食欲はないが、体が資本のアスリートとして、一定のエネルギーは取り込まなければならない。糸師凛は面倒だという思いを押し殺して、食堂へと足を運んだ。
世界一のストライカーを作りだすというお題目の元、十八歳以下の高校生FW三百人を集めて始まった『青い監獄ブルーロック』プロジェクトは幾つもの試練の中で選手たちを篩ふるいにかけ、ついに三次セレクション『適性試験トライアウト』の段階では三十五人に絞られている。この中から、後日行われる『U-20日本代表』との試合に臨むメンバーが選抜されることになっている。
凛はBLナンバーワンの実力者であり、故障でもしない限り『U-20日本代表』戦にも選出されることはほぼ確定だ。凛には世界一になるという目標があるのだから、サッカー後進国と揶揄される日本国内の試合ごときでスターティングメンバーに入れなかった……などと言うことになれば、笑い話にもならない。
だがほぼ当確の人間もいれば、この適性試験の結果次第、という人間もいるわけで、共有スペースには悲喜こもごも、いろんな表情が溢れている。
そんな中。広い食堂に足を踏み入れると、奥の方に賑やかな一団が居た。
「チッ」
鋭い舌打ちが漏れる。
その一団の中心で、数人の男たちに囲まれながら、へらへらと締まりのない顔を晒しているのは、BLにおいて唯一、凛に実力ではなく運での勝負をさせた人間――潔世一である。
(べたべた触らせやがってっ)
凛の秀麗な顔に青筋が浮かぶ。
お互いに競わせ、蹴落とし合わせ、世界一のストライカーを作りだすBLという環境は、ほとんどの人間にとっては生きるか死ぬかの地獄である。なにせ脱落すれば今後、サッカーの日本代表として選ばれることがなくなるのだから。若いうちから夢を断たれるという残酷さがここにはある。
兎にも角にもBLは、総責任者たる絵心甚八によって全国から選抜されたメンバーが集められている。その中には多少は自分の成長の糧になる人間が居るはずだと思っていたけれど、蓋を開けて見れば凛の期待値をはるかに下回る、生ぬるい環境でしかなかった。
そんな中、凛の失望をある種の希望へと変化させたのが潔だ。だから潔は、凛のそばで、凛が世界一になるのを見届ける義務がある。――少なくとも凛は本気でそう思っていた。
ふた言目には『面倒くさい』が飛び出す凪誠士郎とその凪を宝物と呼んで憚らない男、御影玲王。潔の相棒を標榜する蜂楽廻と女顔ながら性格は男前な千切豹馬を侍らせて、のほほんとしている潔があまりに腹立たしく、凛はつかつかと潔の元に足を運んだ。
「あ、凛ちゃん」
潔の相棒――蜂楽が目ざとく気が付いて声を上げる。それに反応して潔がこちらを振り返る前に、凛は潔の背後に立つと、のしっと、まあるく形の良い頭に顎を乗せた。
「重ッ」
態々腰を折り、まるで身長差を見せつけるような態勢に潔はムッとする。
「おい凛、顎退けろ」
「これはなんだ?」
「は? ちょっ、人の話っ」
凛はそんな潔の不機嫌などスルーして、潔が持っていたカップをひょいと取り上げた。
耐熱ガラスの容器に入れられた、やわらかい黄色と底に広がる焦げ茶色のコントラスト。ひんやりぷるんっと震えたソレは、匂いも色も間違いなくプリンである。
「それ、潔の手作りだよ♪ めっちゃ美味いよー」
蜂楽の言葉に凛は取り上げたプリンを眺めた。潔がひと口食べたのか、少し崩れているプリン。凛はプリンに突き立てられたままになっていたスプーンを手に持つと、プリンを掬いばくりと食べた。
「「「は??」」」
「ちょっと、凛ッ! それ俺のプリン」
「……甘あめぇな」
