災厄――それは人に忍んで心を蝕む、太古の不浄なり。
人の疑心と恐怖を糧として増大し、やがてその地を滅ぼす。
然れどこのカナン、不可視の五大精霊が災厄から守りし神聖国なり。
カナンに生まれし民は、髪色に現るる精霊の加護と特性を得たり。
赤色は火の精霊、青色は水の精霊。
緑色は風の精霊、茶色は地の精霊。
そして目映い輝色は光の精霊。
ただし災厄の黒をまとう〝色なし〟は、精霊に忌まれてその守護はなし。
◇・◇・◇
「――ねぇ、ヴァン」
カナンの王都から、北方のカスダール辺境伯領に向けて駆ける馬車の中、透き通るような蒼い瞳をした貴族令嬢が嬉々として、向かい側に座る男性従者に語りかけた。
「ローが白の騎士団に入団して半年。猛将として名高いお父様のような体格になっているかしら。細かったあの身体に、筋肉がムキムキと……」
光の粒子を散りばめたような、煌びやかな銀色の髪。
凛とした美貌は冷ややかな印象が強いものの、気心知れた従者と話す姿は、どこかあどけなく可愛らしい。
十八歳になったばかりの彼女は、カナン一の美女と謳われる現王妃の妹。
代々王軍を司る将帥職を踏襲してきた名門貴族――カスダール辺境伯家の次女、ルクレシア・カスダールだ。
「無理ですね」
無邪気な声をすぐに否定したのは、左耳に青い石の耳飾りをした、五歳年上の従者――ヴァンだった。
髪と瞳は日陰ではほぼ黒色だが、光を浴びるとわずかに青みを持つ。
野性味溢れた美丈夫な男で、鍛え抜かれた精悍な肉体の持ち主であることは、服越しからもよくわかる。
「いくら筋肉隆々の旦那様の実子といえども、ローラント様はルクレシアお嬢様に瓜ふたつな双子の弟ですよ。半年の鍛錬程度でローが劇的な変化を見せるなら、あなたはとうにムキムキの筋肉令嬢です」
ヴァンの視線を浴びたルクレシアは、ドレス越しからでもわかるほど、華奢な体の持ち主だ。どんなに身体を鍛えても非力そうに見えるのが、彼女の悩みのひとつでもある。
それを指摘されて悔しいルクレシアは、少しだけ偉そうな態度をとり、口調や声色を変えて、弟――ローラントの真似をした。
「『いやだな、ヴァン。僕だって騎士団に入れば変わるよ。真面目なヴァンやルーとは違って、父上の過酷な稽古から逃げてばかりいたのは昔の話。この半年、筋肉男子しかいない騎士団で、僕はついに目覚めたんだ。もうルーにも負けない!』……」
「……まず、ないですね、そんなことは」
「『そんな! 僕は大好きなヴァンに褒めてもらおうと努力して……』」
ルクレシアは両手の指を組んで必死な顔を作るが、ヴァンは淡々と返す。
「俺が褒めてあげるのは、あなたの特技の方。さすがですね、女装をして髪を長くさせたローラント様にそっくり。昔のようにまた騙されそうになりましたよ」
パチパチと乾いた拍手を聞きながら、ルクレシアは不服そうに口を尖らせる。
ローラントの物真似は昔から得意で、よく弟と入れ替わり、ヴァンを騙しては喜んできたが、いつしかヴァンに見破られるようになり、今ではこうして子供扱いされる。
さらにヴァンは澱みない瞳で、どこか落ち着きないルクレシアの心を暴くのだ。
「ローラント様に早く会いたい一方で、不安なんでしょう? いつも一緒にいた双子が、半年も離れていたのは初めて。再会した弟が変わってしまっていやしないかと」
図星を指されたルクレシアは、言い淀んだ。
「ローラント様は変わりませんよ、きっとこの先も。それはお嬢様も同じく」
その言葉に、ルクレシアはゆっくりとヴァンを見ると、彼はおどけたように肩を竦めた。
「たとえ令嬢らしい淑やかな姿になっても、お転婆で豪快なまま。立ち寄った王都ではごろつきを派手に制圧しているし、ローラント様と一緒に食べるつもりのカナンサンドを、持参金をすべて使って買い占め、ごろつきに絡まれていた子供たちに全部あげているし」
「見ていたの?」
驚くルクレシアにヴァンは頷いた。
「戻りが遅かったので。誰かさんは見られていたのも知らずに、お金を落として買えなかっただとか言い訳をしていましたけどね」
「……ヴァンには隠しごとはできないわね」
ルクレシアは深いため息をついた。
