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約束の夜は、思っていたよりもあっけなく訪れた。
閉店の札を掛けた柔太朗は、いつもの装いの上にコートだけを羽織り、店の裏口から舜太を促した。夜の空気はまだ微かに湿っていて、夕立の名残がアスファルトの匂いに滲んでいる。並んで歩くのは、これが初めてだった。カウンター越しに見ていた時よりも、柔太朗の歩幅は小さく、隣にいるとどこか庇護欲をそそる頼りなさがある。舜太はそれを新鮮に思いながらも、口には出さなかった。
「深夜ですけど、どこ行くとか、決めてます?」
「特には。舜太くんが行きたいところでいいよ」
「そういうの、一番困るやつです」
軽口を交わしながら歩くうち、二人は近くの小さな公園に辿り着いた。人気はなく、街灯だけがぽつぽつと灯っている。行くあてもなくベンチに並んで座ると、柔太朗はどこか居心地悪そうに視線を空へ向けた。
「柔太朗さんでも、こういうとこ、緊張したりします?」
「──さあ、どうだろうね」
はぐらかすような答え方だったが、所在なさげな視線と、その声にはいつもの余裕が、ほんの少しだけ薄れていた。舜太はそれを見逃さなかった。この人の取り繕って見える均衡を崩すことに、いつからか自分でも制御できないほどの興味を覚えている。
「今日は、何のために誘ってくれたんですか」
「舜太くんが誘ったんだと思ってたけど」
「まぁ、そうですけど。──乗ってくれた理由、知りたいんです」
柔太朗はしばらく黙っていた。答えを探しているというより、答えを持て余しているような沈黙だった。街灯の光が、彼の白い横顔に淡い影を落としている。舜太はその横顔を見つめながら、自分の胸の奥が、酒のせいとは思えない速さで鳴っているのに気づいた。
「──さあ。ただの気まぐれ、かな」
柔太朗はそう言って、こちらを向いた。涼しげな瞳の奥に、いつもの観察するような色と、何か別のものが混じっている。舜太はその視線から目を逸らせなかった。
どちらが先に距離を詰めたのか、後になって思い出そうとしても、舜太にはうまく順序立てられなかった。気づけば、柔太朗の長い指がゆっくりと舜太の頬をなぞって、すっと顎に触れた。拒む隙も与えず、軽く顔を上向かせる。驚きに目を見開いた瞬間、表情の読めない伏目がちな視線にぞくっとして。次の瞬間には、唇が重なっていた。
柔太朗にとって、キスは道具のようなものだった。距離を測るための手段であり、相手の反応を引き出すための駆け引きの一手に過ぎない。何百回と繰り返してきた行為に、特別な意味などあるはずがなかった。
──そのはずだった。
だが、舜太の唇は思いのほか性急で、柔太朗が主導するはずだったその一瞬を、あっという間に奪い去っていく。触れるだけのつもりが、深く食まれ、吐息が混じり合う。柔太朗の頭の奥で、いつも冷静に働いているはずの計算が、一拍だけ止まった。
──おかしい。
意味のないはずの行為に、意味が生まれかけている。その違和感に気づいた瞬間、柔太朗はわずかに体を引いた。舜太はそれを追いかけるようにもう一度、今度はゆっくりと唇を重ねる。まるで、逃がすつもりはないとでも言うように。
しばらくして唇が離れた時、舜太は上気した頬のまま、どこか夢見心地の表情で笑っていた。
「……なんか、これは反則な気がするわ」
「反則?」
「柔太朗さんの方が、絶対キス慣れてるやろうに。なんか今の、変な感じしたし」
言い当てられて、柔太朗は珍しく言葉に詰まった。何百回と重ねてきたはずの行為の中で、こんな感覚を覚えたのはいつ以来だろうか。思い出せないほど遠い記憶を探ろうとして、柔太朗はふと自分の反応そのものに戸惑う。
「──気のせいだと思うけど」
「そうですか? まぁ、ええですけど」
舜太はそう言って、また笑った。その笑顔には、初めて会った夜にあった投げやりな翳りが、もうほとんど見えない。代わりに、何か確かなものを見つけたような、静かな熱だけが残っている。
柔太朗は隣に座る男の横顔を見つめながら、ゆっくりと自分の唇に触れた。まだそこに、先ほどの熱の余韻が残っている気がした。
夢見心地。そんな言葉が、ふと頭をよぎる。誘惑する側だったはずの自分が、こうして立ち止まって余韻に浸っている。それがどれほど珍しいことか、柔太朗自身が一番よく分かっていた。
「そろそろ、帰ろうか」
「もう少しだけ、こうしとってもいいですか」
舜太が隣に肩を寄せてくる。柔太朗はそれを拒まなかった。夜の公園に、二人分の吐息だけが静かに白く滲んでいく。
──これはまだ、遊びの延長のはずだ。
そう自分に言い聞かせながらも、柔太朗の中で、その言葉はどこか虚ろに響いていた。