凛の突然の暴挙に真顔になる凪、御影、千切。蜂楽は「凛ちゃんやるぅ!」と手を叩き、潔は自分のプリンが奪われたことに口を尖らせる。
潔のプリン強奪&間接キス、という、潔に想いを寄せる人間からしてみれば憎たらしく羨ましいことこの上ないことを平然とやってのけた凛は、新橋色ターコイズブルーの眼を見開き、当たり前すぎる平凡な感想を呟いた。
「甘くて当たり前だろ、プリンなんだから。ってかさ、食べたいならそう言えよ。食べ掛けじゃない新しいヤツ、用意してやるのに」
「……それ『も』寄越せ」
凛は奪ったプリンを容赦なく食べきったうえで、潔に新たなプリンを強請る。
「は? それはちょっとズル過ぎない? 俺たちだって一個で我慢してるのに」
「だな。図々しいぞ、凛」
凪と御影が凛に文句を言う。潔のプリンは資産家に生まれ、高い食事レベルで生活してきた御影をして、舌を唸らせる出来。昔風の硬めのプリンは卵の味が濃厚で、底に敷かれたカラメルソースのほんのりとした苦みと相性は抜群。甘味の類がなかなか提供されないBLにおいても貴重だが、こういう特殊環境でなくても普通に素人裸足レベルのプリンだ。
美味しすぎてすぐに食べきってしまったし、もうひとつぐらい食べたい気持ちはプリンのご相伴に預かった誰もが思うこと。
「うるせぇ」
「凛って甘党なんだ?」
潔はぱしぱしと大きな目を瞬かせた。
食欲旺盛な高校生男子なら、プリンを奪われた恨みで戦争だって起こりかねないのに、せっかく作ったプリンをひと口しか味わえなかった潔にもはや怒りの色はない。
そのあたり、潔が押しが弱いのかお人好しなのか(……この点に関しては但しピッチ上を除くという注釈が付くだろうが)、或いは凛の横暴我儘ぶりに早くも適応してしまったのか。いずれにせよ、潔は甲斐甲斐しく凛の手から、あっさり空になったカップを取り上げ、テーブルに置いた。
「冷蔵庫からとってくるから、凛、座って待ってて」
潔が椅子から立ち上がり、食堂の隣、厨房室の冷蔵庫に向かう。
凛は空いた席にどっかり座り込んだ。正面にいた凪が胡乱な表情でこちらを見つめてくるが、凛はしらっとした顔で無視する。
「お待たせ」
ほどなくして、潔が新たなプリンとスプーンをもって戻ってくる。凛は差し出されたプリンを当然のように受け取り食べ始める。
「ズルい…潔、俺にも頂戴」
凪が自身の前にあった空のカップをつんと突つつきながら、上目遣いで潔を見つめる。
「ごめん、凪。これが最後でさ」
潔はふくれっ面の凪に「また今度作るから」と手を合わせた。
「ほんと、マジ意外だったわ。お前、菓子作れるんだな」
御影が感心したように訊ねると、潔は「簡単な物ならなー」と言いつつ、傍のテーブルから椅子を引っ張ってきて腰かけた。もともとの席は凛に譲ってしまったので。
「ご飯とかも作れるの?」
蜂楽がきらきらした目を向けてくる。
「あぁ。どっちかっていうと料理の方が得意かな。お菓子って分量きっちり守らないと失敗するし」
「家事の手伝いとかしてたのか?」
「いや、スペインにいた時、どうしても日本食が恋しくなって自炊始めたんだよ。そしたら同居人がすっげぇ俺の料理気に入ってくれて」
「「「「「は??」」」」」
千切の何気ない質問に爆発物で返されて、潔を除く五人は動きを止めた。
「ん?」
「いやいやまてまて。今、お前、スペインって言った?」
いち早く起動したのは御影だった。
「あれ? 言ってなかったっけ。俺、中・高とスペインにいたんだよ、一時期だけど」
「え、じゃあじゃあ、スペインでサッカーしてたわけ?」
BL内で国外でプレー経験のある選手は凛を含めていない。蜂楽は弾んだ声で潔の経験を聞きたがった。
