています。……あ、携帯電話はお持ちになりましたよ」
最近円はお友達を家に連れてくるようになり――一人っ子で、おもちゃを好き放題買いまくってゲームも揃った我が家は散らかっているのが難点だが子どもたちの絶好のたまり場ではある。この週末は『ママが風邪を引いているからおうちにお友達を連れてこないで』と円には言ってあったが。
太平洋側は天候もよいので、公園で沢山遊べる。羨ましい。日本海近くの漁村で育ったわたしには、無縁の世界だ。あっちはいつも、雨ばかり――だった。
「いろいろとありがとうございます」わたしは美冬に素直に礼を言った。エプロン姿の美冬は台所で準備をしているようだ。ケトルを使いこなし、ささっと茶漬けを用意する姿なんか――泣けてくる。
いや。ここで泣いたら負けだ……。ぼろぼろのコンディションながらもわたしは自分を保つよう、必死に努力した。
五分も経たないうちに、手際よく美冬は茶漬けを用意し、わたしの前に置いた。「……どうぞ」
ほっかほかのご飯に、梅干しがトッピングされたお茶漬け……この女、うちの冷凍の米や梅干しの位置まで把握しているのか……不覚にもそれはあまりに美味しそうだった。
「いただきます」
実際、美味しかった。あまりの美味しさにのたうち回りそうになった。ほかほかのご飯が汁をすすると入り込み、茶漬けの風味とご飯のあまみが口内でふわっと広がる――加えて梅干しの酸っぱい風味がアクセントとなり、超絶的に美味い。
わたしはあっという間に食べ終えた。「ご馳走様でした」
「お粗末様です」と美冬は茶碗と箸を手に取り、「――喉。乾いてらっしゃいませんか? スポーツドリンクを買ってありますのでお飲みになりますか」
「……あ。飲みたい、です……」わたしは正直に口にする。と、美冬はふ、と笑い、カウンター内に回り込んでシンクに食器類を下げると、冷蔵庫から、2リットルのペットボトルを取り出し、マグカップも持ってわたしの前にやってくる。
美冬は華奢なからだに不似合いなくらいの豊満なバストを揺らし、ぱきぱき、とペットボトルを開封するとマグカップに注いだ。「――どうぞ」
口にする。――と、すー、と胸の奥が澄み渡る感覚。ああ、染みわたるぅ……。美味しい。
あっという間に空にしたわたしを見て美冬が微笑した。「おかわり、なさいます……よね」
「はい。是非」
するとおかわりも美冬が注いでくれた。そしてわたしは飲み干す。そこで、咳が出て、まだ自分は万全ではないのだと悟る。わたしの様子に、美冬が悲しそうな顔つきで、
「お休みになったほうがよいですよ」とわたしの背中を押し、「……そうだ。夜ご飯、なにがよいですか? これから買いに行こうと思っていますが……。焼き魚とお味噌汁と白いご飯でよいですか」
屈辱的だが一刻も早く横になりたいわたしはこう告げた。「……はい。お願いします……」
結局美冬は、わたしと円のぶんの夕食を準備、後片付け、風呂の処理、洗濯物の処理……果てには円の歯磨きまで終えて、帰っていった。ここまでされると毒気を抜かれるというか……夫の浮気相手に借りを作ったことは勿論屈辱的ではあるが、美冬の親切な行動に助けられたのも事実で……円の遊び相手までやってくれて……わたしはあそこまでは出来ない……いろんな感情が渦巻く中、とにかく体調を戻さなければ。ひたすらわたしは休み、そして考え続けた。――自分の在り方というものを。
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