「当然です。今までどれだけ俺が、やんちゃな主の面倒をみてきたと思っているんですか。光の精霊の強い加護を受けて、尋常この上ない武術のセンスを持つあなたを!」
「まあ、ありがとう」
「そこ、照れるところではないですから! 見た目はか弱い麗しの令嬢なのに、どんな剣でもぶんぶん振り回して、戦いと筋肉に目をきらきらさせるなんて……詐欺ですよ、詐欺!」
主に対してずけずけと突っ込むことができるヴァンは、ルクレシアが十歳の時、辺境伯である父が拾ってきた孤児だ。
血だらけで高熱を出していたため、家族全員で介抱をした。その甲斐あってすぐに回復した後、辺境伯の決定によりカスダール家の使用人として屋敷に住むことになった。
年の離れた姉が嫁いで寂しかったルクレシアと、双子の弟ローラントがヴァンにひどく懐いたことから、ヴァンは使用人でありながら双子の兄であるかのような厚遇を受けた。
ヴァンは武術に秀でて頭もよく、特に辺境伯に恩を感じて礼儀正しく振る舞っているが、双子しかいない時は、おおらかで自由な気風も口の悪さも隠さない。
そうした姿を見せることを強く望んだのは、ルクレシアだ。
他の使用人も驚くほどの堅苦しい態度をやめ、もっと親しく接してほしいと頼んだ。
――お嬢様。私は旦那様のお慈悲で厚遇を受け、おふたりとご一緒に武術の鍛錬までさせていただいておりますが、本来なら皆様と同じ屋敷で寝食をともにできる身分ではありません。お心は嬉しいですが、お立場をわきまえてくださいますよう。
しかしそれで引き下がるルクレシアではなかった。
自分が頼んでもだめならと、弟と結託して家族をけしかけ、あの手この手と説得を試みたため、ついにヴァンは降参して双子がいる時はかしこまることをやめた。
――まったく、とんだやんちゃなお嬢様とお坊ちゃまだ。
呆れ返っていたものの、ヴァンの顔はとても嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
それを見てきゅんとした心がなんだったのか、ルクレシアは今でも謎であるが。
「お嬢様は王妃の妹で、社交界で話題をかっ攫った〝艶麗なる銀薔薇〟。少しはおしとやかに……」
途端にルクレシアははっと昔を思い出し、両手で顔を覆って嘆く。
「社交界……忌々しい思い出だわ。初めてのお洒落を見世物にされたあの恥辱! そして今なおわたしの肩書きとしてついて回るおかしな異名! あの時ヴァンが同行してくれていたら、わたしはあんな針の筵の中にひとりきりで耐えずにすんだのに」
三年前のデビュー以降、宴に出ないでいられるのは、辺境伯が豪傑で寛容だったからだ。
縁談は山のようにあるし、他の貴族からなにか探りたい情報があった時に、宴に顔を出せばいい。娘が舞踏会や夜会、お茶会に出ないからといって困る家ではないからと。
辺境伯ことボーガン・カスダールは、八年前のアルマ征討の際に右腕を失ってから王軍の将帥を退き、今は軍事顧問としてオリヴァー王に仕えている。
心身共に屈強で、異国の者も恐れをなすような次期将帥になりえる男子には恵まれなかったが、彼の血を引く一男二女の子供たち全員が希少な光の精霊の加護を受けたこと、また長女が王妃になったことで、外戚の辺境伯家として力を失わずにすんでいた。
「誉れ高い光の精霊の加護を受けた貴族令嬢が、俺みたいな従者にエスコートされて社交界デビューした方が恥辱的ですって。カスダール家がいい笑い者になるだけです」
ヴァンの言葉に、ルクレシアは大真面目に反論する。
「ヴァンはわたしの従者であると同時に、主従を超えた……幼馴染や家族以上の存在よ。そんな大切な男性にエスコートされてデビューすることのなにがいけないの?」
熱のこもった愛の告白めいているが、彼女にはそのつもりもなければその自覚もない。
それをよく知るヴァンは、頭を抱えて深いため息をついた。
「まったく、このお気楽なお嬢様は。俺がせっかく……」
「せっかく?」
「……大人の男を、無自覚で煽るなってことです」
時折こうして、不意打ちのように口調を変え、優しく甘い眼差しを向けてくる。
それはどこまでも見知らぬ大人の男のようで、ルクレシアはヴァンに置き去りにされた心地になり、妙に焦ってしまう。