「うん。短期だけどサッカー留学だったし」
スペインにサッカー留学、と聞いて、凛の眉間に微かに皺が寄る。そうした雰囲気の変化を敏感に察する潔は凛の張りつめた空気に、内心(あらまぁ)とため息を吐いた。どうにも後でフォローが必要そうだ。
「同居人ってことは、寮かなにかか?」
「そう。所属してたクラブチームに寮があって。同室は同じ日本人だったから気楽だったよ」
千切の言葉に頷き、「だからホームシックとかはあんまりなかったんだけど、食事だけは日本食が食いたくて頑張ったんだ」と潔は笑う。
「初めは失敗しまくりだったけど、同居人が全部残さず喰うわけ。そしたらさ、もっといいもん食わせてやりたくなるじゃん」
「その同居人はしあわせだねー。俺も潔の料理で大きくなりたい」
「凪はもう十分デカいじゃん。それに玲王が泣くぞ」
「御影うちのシェフの料理はもちろんうまいが。潔の料理は俺も是非食べてみたいな」
「だけどさー、そのひと、今メチャクチャ食難民になってるんじゃない?」
「確かに。そいつはまだスペインにいるのか?」
「あー…うん」
蜂楽と千切の同情するような台詞に、潔は背中に冷や汗が流れるのを感じた。
潔が日本に帰国したのは高校二年に進級した春のことで、別にBLに召集されたから、と言うことではない。スペインにそのまま残った同居人には、帰国前にしつこく念を押されていたのでマメに連絡は取っていたけれど、そういえばBLに行くことは伝えられていなかった……ということに今、気が付いたのだ。
言い訳させてもらえるならば、合宿参加表明から開始までが怒涛の展開だったのと、まさか入寮前にスマートフォン没収、しかも合宿所に監禁()されて朝から晩までサッカー漬け、休暇なにそれ美味しいの、なんてことになるとは思ってもいなかった。断じて、サッカー漬けの日々に脳内麻薬ドバドバで彼のことがスコンと抜けていたわけではない、断じて。
(やっべぇ…怒り狂ってたりして)
潔のことに関しては心が激狭になる元・同居人のことを思い描いて潔は内心ため息を吐いた。不機嫌そうな凛に続いて、もうひとり宥める必要がありそうだ。が、現状、彼に関しては連絡手段もないので精々次に機会があったときのために言い訳を考えておくぐらいが今の潔にできることだが。
「潔。いつまでも下らねぇ雑談してねぇで、行くぞ」
「え、凛、プリン食っただけじゃん」
「いい。食欲が失せた」
先に食堂に来ていて夕飯を食べた後、食後のデザートとして潔特製のプリンを食べていた潔たちとは違い、凛が食べたのはプリンおよそ二個分。育ち盛りには到底心もとない量だが、当の凛はもともと食欲がなかったので問題ない。
凛は立ち上がり、潔の腕を引っ張り上げる。
「ご、ごめん、片付け頼む!」
「りょうかーい」
「って、どうせ俺が片付けんだろ」
「暴君のお守り頑張れよ」
「いってらー」
凛に引き摺られるように食堂を後にする潔が手を合わせると、凪がひらひらと手を振り、御影が残った面子を見て溜息を吐く。千切と蜂楽は楽しげだ。まぁ所詮他人事なので。やりすぎだと思ったら口出しするけれど。
◆◆◆
「痛っ」
食堂から出て、今はだれも使っていない寝室に連れ込まれた潔は、背中を壁に強かに打ち付けて呻いた。
凛は構わず、潔の肩をがっちりつかんで壁に押し付ける。逃がさない、という気迫を感じた。
「ちょ、…凛、放せよ。にげねぇから」
「うるせぇ。
それに、これから逃げたくなるかもしれねぇだろ」
「え?」
凛の台詞にきょとんとした潔は。次いで唇を襲った感触に目を見開いた。
(ん…は、ぁ!? こ、これ、舌!?)
