テラーノベル
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室内の空気は淀んでいた。照明は落とされ、カーテンが引かれたままの空間。夏でも冬でもない、季節がどこかに置き去りにされたような、気温の感じられない場所。
ベッドの軋む音だけが、現実の証明のように続いている。
蓮司の指が、喉元に触れる。そこに執着があるわけではない。ただ、「音が出るところ」を試しているだけのような手つき。
遥は声を殺した。
息を詰めて、耐えるように、そこにいるだけだった。
目を閉じれば、どこか別の場所に行ける気がしていた。
でも、そこにもいない。
――日下部が、自分を見ていた。
蓮司が言ったあの一言が、皮膚の内側に焼き付いて離れない。
「笑ってたよ」
ほんの一言が、自分のすべてをひっくり返す。
あれが本当だったなら。
ほんの一瞬でも、気を許してしまっていたのなら。
それは、誰かを欺いていたことになる。
蓮司が腰を押しつけてくる。
遥は、その重さに背を反らすことも、拒絶することもできなかった。
「……動かないと、飽きるよ?」
低い声が耳元を撫でた。
飽きる。
それだけは、蓮司にとって最も明確な終わりだ。
興味を失えば、この関係は終わる。
終わるなら、まだいい。
けれど──
「……飽きろよ。もう」
かすれた声が、唇からこぼれた瞬間。
蓮司の手が止まった。
「……なんて?」
遥は目を閉じたまま答えない。
けれど、蓮司は笑った。
「ほんと、面白いな。そういう言葉、日下部には言えないのに」
心臓を刃で撫でられたような感覚だった。
その名を出すな。
その名を、この行為に絡めるな。
遥の指が、無意識に蓮司の胸元を掴む。
でもそれは拒絶の力ではない。
怯えと、恐れと、ぶつけようのない痛みの残滓。
蓮司の顔が近づく。
肌が触れる。
けれどそこに温度はなかった。
「ねえ、遥。おまえが欲しいのって、どっち?」
蓮司の言葉は甘い毒のように、感情を麻痺させながら侵してくる。
「……俺? それとも“あいつ”?」
遥の背が震える。
知らない。分からない。
誰かを求めることが罪だと思っていた。
欲しがることが、壊すことだと信じていた。
だから、日下部を欲しいと思った瞬間から、もう、自分は加害者だった。
蓮司の手の中で喘ぐたびに、自分の身体は何かを喪失していく。
誰かを守るために差し出したはずの身体が、今は、ただ“誰にも触れられたくない場所”になっていた。
「……ねえ、遥」
蓮司の手が、喉から頬へ、そして目尻に触れた。
「泣いてるの?」
遥は答えなかった。
泣いてなどいない。あれは、汗。あれは、痛み。あれは──
涙に名前をつけることすら、許されていなかった。
「壊れそう?」
──とっくに、壊れてる。
けれど、壊れたと言ってしまえば、「もう終われる」と思ってしまう自分がいる。
終われるなら、それはきっと“甘え”だ。
遥の唇が震えた。
蓮司はその震えに気づいたまま、言った。
「……いいよ、遥。もっと壊れて。どうせ、誰も気づかないんだから」
その一言で、遥の胸の奥が、ズン、と沈んだ。
限界は近い。
感情の爆発は、もうすぐそこにある。
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