ワイが果樹園に戻ると、ケイナが不安そうな顔で待っとった。
夕陽に照らされた彼女の横顔は、どこか儚げやった。赤く染まる光がその頬を柔らかく包み込むも、目元の影がかえって不安げな表情を際立たせとる。小さな肩がわずかに震え、裾を握る細い指先は血の気を失って白くなっとった。指に込められた力の強さが、彼女の内心を物語っとるようや。
土の匂いが鼻をくすぐる。昼間の熱をわずかに残した地面は、夕闇に沈むにつれて冷たさを増してきとる。吹き抜ける風も、さっきより冷えてきた気がする。果樹の葉がさわさわと揺れて、枝がかすかに軋む。その音が静けさを際立たせ、どこからか聞こえる鳥の鳴き声すら、遠い幻のように感じるほど、果樹園はしんと静まり返っとった。
ケイナの瞳がワイを捉える。その瞳には、不安と期待がないまぜになった複雑な色が浮かんどる。まるで、ワイが次に発する言葉ひとつで、すべてが決まると悟っとるみたいやった。
「ナージェさん……どうなったの?」
小さな声やった。普段はもっと落ち着いてるはずの彼女の声音が、わずかに震えとる。いつものケイナなら、感情をあまり表に出さんはずやのに――無理もない。今日という日は、彼女にとって運命の分岐点なんやから。
ワイはゆっくりと息を吐いた。肺の奥に溜まった空気を押し出すと、張り詰めた緊張がわずかにほぐれる。焦ることはない。言葉を急げば、その重みも薄れるだけや。ワイは静かに懐へと手を差し入れた。指先が触れたのは、一枚の紙。まだわずかに温もりを残した契約書や。ついさっきまで強く握りしめていたせいか、紙は少し湿っている。それは、彼女を長年縛り続けた鎖を断ち切る証やった。
「……これで、お前はもう自由や」
ワイは契約書を取り出し、ケイナの前に差し出す。彼女の瞳が揺れる。驚きと戸惑いが入り混じり、恐る恐る紙へと手を伸ばす。指先がわずかに震えていた。まるで壊れものでも扱うかのように慎重に触れ、その質感を確かめるように紙の端を撫でる。
「……!」
小さく息をのむ気配。ケイナは目を見開き、恐る恐る紙を開く。指の腹が端をなぞり、そこに確かに刻まれた文字を追う。彼女の唇がかすかに震え、か細い声がこぼれた。
「本当に……?」
信じたくても信じられない、そんな感情がにじみ出ている。長い間、彼女の人生は自分のものではなかった。自由なんて、ただの夢物語やった。それが今、手の中にある。簡単に受け入れられるはずがない。
「ああ。お前はもう、奴らに追われることはないで」
ワイは口の端をわずかに持ち上げて、笑ってみせた。けれど、それはただの慰めの笑みやない。ワイの中には確信があった。ケイナは、この自由を無駄にはせん。彼女なら、ここでも、どこでも、自分の人生をしっかり歩いていける。
「名目上はワイの奴隷になっとる。……前はここで働け言うたけど、無理強いするつもりはないで。ここに残るのも自由やし、どこへ行くのも自由や」
ケイナはじっとワイの言葉を噛みしめるように立ち尽くしていた。風が果樹の葉を揺らし、甘い果実の香りが微かに漂う。
彼女の瞳がかすかに揺れた。まるで、自由という言葉の意味を慎重に確かめようとするかのように。何年もの間、ただ生きるために命令に従い、逆らうことなど考えもしなかった身や。突然「自由」などと言われても、それがどんなものなのか、本当に自分が手にしていいものなのか、簡単には信じられへんのやろう。
ケイナはそっと唇を噛んだ。指先が小さく震えている。
「……私が、自由……」
ぽつりと漏れた言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、信じようとする試みのようでもあった。
ワイは何も言わずに彼女を見守った。急かすつもりはない。ケイナ自身が、自分の答えを見つけるまで待とうと思った。
やがて、彼女の表情がふっと緩む。小さく、けれど確かに微笑んだ。まるで長く凍りついていた心が、ようやく解け始めたかのように。
「……ナージェさん。私、ここにいたい」
震えた声。でも、その言葉はまっすぐやった。長い間、心の奥底に押し込めていた願いが、ようやく形を持ったような響きやった。
ワイはしばし彼女を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「そうか。じゃあ、これからは正式に仲間やな」
「え……?」
ケイナの目が驚きに大きく見開かれた。まるで、自分の耳を疑っているようやった。
「リンゴだけやなく、マンゴー農園もどんどん広げるつもりや。人手がいるし、お前の力も必要になる。だから、一緒にやらんか?」
ワイの言葉は淡々としていた。でも、それはただの提案やなく、明確な意志を持ったものやった。ただ自由を与えるだけでは、ほんまの意味での「救い」にはならん。生きる場所があっても、自分の役割を持たへんかったら、それはただの空っぽな場所や。せやから、ワイは彼女にこの農園を「自分の場所」にしてほしいと思った。
ケイナは驚きのまま、じっとワイを見つめていた。その瞳の奥で、感情が揺れ動いているのがはっきりとわかった。
「……私が……役に立つ?」
それは、確かめるような呟きやった。今まで、誰かの役に立ちたいなんて思ったことはなかったんやろう。ただ、生き延びるために働いて、ただ命令されるまま動いて……。でも、今は違う。
少しずつ、彼女の中で何かが変わり始めるのをワイは感じていた。
ケイナはふっと目を閉じ、一度深呼吸する。そして、もう一度ワイをまっすぐに見た。そこに迷いはなかった。
「うん! 私……ナージェさんの役に立ちたい!」
その声は、これまでとは違う強さを持っていた。怯えや不安ではなく、自分の意志で選んだ者の声。かつての囚われの少女ではなく、新しい人生を歩もうとする人間の声やった。
ワイは満足そうに頷いた。
こうして、ワイとケイナの新たな生活が始まった。
しかし──。
この急成長する果樹園の噂は、すでにいろんな奴の耳にも届いていた。
次なる脅威は、すぐそこまで迫っていたんや。