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その男性は白いコーヒーカップを上品な手つきで持った。指先がカップの耳を軽く挟むようにして、親指と人差し指で支え、他の指は自然に曲げて添えるだけ。そんな小さな仕草が、なんだか教科書みたいに完璧で、このピンクの店内で浮きまくってる。
インスタントコーヒーの湯気が、白いカップからふわふわと立ち上る。いつもの、ちょっと焦げた匂いがするはずなのに、彼が口に運ぶ瞬間、なぜか丁寧に焙煎された豆の香りが漂ってきた気がした。いや、気のせいだ。これは間違いなく、安いインスタント。でも、彼の唇がカップに触れると、まるで高級カフェのエスプレッソを味わうみたいに、ゆっくりと息を吸い込んで、目を細めて一口。喉が動く様子が、遠目に見ても優雅で。
私は厨房のカウンター越しに、つい見入ってしまう。他のご主人様たちは、オムライスにケチャップでハート描いてもらって「きゅんきゅん♡」って盛り上がってるのに、この人はただ静かにコーヒーを飲んでるだけ。スマホも見ない。メニューももう置いてない。ただ、窓の外の街並みを眺めながら、時々カップを口に運ぶ。
「弥生ちゃん、次のお客様のオーダー入ったよー!」
同僚の声で我に返る。慌てて次のトレーを準備しながら、視界の端で彼をチラチラ見る。二口目を飲んだあと、彼は小さく息を吐いて、カップをソーサーに戻した。その音が、カランと小さく響いて、なぜか胸の奥がざわつく。
この人、何しに来たんだろう。本当にコーヒーが飲みたかっただけ?それとも、誰かを待ってる?まさか、こんなメイド喫茶に用がある人じゃないはずなのに。
ふと、彼の視線が店内をゆっくりと巡って、私のほうに止まった。目が合う。一瞬だけ。彼の目は、さっきと同じく静かで、観察するような色をしていて、でも今度は少しだけ、柔らかくなった気がした。微笑んだ?いや、気のせいかも。すぐに視線を窓に戻して、またコーヒーを一口。
私はトレーを抱えて、別のご主人様のテーブルへ急ぐ。「きゅんきゅん♡」の声を出して、ハートを揺らす。でも、心の半分は、さっきの白いカップに残ってる。インスタントの湯気が、こんなに上品に見えるなんて、初めてだった。 彼がこの店に来る理由なんて、きっとない。
1回きりの、通りすがりの人。でも、もしまた来たら……。いや、そんなこと考えてる自分が、馬鹿みたいで。私は営業スマイルを貼り直して、「ご主人様♡ お待たせしましたぁ♪」って、声を張る。
でも、厨房に戻るたび、窓際の席に座るスーツの背中が、どうしても気になってしまう。あのコーヒー、冷めないうちに、もう一口飲んでほしいな、なんて。そんな、くだらないことを思ってしまう自分が、少しだけ、息苦しくて、でもどこか新鮮だった。
案の定、モラちゃんはそんな私の変化に敏感だった。わずかな視線のずれ、厨房に戻る足取りの微妙な遅れ、スーツの男性が去った後の、私の息が少しだけ軽くなった一瞬。全部、気づかれてたんだ。
彼の目はいつもより鋭くて、店を出た瞬間から空気が変わった。ピンクのドアをくぐって外に出た途端、夜の冷たい風が頰を叩くのに、私の背中は汗でじっとりしていた。帰り道は、モラルハラスメント全開だった。道ゆく人の目も気にせず、声を抑えもせずに悪態をついてくる。
「おまえは俺がいないと何も出来ないくせに、他の男に色目使ってんじゃねぇよ!」
言葉が、鋭い針みたいに胸に刺さる。私は俯いて、足早に歩くしかない。でも、彼は私のペースに合わせて、わざと近くに寄ってくる。肩が触れそうなくらい近くて、息が耳にかかる。
「お前みたいなのが、媚び売ってチップ稼いでんのが見え見えだよ。あんなスーツの野郎にまで笑顔振りまいて、何がしたいんだ?俺の女が、他の男に尻振ってんじゃねえ!」
足は、道端に転がっていた空のペットボトルを思い切り蹴った。プラスチックがカランカランと転がって、夜の舗道に乾いた音を立てる。近くを歩いてたサラリーマンが、びっくりして振り返る。私は慌てて「すみません……」って小さく頭を下げるけど、モラちