「じゃあ、こうしよか。お前らが素直にケイナの所有権を渡せば、このまま金を払って終わりにしたる。やけど、欲をかいてふざけたことを言うんやったら……」
ワイはゆっくりと視線を巡らせた。室内は重苦しい空気に包まれ、鼻につく獣脂の匂いが薄汚れた木壁に染みついとった。油の切れかけたランプが頼りなく明滅し、その光がテーブルや壁に不規則な影を作り出す。湿気を帯びた室内は息苦しく、まるでこの場に漂う緊張感そのものが粘りついているようやった。
ワイは静かに言葉を続ける。
「お前ら、半殺しにするで」
「「……っ!?」」
ピンと張り詰めた沈黙。護衛たちが一斉に身構えた。腰の剣に手をかける者。袖の奥に隠したナイフを忍ばせる者。額にうっすらと汗を浮かべながら、ただ鋭い視線で威圧を試みる者。それぞれが己のやり方で敵意を示していたが、全員が明確に警戒心を抱いているのがありありと伝わる。ワイの一言が、彼らの中に生存本能を呼び起こしたのが見て取れた。
「冗談じゃねえぞ、てめぇ!」
奴隷商の男が怒鳴った。彼の声は大きかったが、それを支える自信は脆い。机を握りしめる指先がわずかに震え、その額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「こないだ、リンゴ畑で俺に喧嘩売った連中、覚えとるか? リーダー以外の全員が”半殺し”にされて帰ってきたやろ?」
ワイは足をゆっくりと前に踏み出した。ギシッ――床板が悲鳴を上げるように軋む。その音だけが、不気味なほど静寂の中に響いた。まるで場の温度が一気に下がったかのように、護衛たちの表情が強張る。空気が変わったことを、本能で悟ったのだろう。誰もが微細な動揺を見せた。
一歩、また一歩。まるで逃げ場を削るように間合いを詰める。重い沈黙が支配する中、誰かの息が浅くなったのがわかった。護衛の何人かは無意識に後ずさる。額に汗が滲み、喉が上下する。獲物を前にした獣の本能的な反応。殺気は伝染し、場を満たす空気すら粘つくように変わっていく。
「うっ!? え、得体の知れない強さを持つとは聞いていたが……これほどとは……!!」
震えた声が空間を裂くように響く。護衛たちの視線が揃ってワイに突き刺さるが、誰一人として動こうとはしない。いや、動けんのかもしれん。
ワイは片眉をわずかに上げ、薄く笑った。
「今さら気付いても遅いんちゃうか」
静かに告げた一言が、誰かの喉を鳴らせた。奴隷商の男が、それでも勇気を振り絞ったのか、震える声で尋ねる。
「……な、何者なんだ、てめえ……」
ワイは口元を歪め、軽く肩をすくめてみせた。
「ただのリンゴ農家や。ああ、最近になってマンゴーも作り始めたけどな」
その瞬間、場に妙な沈黙が生まれた。場違いなほど淡々とした言葉に、護衛たちの思考が一瞬だけ停止したのがわかる。
コン、コン。
ワイは指で机を叩いた。単調な音が広がり、場の静けさをさらに際立たせる。奴隷商の男は息を詰め、視線を彷徨わせた。顔にははっきりとした逡巡の色が浮かんでいる。目の前の状況をどう処理すればいいのか、決めかねているのが見え見えだった。
「で、どうする?」
ワイの声は低く静かだった。しかし、その静けさの奥に孕んだ圧は冷たく、まるで逃げ道を塞ぐようだった。この状況での”正しい答え”は一つしかない。奴隷商の男は、それを理解しているはずだった。
男は何か言おうと口を開いたが、すぐに閉じる。喉が上下し、額の汗が一筋流れ落ちる。拳を握りしめたまま、迷いに迷った末、しぶしぶと絞り出すように言った。
「……わかった。違約金は無しだ。売買契約の金だけを受け取る。これで、ケイナの所有権はお前のものだ」
その言葉を聞いた瞬間、部屋に張り詰めていた緊張がわずかに緩む。護衛たちの肩が、ほんのわずかに落ちるのが見えた。
「最初からそうしときゃよかったんやで」
ワイは契約書を受け取ると、指先でつまみ、じっと視線を落とした。紙の感触はざらついていて、長年使い込まれた帳簿のような湿気を帯びている。薄暗い室内に灯るランプの明かりが、紙の上の黒々とした文字をぼんやりと浮かび上がらせた。護衛たちの視線が、ワイの指先の動きに合わせて揺れる。焦りとも苛立ちともつかぬ表情を浮かべながら、彼らは微かな息遣いすらも抑え込んでいた。
ワイが疑っているのは、ただの言葉ではない。この紙に刻まれた契約の文言が真実かどうかではなく、ここにいる連中の誠意そのものや。何もかも信用できへん世の中やからこそ、慎重にならざるを得んのや。
指先が紙をなぞるたび、わずかに擦れる音が室内に響く。その小さな音すら、今のこの場では妙に大きく感じられた。やがて、文面を一字一句確認し終えると、ワイは契約書を静かに机の上に戻した。
「これで、お前らと俺は”無関係”になったってことでいいんやな?」
張り詰めた空気の中で、ワイの声だけがはっきりと響いた。
「……あ、ああ……」
奴隷商の男は先ほどまでの威勢が嘘のように消え、かすれた声で答えた。先ほどまで偉そうにふんぞり返っていた肩が、いまや小さく縮こまっている。護衛たちも同様や。彼らは武器を元の位置に戻し、安堵とも敗北とも取れる表情を浮かべながら息をついた。
だが、ワイは彼らの気が緩むのを見逃さなかった。
「なら、二度とワイの果樹園に近づくなや」
冷たい声が空間を凍らせる。まるで夜気が室内にまで入り込んできたかのように、奴隷商の男はわずかに息を飲んだ。目の前にいるのは、ただの果樹園の主やない。自分たちのやり口を理解し、交渉を主導し、いざとなれば容赦なく牙を剥く相手やと悟ったのかもしれん。男は無言でこくりと小さく頷く。それが彼の唯一の返答やった。
それを最後に、ワイは踵を返した。奴隷商の店を後にし、重い扉を押し開ける。
夜の空気が肌を撫でる。店内の粘ついた空気とは違い、外はひんやりとしていて、湿った闇の奥に微かな星明かりが瞬いていた。ワイは深く息を吸い込む。鼻腔を満たすのは、金で汚れた店内の匂いではなく、夜露に濡れた静寂の匂いや。
ワイは無言で歩き出した。背後の扉が静かに閉まる音が、遠ざかる足音の中に消えていく。
こうして、ケイナは正式に自由の身となったんや。
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