「わ、わたしだって大人よ。十八歳になったんだもの。子供扱いしないで」
……だからだろう。胸の奥がとくりとくりと、急いた音をたてるのは。
「では……こんな不敬な俺を見限り、主をやめて俺を捨て去りますか?」
挑発的な眼差しを向けて聞いてくるヴァンに、ルクレシアは鼻で笑ってやった。
「そんなわけないでしょう? わたしはヴァンの主をやめないし、捨てるものですか」
即答を受けて、ヴァンはわずかになにかを双眸の奥に揺らめかせたが、それを誤魔化すように目を細めて和らげると、窓の外に視線を向ける。
「お、着いたようですね」
馬車が停まると、ルクレシアはドアを開いてひらりと飛び降りた。
ローラントは半年前より、光の精霊の加護を受けた貴族令息だけに入団義務がある、白の騎士団に入った。心から羨ましがるルクレシアとは反対に、彼は渋々だった。
――ルーはいいな、ヴァンといつも一緒にいられて。
ローラントのヴァン好きは、ルクレシアに負けていない。
昔はヴァンの独占権を巡ってローラントと真剣勝負した。圧勝したルクレシアが、自分こそがヴァンの主だと公言して連れ回しているが、ローラントはヴァンがしているのによく似た異民族風の耳飾りを左耳につけ、兄弟みたいな絆を誇示したまま騎士団に入った。
そんな弟が、昨日突然にルクレシアに伝書鳩を飛ばしてきた。
『ルー、休暇が取れた。明日家に戻る前に、よく遊んだ領地の丘でふたりきりで会いたい』
ヴァンより先に会いたいなど、可愛いところがあると嬉しくなったルクレシアは、待ち合わせの小高い丘でふたりが大好きなカナンサンドを食べようと、王都に寄ったのだ。
「姉弟の感動の再会を果たしたら、すぐにローをヴァンにも会わせてあげる。あなたもすぐに会いたいでしょうけど、ローが先にわたしにふたりきりで会いたいと望んだの。わたしを最優先にしたこと、悪く思わないでね。良い子でここで待っているのよ」
それは子供扱いしたヴァンへの意趣返しだ。
「はいはい。念のために聞きますが、ひとりで大丈夫ですか?」
「ヴァン。そのセリフ……誰に言っているの?」
穏やかだった碧眼に、挑発めいた戦意を宿らせ、ルクレシアは超然と笑う。
ヴァンは忌々しげな顔となり、彼が携帯していた剣を鞘ごと放り投げる。ルクレシアは、片手でそれを受け取った。
「ふふふ。次の手合わせではぜひ、わたしに勝ってね。期待してるわ、我が愛しの従者」
「いいから、さっさと行って、ローラント様と戻ってきてください!」
「あはははは。じゃあ行ってきます」
従者より強い主は、令嬢とは思えぬ速さでなだらかな坂道を駆け上った。
「……なに?」
ルクレシアは怪訝な顔で、鳥肌がたった首筋に手をあてる。
丘陵の頂に近づくにつれ、悪寒のような不快なものが走るのだ。
ルクレシアの中で警鐘が鳴っている。
この先、近づくな。ここで引き返せと。
ローラントを連れて、早々に立ち去った方がいいのかもしれないと思いながら、ルクレシアは慎重に足を進め、丘の上に行き着いた。
「ロー?」
そこには弟の姿はなかった。
いやな予感がしてあたりを見渡すと、横になって眠っている後ろ姿が見えた。
「なんだ……。またここで昼寝をしていたのね」
ほっとしたルクレシアは、弟に近づいて腰を屈めると、その肩を叩く。
その振動でふわりふわりと、ルクレシアと同じ銀色の短髪が揺れ、淡青色の耳飾りが見えた。
「ロー、起きて。姉様が来たわよ」
肩を引き寄せるとごろりと横転し、騎士団の白い軍服を着たローラントがこちらを見た。
その顔は――生気がなかった。
「……え? 冗談はよして、ロー……!」
そしてルクレシアは見る。
ローラントの胸の位置にある、横に伸びた……鮮やかな一太刀を。
迷いなき見事な刀傷からは血がどくどくと流れ、草むらを血溜まりにしていた。
ルクレシアは慌ててドレスの裾を裂くと、ローラントの傷口を塞ぐ。
「ロー……しっかりして。目を開けて!」
だがすぐにその布は、真っ赤に染まりゆく。
「ロー、ロー……いやよ、いや……! いやああああああ!」
ルクレシアは慟哭した。
◇・◇・◇