凛の玲瓏に整った顔がピントが合わないくらい近くにある。
驚きに半開きになっていた唇からぬるりと入り込んできたのは舌だ。
(き、キスされてる!?)
潔の混乱を余所に、凛は拙くも情熱的に潔の口腔を蹂躙した。
「ふ、ぁ、…り、ん……っ」
「は、ぁ…いさぎ…」
じゅるじゅると潔の唾液を啜った凛が、唇を放す。男らしい秀でた喉仏がごくりと上下するのを、壁にもたれ掛かった潔は肩で息をしながらぼんやりと見つめた。
「な、に…いきなり……」
「お前、ケーキだな」
「……え」
甘ぇんだよ、と凛はギラギラする目で潔を凝視する。
「て、それって凛がフォークってこと…?」
「あぁ」
コクンと頷かれて、潔は呆気にとられた。
ケーキとフォーク。
それはある特徴を持った人間を表す言葉だ。
フォークは後天的に(ごくごく少数では先天的に)味覚を失った人のことを示す。味覚を失う主な原因は精神的なストレスによるもの、というのが一般的な見解だが、そのメカニズムは未だによくわかっていない。ただひとつ言えるのは、味覚を失う代わりに、一部の人間の体液や血肉を美味しく感じる体質になることだ。その、フォークが『美味しい』と感じる相手をケーキと呼ぶ。
ケーキはフォーク以外の人間からするとただの人に違いなく、フォークと出逢わなければ自らがケーキであることも知らずに生きていく。また、フォークになる割合に対してケーキの人口比率は圧倒的に少ないため、ケーキとわかればフォークに囲い込まれたり、複数のフォークから狙われる可能性もあった。
フォークが自らの食欲を満たすためにケーキを襲う例は枚挙に暇がなく、歴史を紐解けばフォークが『殺人予備群』などと呼ばれたこともある。今はそうした衝動を抑える薬が開発されており、フォークだからと特別生き辛い世の中、と言うこともない。
とはいえ、積極的に表明するようなことではないのも確か。
「凛は俺を食べたいの…?」
「あ゛?」
齧られるのはちょっと、と眉尻を下げる潔。凛は柳眉を逆立てるが、ふとあることに気が付いた。
「お前、自分がケーキだって知ってたのか」
「あ、うん」
「……」
凛は思わず額に手を当てた。なんだこの野郎、危機感なさすぎか。
ケーキはフォークと遭遇し襲われるなどして初めて、自らがケーキだと知る。潔は自身がケーキであること知っているのならば、すなわち、過去にフォークと接触したことがある、と言うことだ。
にもかかわらず、いま、このようにフォークである凛に壁際に追い詰められて、あまつさえ唾液まで啜られたのに、突き飛ばすでもなく拒絶するでもなく、単に「齧られたくないなぁ」なんて生ぬるいことを言っているのは、頭がお花畑に違いない。
別に潔を食事的な意味で喰いたい衝動には今のところ襲われていないが、唾液ひとつとっても、ケーキのケーキたる所以を思い知らされた凛である。
「痛くなきゃいいのかよ」
「ん?」
「齧られんのは嫌なんだろ。じゃあ、さっきみたいのはどうなんだ」
「さっきのって…キス?」
「……」
うーん、と潔は首を傾げた。
確かに急に唇を塞がれたからびっくりはしたけれど、嫌悪感が湧いたかというとそうではない。むしろちょっと気持ちよかったし。味がしない食事というのは、想像しただけでも切ないものだ。潔の一番の目標である凛が苦しんでいて、それを潔に助ける術があるのなら、キスのひとつやふたつ、どうと言うこともない。
「痛くないやつなら…まぁ」
「じゃあいいな」
判定がばがばの潔に内心呆れつつ、凛は久々に感じた『味』の前に欲望を抑えられずにいた。まして相手はBLで唯一、凛を越えると宣言し、それを一瞬であるとはいえ現実のものとし、更に進化を続けている潔だ。
凛は潔の頤を掴み頭の後ろに手を回してがっちり固定すると、再び深く唇を合わせた。
「ん、は…」
