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王宮のダンスホールに響き渡ったアビス様の婚約者宣言。
その衝撃が冷めやらぬ中、華やかだった会場の空気は一瞬にして凍りついた。
祝福の拍手よりも先に私を射抜いたのは、扇子で口元を隠した令嬢たちの、氷のように冷たく鋭い嫉妬の視線だった。
アビス様が飲み物を取りにわずかに席を外した、ほんの一瞬の隙。
それを獲物を狙う肉食獣のように突き、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが、私をぐるりと取り囲んだ。
中心にいるのは、以前からアビス様の妻の座を狙っていたことで有名な、高飛車な公爵令嬢のクラリス様だ。
彼女の瞳は、怒りと侮蔑でドロドロに煮えくり返っている。
「……あら、聞いたこともないお名前ですわね。エリス様? どこの令嬢かしら。それとも、遠い異国の王族の方? それにしては、どこか所作に『貧乏人』のような卑しさが滲み出ている気がいたしますけれど」
「ねえ、あなた。そのドレス、アビス様に買ってもらったのかしら? 身の程もわきまえずに侯爵家の財産を食いつぶすなんて、滑稽だわ。こんな女が、この神聖な王宮の床を踏むなんて……反吐が出るわ」
クスクスと周囲から波紋のように嘲笑が漏れる。
侍女として、そして「鉄壁のガード」として鍛え上げた鉄面皮で耐えようとしたそのとき───
私の背後から、すべてを凍てつかせるような絶大な冷気が場を支配した。
「……俺の婚約者の何が、それほどまでに滑稽だと?」
いつの間にか戻っていたアビス様が、私の腰をこれ以上ないほど強引に抱き寄せた。
冷徹な青い瞳は、まるで路傍の石ころでも見るかのように令嬢たちを見下ろしている。
その声は低く、地を這うような威圧感に満ち、周囲の温度を一気に数度下げたかのようだった。
「あ、アビス様! 違うのです、私たちはただ、彼女の出自が気になって、少しご挨拶を……」
「出自? 彼女は俺が選んだ唯一の女性だ。それがすべてだろう。もし彼女のことを指摘するというのなら、それは俺の教育に文句があるということか? それとも、俺の審美眼に泥を塗るつもりか」
アビス様が一歩、静かに踏み出すたびに、令嬢たちは蜘蛛の子を散らすように顔を引き攣らせて後ずさりした。
「以後、彼女を傷つけるような言葉を吐く者がいれば、その家との一切の取引を停止しようではないか。王宮の出入りも禁止するよう、陛下に進言しておこう」
「ひ、っ……それだけはご勘弁を…!し、失礼いたしました!」
顔を真っ青にした令嬢たちが、裾を乱しながら逃げ去っていくのを、アビス様は鼻で笑って見送った。
そして私の方へ向き直ると、先ほどまでの「氷の公爵」が嘘だったかのように
蕩けるほど甘く、それでいて独占欲を隠そうともしない微笑みを浮かべたのだ。
「怖かったか、エリス」
「だ、大丈夫ですよ、慣れていますし……でも、助かりました。ありがとうございます」
「これからは俺が邪魔な害虫をすべて排除してやる。もう怖い思いはさせないからな。君の視界には、俺だけが入っていればいい」
(……いや、今の主様の方がよっぽど怖いです!)
私を自分の腕の中に閉じ込め、片時も離そうとしない彼の熱い視線に、私は背筋がゾクゾクするのを感じた。
◆◇◆◇
翌朝
夜会の興奮と疲労も冷めやらぬ中
私はまたしても有無を言わさず、最高級のクッションが敷き詰められた豪華な馬車に押し込められていた。
「婚約者としての初仕事だ。重要な視察旅行に行くぞ。準備はできているな?」
そんなアビス様の言葉を信じていたのに、半日かけて馬車が辿り着いた先は
人里離れた深い霧の立ち込める湖畔に佇む、公爵家所有のプライベートな別荘だった。
周囲には他の建物一つなく、ただ静寂と霧が支配する二人きりの隠れ家。
「主様、ここは……。視察するような街も、施設も、何もありませんが? 予定されていた領地の視察はどうなったのですか?」
「ああ、今日は『俺たちの仲』を視察しに来たんだ。誰にも邪魔されない、この静寂の中で、じっくりとな」
馬車を降りるなり、彼は私の手を、指を絡める「恋人繋ぎ」にして強く握りしめた。
「…っ!…あ、主様…っ」
「恥ずかしがっているところも可愛いな」
「な……っ」
そのまま、抗う隙も与えずに別荘の奥へと私を誘う。
迷いのない足取りは、まるでこの状況をずっと前から計画していたかのようだ。
案内された部屋の扉が開かれた瞬間、私は固まった。
用意されていたのは、湖を一望できるロマンチックなテラスでの豪華な食事。
シャンパンの泡が揺れ、キャンドルの炎が揺らめいている。
そして、その奥に鎮座する、この上なく広くて豪華な───
キングサイズのベッドが一つだけある寝室。
「待ってください! どうして部屋が、その、一つしかないのですか!? 私は予備の部屋か、せめて控室を使います!」
「婚約者なのだから、当然だろう? それとも、俺の隣では眠れないとでも言うのか? ……俺は、君がいないとまた眠れなくなってしまうんだが」
彼は私の背後に回り込み、耳元に顔を寄せた。
濃厚なサンダルウッドの香りが私の意識を混濁させ、彼の低い吐息が敏感な首筋を撫でる。
その瞳には、夜会で見せた冷徹さではなく
ただ一人の私を渇望する、飢えた獣のような熱い光が宿っていた。
「エリス。昨日、皆の前で宣言した通り、君はもう誰のものでもない、俺だけのものだ。この二日間、仕事も、侍女としての義務も、全部忘れてもらおう」
「君が考えるべきことは、俺のこと。それだけだ」
逃げ場のない、鏡のように静かな湖畔の別荘。
アビス様の独占欲が完全に決壊したこの一泊二日で
私は身も心も彼の色に塗りつぶされていく予感に、ただ心臓の音を響かせてドキドキすることしかできなかった。