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一度きりのつもりだった夜が、いつのまにか週に二度、三度と積み重なっていく。舜太自身、それをどう説明していいのか分からなかった。深夜間近に仕事を終え、まっすぐ家に帰る気になれない夜は決まって、あの看板のない店の扉を押している。理由を探せば、いくらでも見つかった。酒がうまいから。静かだから。誰も自分の事情を知らないから。だが本当は、そのどれでもない気がしていた。
「また来たんだ」
カウンターの向こうで、柔太朗は驚いた素振りも見せずに言った。驚かないことそのものが、まるで最初から舜太が戻ってくると分かっていたかのようで、舜太は少しだけ悔しくなる。
「暇なんで」
「暇な人が、こんな時間に、こんな分かりにくい店を三日連続で見つけられるとは思えないけど」
痛いところを突かれて、舜太は苦笑いでごまかした。柔太朗はそれ以上追及せず、いつものように静かにグラスを整えていく。その所作の一つ一つに無駄がなく、見ているだけで妙に落ち着く自分がいることに、舜太はまだ気づいていない。
その日から、二人の間には少しずつ、他の客には見せない空気が生まれ始めた。この店は、閉店までの時間帯を基本的に柔太朗一人で任されているらしく、舜太が訪れる度にカウンターに立っているのは、いつも決まって柔太朗だけだった。他のスタッフの気配すら感じたことがない。柔太朗は他の常連には向けない軽口を舜太にだけ叩き、閉店間際になると、灯りを一段落として「もう看板しまうから、ゆっくりしていって」と、まるで秘密を分け合うように囁く。舜太はその声の低さとほんの少しだけ混じる甘さに、いつも小さく喉を鳴らした。
「ここだけの話にしてよ、って言われたら、舜太くんはちゃんと守れるタイプ?」
ある夜、柔太朗はグラスを磨きながら、試すようにそう尋ねてきた。目は笑っているのに、声には冗談以上の温度がある。舜太は椅子の背にもたれ、わざとゆっくりと答えた。
「守るも何も、誰かに話す相手もおらんし。──それに」
「それに?」
「内緒でしよ、って言われると、逆に興奮するタイプなんで」
柔太朗が一瞬、手を止めた。その反応を見逃さず、舜太は口の端を上げる。自分でも驚くほど、すらすらと素直に言葉が出た。荒れていたはずの心のどこかで、この駆け引きだけが妙に鮮明に感じられる。柔太朗が意図的に距離を詰めては、するりと逃げていく。その繰り返しに、いつしか自分から進んで絡めとられにいっている自覚があった。
「面白いこと言うね」
柔太朗はそう言って、いつもより少しだけ長く舜太の目を見つめた。その視線には、値踏みするような色と、微かな愉しさが同居している。柔太朗にとってこれは、単なる遊びの延長でしかないはずだった。少し危うい人間に、少しだけ危うい言葉を投げて、その反応を楽しむ。それだけのことのはずだった。
けれど、舜太の反応は、柔太朗が想定していたものよりいつも一歩先を行く。
「なぁ、柔太朗さんって、店の外でも会ってくれたりします?」
「営業時間外は、基本的にはだめ」
「基本的には、ってことは例外もあるってことですよね」
柔太朗は答えず、ただグラスを磨く手を再開させた。だがその沈黙こそが、答えの代わりだと舜太は理解していた。誘っているのは自分のはずなのに、なぜか主導権を握られている気がする。そのちぐはぐな感覚こそが、今の自分には刺激的だった。
「誘ってるんだから、はぐらかすなら、もうちょい上手にやってくださいよ」
舜太はグラスの縁を指でなぞりながら、笑って続けた。
「──せっかくなら、上手に騙してよ。中途半端にはぐらかされる方が、よっぽど惨めですよ」
その言葉に、柔太朗は少しの間、返答を選びかねるように黙り込んだ。誘惑する側のはずの自分が、なぜか試されている。そんな感覚を覚えたのは、随分と久しぶりのことだった。人間を相手にする時、いつも一歩引いた場所から状況を見ていた。相手がどこまで踏み込んでくるか、どこで退くか。すべて計算の範囲内に収まっているはずだった。
だが、目の前の男は、その計算をどこか涼しい顔で外れていく。
「──分かった。今度、店を閉めた後にでも」
気づけば、そう答えている自分がいた。内心で小さく驚く。誰かを外に連れ出す約束をするなど、この何十年もしたことがなかった。
「ほんとに? 楽しみにしとくわ」
舜太は満足そうに笑い、残りの酒を飲み干した。その笑顔には、出会った夜にあった投げやりな翳りが、わずかに薄れているように見える。
窓の外では、今夜も細い雨が降り始めていた。柔太朗はグラスを片付けながら、ふと自分の内側にある小さな違和感に気づく。今夜の流れは、最初から自分が描いていた筋書きとは、少しだけ違う場所へ向かっている。
──それでも、まだこの程度なら、遊びの範囲内だと。柔太朗はそう自分に言い聞かせていた。
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