まさに貪る、という表現が相応しい口づけの後、息が上がった潔の唇はぽってりと赤くはれていた。
「……ってかさ」
壁を背もたれにして床に座り込んだ凛に背後から抱きかかえられながら、潔は首筋をちろちろと舐める凛の頭を撫でた。勝手に触んなと振り払われるかと思ったが、潔を堪能するのに忙しいのか、少しは気を許してくれたのか、拒絶する気配はない。
「味はしても、腹は膨れねぇだろ」
フォークにとってケーキの体液は甘露だと聞く。しかし所詮は液体。いわばジュースでお腹を膨らませるのは限界がある。だからといって食べられてやるわけにもいかない。喰いちぎられてもその内また生えてくるというものでもないし。
「プリン」
「ん?」
「テメェが作ったプリンは、ちゃんと甘くてうまかった」
「へ?」
潔の肌にじわりと浮かんだ汗を味わっていた凛が顔を上げる。潔はその返答に間抜けな顔になった。
――だって、それはあまりに思いがけない台詞だったから。
「それって、あの都市伝説のヤツのこと言ってる…?」
「信憑性のねぇもんに興味はねぇ…が、テメェのプリンは別だ。あれで俺はお前がケーキだとわかった」
「ってことは、それまではケーキだってわからなかったってことだよな」
「あぁ」
凛の迷いのない返答に、潔は思わず天を仰いだ。
フォークとケーキの関係を表す中で、都市伝説的な話がある。それはごく一部のフォークには対ついとなるケーキが存在し、ケーキ以外には味覚を感じないはずのフォークが、その対となるケーキが作った料理には味を感じる、というものだ。
「…マジか……」
「何の問題もねぇだろ」
何やら悩む気配の潔を怪訝な顔で見つめる。
潔が料理を作れば、凛は味も感じれて腹も膨れる。悪い話ではないはずだ。もっとも、潔自身の味を知ってしまった以上、キスやらなんやらもやめる気はないけれど。
「……怒らないで聞いてほしいんだけど」
「話による」
「……そこはさ、『いいぞ』って言うとこじゃない?」
「うだうだ言ってねぇでさっさと吐け」
凛は潔の体をぎゅっと抱き締めた。
「ギブギブッ! 中身出るって!」
潔は凛の腕をたんたんと叩いた。
凛は大きく舌打ちすると腕の力を緩める。潔は脱力し、遠慮なく凛の胸にもたれ掛かった。
目線を上げ、下から凛の顔を見上げる。
「俺、フォークの知り合いがいるんだけど、そいつにマーキングしてもらってたんだよね」
「は?」
その瞬間、凛は横っ面を叩かれたような気分になった。
マーキング。
それはフォークとケーキの関係性でいうと、フォークが『こいつは俺のケーキだ』としるしをつけることだ。マーキングすることで、他のフォークはそのケーキをケーキと認識できなくなる。これはフォークの誰もができる行為ではなく、先ほど挙げた都市伝説の続きのようなもので、〝対となるケーキ〟にのみ有効だとされている。
そもそも、ケーキ自体が少ないのだから、フォークが運よく対になるケーキと出逢う確率は宝くじの一等に当選するよりも確率が低い。
ましてそのしるしをつける行為というのが、体内で射精されること――つまるところ中出しセックスをする、ということなのだ。
ただ、このマーキングを受け入れると、ケーキとしてもメリットがある。マーキングを施したフォーク以外に襲われることがなくなる、というメリットが。
「だからさ、凛が俺をケーキだってわかったこと自体、変なんだよ」
凛は潔とサッカーをしても潔がケーキだと知ることはなかった。サッカーは広いフィールドを、ボールを追って駆けまわる運動量の多いスポーツだ。前半だけでも汗だくになる。ケーキの潔は、フォークの凛にはたまらなく甘い匂いを発していたはずだ。けれどそれがわからなかったということは、マーキングが正常に効いていたという証。
「もしかしてマーキングって、ちょっと間が空いたら効果なくなるもん?」