「ロー! 目を開けて、お母様に返事をして――っ!」
いつも明るい母は、綺麗に清拭されたローラントに縋って泣き崩れ、いつも豪胆な父は片手で覆った自らの顔を天井に向け、嗚咽を漏らしている。
ローラントの指には、青い石がついた指輪が嵌められていた。
ローラント用にしては大きく、ヴァン好みのデザインだったことから、ヴァンにプレゼントをしようと先に嵌めていたのだろう。
そう思ったルクレシアは、先にそれを抜き取るとヴァンに渡した。
ヴァンはその指輪を握りしめたまま頭を垂らし、その身を震わせている。
ルクレシアは、悲しみに暮れる部屋の中で、悔悟に唇を噛みしめていた。
双子なのに、ローラントの危機を察知できなかった。自分の非力さを呪いながら、悲しみと怒りが痛恨の念となってルクレシアに渦巻き、気がおかしくなりそうだ。
泣きたくなるのをぐっと堪えて、毅然としてルクレシアは父に問うた。
「お父様。騎士団の記章というものは、騎士団員に複数個、配給されるものですか?」
「ひとり一個が原則だ。王から下賜された騎士の証だからな」
「もし紛失したら?」
「然るべき手続きをとって申請をしないといけない。……それがなんだ?」
ルクレシアは丸めていた手を開いて、記章を見せる。
「ローが握っていました。しかし彼のものは服にあります。だからこれは……ローがもぎとった犯人のものかと」
辺境伯は記章を手に取るとじっくりと見てから、ルクレシアの手に戻した。
「本物の白の騎士団の記章だ。だったらローラントは、仲間に殺されたと?」
「確証はありませんが。あのローが記章しか奪えないのなら、かなりの腕の持ち主」
「……そうなるな。一太刀で死に至らしめたあの傷は……かなりの手練れのものだ」
横殴りの雨が嵌め殺しの窓に叩きつける音を聞きながら、ルクレシアは言った。
「お父様、お願いがございます。ローが殺されたことはしばし伏せ、このルクレシアを、ローが所属する白の騎士団へ入団させてください」
冷ややかな色をした碧眼の奥には、燃え盛る炎にも似た激情が揺らめいている。
「父上と姉上のお力でどうか、わたしが自由に動けるようにお力添えを」
その申し出に、強面で隻腕の辺境伯は面食らう。
「騎士団は女人禁制だぞ? いくらなんでも法令を変えることは……」
「承知しております。法令を変える必要はございません。ルクレシアに策があります」
「どんなものだ?」
ルクレシアはゆっくりと歩き、壁に飾ってある剣を手に取った。
そして反対の手で自分の銀髪を掴むと、剣を横に引いて切り落とす。
誰もが驚愕の声を上げる中、腰の長さまであった淑女の象徴は、ルクレシアの手から離れ、はらはらと舞い落ちた。
「ローとわたしは、鏡を合わせたかのようにそっくりな容姿を持つ双子。髪色も瞳の色も背の高さもほぼ同じ。ルクレシアはローラントとして騎士団に戻ります」
弟と同じ髪型となり、細い首を晒すルクレシアは、強い意思を目に宿していた。
「成り代わるというのか!」
驚く辺境伯に、ルクレシアは頷いてみせた。
「ローを殺した手練れは白の騎士団の中にいる。殺したはずのローが現れれば、必ずや動きを見せることでしょう」
「しかし……」
「わたしの武術の腕前はお父様もご存じの通り。このルクレシア、必ず犯人を暴き、愛する弟の仇をとって参ります」
ルクレシアは手の中にある白の騎士団の記章をぎゅっと握りしめた。
「勇猛果敢なカスダール家の名誉にかけて」
覚悟を決めたその目には、迷いはなかった。
「――旦那様」
さらにヴァンが辺境伯の前で片膝をつき、頭を垂らして願い出る。
「私をお嬢様の護衛として、ともに騎士団に入団させてください」
ルクレシアは驚いた顔をヴァンに向けた。
「お嬢様をお守りするのが私の役目。それに……私も知りたいんです。ローラント様がなぜ殺されなければいけなかったのか。誰が殺したのか。犯人を許せないのは――私も同じこと」
耳元の青い石を揺らし、ヴァンが静かに顔を上げる。
災厄の色に染まった瞳の奥には、ローラントを失った悲しみと敵愾心に燃えていた。
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