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* * * *
従業員専用の休憩室に駆け込むと、急に体が震え始めた。我慢していた感情が溢れ出し、涙がポロポロとこぼれ落ちていく。
タオルで目元を押さえたが、それでも呼吸や涙をコントロールすることが出来ず、春香は荷物を持って休憩室から出ると、ロッカールームに飛び込んだ。
耳たぶに触れながらへたへたと崩れ落ち、混乱する頭を抱え考えを巡らせていく。
まだ終わっていなかったんだーーいや、むしろ悪い方向に進んでいるように思えた。やはり偶然ではなかった。ようやく春香の中で確信に変わる。
それに彼は『いつものあの男』と言っていた。ということは、やはり私は監視されていたのだろう。一体いつ、どこから見ていたのだろうか。そしてどこまでを見られていたのかがわからず、不安になっていく。
もし町村に監視されていたとしたら、瑠維にも何か被害が及んでしまうのではーー?
あの男が逆恨みで瑠維に何かをするかもしれない。もし家を突き止めて踏み込んだりしたらーーそんな悪い想像ばかりが頭を過ってしまう。
ただの後輩というだけの彼には、これ以上迷惑をかけたくなかった。
とりあえず今日は飲み会があるとでも嘘をついて、一人で帰ろう。そして何かあれば警察に駆け込めばいい。
その時だった。突然スマホの着信音が響き、春香は体をビクッと震わせた。しかし画面に映る名前を見てホッと胸を撫で下ろす。
「もしもし、椿ちゃん?」
『春香ちゃん? 今昼休みかなぁと思って電話しちゃった。なかなか連絡出来なくてごめんね。最近はどう? 大丈夫?』
そう聞かれ、春香の我慢は限界に達してしまった。周りのことなど気にしないで、大声で泣き出した。
「全然大丈夫じゃないよぉ!」
『ど、どうしたの⁈ 何かあった⁈』
「ついさっきあの男が店に来たの……それで……瑠維くんのことを聞かれて……」
『えっ……ちょっと待って。それって瑠維くんのことを知ってるってこと?』
「たぶんどこかから監視されてたんだと思う……。私が思っている以上に知ってるって言ってたの。目の前に現れないから、いないんだって思ってた私がバカだった……」
椿は黙り込むと、ゴクリと唾を飲み込む音が受話口響いた。
『春香ちゃん、もうここまで来たら、その人はお客さんでもなんでもなくて、ただのストーカーだよ。自分の生活に危機を感じるくらいなんだから、警察に行って被害届を出した方がいい』
ストーカー。そう、わかってた。だけどそれを認めないようにしていた。きっと自分には起きるはずがないと思い込んでいたのかもしれない。
「だとしても被害届は……実証出来ることはないし、それにーー」
『春香ちゃん、何かあってからじゃ遅いんだよ。自分の身を守るために、やれることはやっておかないと』
「うん……そうだね……」
椿の言う通りだ。それはわかっている。だがそこまですることが正解なのか、春香にはわからなかった。
「とにかく瑠維くんに迷惑をかけないように、今日は一人で帰る」
『えっ、で、でも瑠維くんは……』
「ううん、もう決めたから。大丈夫。椿ちゃんも仕事に戻って。じゃあね」
そう言って一方的に電話を切った。
春香は大きなため息をついてから、頭を掻きむしる。そろそろ今後のことをちゃんと考えないといけないのかもしれない。
仕事のこと、住まいのことーー椿ちゃんの言う通り、何かが起きてからでは遅いのだから……。
その時、ロッカールームのドアが開く音がして、春香は体をビクッと震わせる。
「佐倉さん、いる?」
ロッカーの陰から顔を覗かせたのは店長だった。春香は慌てて立ち上がると、頭を下げた。
「店長! あの、先ほどはありがとうございました……」
「ううん、そんなことはいいんだけど……やっぱりまた佐倉さんに会いにきたのよね」
「たぶん……。あ、あの、ご迷惑をおかけしてすみません」
「別に佐倉さんに迷惑はかけられてないわよ。ただちょっと今後のことを考えると、一度警察に相談した方がいいと思う」
椿と同じことを言われ、春香もようやく決心がつく。
「明日は休みなので、警察に行って相談してみます」
「うん、それがいいと思う。この後どうする? 不安なら帰ってもいいし」
「いえ、まだ外にいたら怖いですし……あの、少しだけ退勤時間を早めてもいいですか?」
「そうね。少しずらすのはいいかもしれない」
「ありがとうございます。じゃあ休憩が終わったらお店に戻ります」
「わかったわ。くれぐれも無理はしないようにね」
店長がロッカールームを出ていく音を聞き、春香はロッカーに寄りかかりながらずるずると床に座り込んだ。
それからスマホを開き、瑠維に送るメッセージを打ち込んでいく。
彼に不審がられないよう、自然な文章を打とうーーそれなのに、どんな文章にしても見抜かれてしまいそうな気分になった。
『今日は職場のみんなと飲みに行くことになったので、お迎えは大丈夫です。せっかく食材を買ってもらったのにごめんなさい』
それからハッとして、新しくメッセージを打つ。
『あの男、瑠維くんのことに気付いているみたいなの。だから瑠維くんもくれぐれも気をつけて。私のせいで迷惑かけて、本当に申し訳ないです。いつかちゃんと謝罪させてください』
これで瑠維がここに来ることはない。スマホをカバンにしまい、大丈夫と自分に言い聞かせた。
家に帰ったら、しばらく暮らせるだけの荷物を準備して家を出よう。今日はどこか泊まれる場所を探して、明日の朝一番で警察に行く。それから新しい住まいを探そう。
残念だけど、職場も異動出来るか聞かないとーー無理なら転職も考えなければならない。
頭ではわかっている。なのにこの理不尽な状況が悔しくて涙が溢れてきた。
私が何をした? ただ一生懸命働いていただけ。それがどうしてこうなっちゃったんだろう。
目の前の平穏だった生活が、音をたてて崩れていくのが見えた。
白山小梅
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