「……潔。そいつは恋人か?」
「え? …いや、どっちかって言うとギブ&テイク的な…?」
潔は他のフォークを気にせずにサッカーに邁進できる。相手のフォークは〝対のケーキ〟を他に奪われる心配がなくなる。少なくとも、潔の認識ではそうなっている。
「じゃあ問題ねぇな」
呟いた凛が立ち上がる。そして床に座る潔の体を引き上げた。
「凛?」
そのままベッドに近づくと、潔の体をとんと押した。
どさりとベッドに投げ出された潔の上に圧し掛かる。
「ちょ、りん、どうした…」
「マーキング」
「は?」
「他のフォークに狙われねぇようにしてやるっつってんだ」
「ちょ、待て待て、凛!」
潔は慌てて凛の胸を手で突っぱねた。
「なんでそうなった!?」
「バカか」
凛は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「前のマーキングの相手は恋人でも何でもねぇんだろ。だったら操立てする必要もねぇよな」
「だからってお前がマーキングする必要ないだろ。
第一、俺相手に勃起たつのかよ」
「やりゃあできんだろ」
こうして押し倒して、狼狽えている姿を見るだけでムラムラしてくるのだ。口づけの最中に聞こえてきた喘鳴でさえも凛の欲を煽った。まして潔の体にすでに触れた人間がいると思うと、嫉妬でどうにかなりそうだ。今すぐに、ぐちゃぐちゃにしてたっぷりナカに射精だして上書きしてやりたい。
「それに、わかってねぇようだから言っておくが、BLここには俺以外にもフォーク、いるぞ」
「え」
「なんとなく気配でわかる。あの触角害虫野郎とかな」
「わお」
潔は棒読みで感嘆符を口にした。触角害虫野郎こと士道龍聖は、『奪敵決戦ライバルリーバトル』終了後に顔を合わせたのが初めてだったが、すぐに手が出る危険人物という印象が強い。薬がある以上、直ちにケーキを襲うようなことはないと思うが、どうにも快楽犯なイメージもあって油断ならない相手。
もしもマーキングの効果が薄れているのなら、確かに身の危険は増す。
潔の料理で味がわかる凛なら、潔にマーキングができる〝対〟の存在なのだろう。ひとりのケーキに複数対が居るなんて考えてもみなかったことだが、そもそもフォークのメカニズムも全てが明らかになっているわけではない。
「……」
凛を見上げる。彼の新橋色ターコイズブルーの瞳には隠し切れない欲望が渦巻いていた。
「些事に気を取られてヌルイサッカーしかできねぇようなら殺すぞ」
潔が以前、対のフォークからの提案を受け入れたのも、全力でサッカーに打ち込むためだった。
「わかったら大人しくマーキングされてろ」
「…うん」
――潔は逡巡のあと、こくりと頷いた。
◆◆◆
しっかりとした焼き上がりのハンバーグにナイフを差し込めば、じゅわりと肉汁が溢れ出す。
食欲をそそる匂いに、口の中に唾が溜まる。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
改めて断りを入れ、ひと口大に切ったハンバーグを口に招き入れる。肉のうまみ、鼻に抜けるスパイス、デミグラスソースの濃厚な味。久しぶりの味わいに、自分の舌が喜んでいるのがわかる。
「うまい…」
「よかったわぁ。よっちゃんのハンバーグ、残っていて」
女性は青年の綻んだ顔をにこにこと眺めつつ、安堵の息を吐いた。
「冷凍でごめんねぇ。あの子、いま合宿にいってるから」
「いえいえ。こちらこそ、突然お邪魔したのに、夕飯までいただいてすみません」
青年が頭を下げると、
「そんなこと言わないで。いつだって大歓迎よ」
と女性――潔伊世は笑った。
「正直に言うと、潔が作ってくれた料理のストックがなくなって……。久しぶりなんです、味がする料理」
「そうだったのね……。よっちゃんの作り置きハンバーグならまだあるから、いくらでも食べて頂戴」
息子の世一がスペインにサッカー留学をしていた時に同室だった彼は、フォークだ。
だが世一とはいい関係を築いているようで、フォークとケーキという関係性であっても、伊世たち世一の両親はさほど心配していない。むしろフォークである彼が唯一、世一の料理だけは味がわかると知って、世一がスペインで料理しやすいように調味料や道具などをあれこれ送ってあげたりもした。
世一が帰国した後も、彼を潔家に招いたり、あるいは長期休暇には世一にスペインに行くことを許可したりと交流を続けている。
今日もこうして、パスポートの更新のために一時帰国したという彼がふらりと立ち寄ってくれたのをもてなしているところ。生憎、世一本人はサッカーの強化合宿で不在なのだが。
彼は世一がBLなるプロジェクトに参加していること自体、知らなかったようで大層残念がって・・・・・いた。
「ほかに何かよっちゃんの作ったもの、なかったかしら…」
伊世が食事難民になっている彼のために、冷蔵庫を覗いてこようと腰を上げる。
彼はそれを制した。
「大丈夫です、伊世さん。
――もうすぐ、俺もBLにいくので」
彼――糸師冴はうつくしい唇に笑みを刷いた。
【多分、このあと修羅場】
◆潔世一
ケーキ。
十三歳から十五歳までスペインにサッカーの短期留学に。レ・アールに所属し、同じ日本人同士ということで冴と同室になる。
冴はフォークだったが、潔のおおらかさと鈍感力と適応力であっさり冴の存在を受け入れていた。
冴とはセックスする仲だが、ギブ&テイクの関係だと思い込んでいる。
冴と凛が兄弟なのは知っているし、仲がこじれていることもわかっている。本当なら凛に、マーキングした〝対のフォーク〟が冴だと教えた方がよかったのかもしれないが、人の体質のことを弟とは言え、勝手にしゃべってはいけないと思って黙っていた。
冴にマーキングされているのに、凛にケーキだとバレた理由は、マーキングから時間が経っていたことと、遺伝的にふたりが近いことが原因。
凛とも関係を持ってしまったが、こちらもギブ&テイクな関係だという理解。
◆糸師凛
冴との決別後、フォークとなる。
潔の持っていたプリンがおいしそうで思わず略奪したら、本当に味がして驚いたし、そのあと潔自身からメチャクチャ良い匂いがして堪らなくなった。
潔に抱いている感情がなんなのか、まだちゃんとわかっていない。そんな状況で潔に手を出してしまったので、潔からはギブ&テイクな関係と思われているが、そのことを知らない。
潔のスペインでの同居人=マーキングの主=糸師冴という方程式にはたどり着いていない。が、潔がスペインに住んでたこと、同居人のために料理の腕を磨いていたこと、〝対〟となるフォークが存在している上にマーキングされていたこと、その全てが気に入らない。
冴がフォークであることは知らない。
事実を知ったとき……
◆糸師冴
13歳でスペインに留学し、やがて自分は世界一のFWにはなれないと悟った時からフォークとなる。
フォークになった後に同室になった潔がケーキだったため、はじめは潔を遠ざけようともしたが無理だった。
潔の手料理ならなんでもおいしく食べられる。
潔が帰国した後も交流している。
マーキングを提案したのは冴の方。潔のことを好きになっていたが、あまりに鈍かったので体から堕とそうと思っていた。ら、それがあだになった。しかしギブ&テイクな関係と思われているとは、知る由もない。
しばらく連絡がつかず、パスポート更新にあわせていそいそと潔家に来てみれば、BLに参加中と聞いて『ひと言言っとけよ』とご立腹。ただし伊世の前だったのでその感情は出さなかった。
凛がフォークであることを知らない。
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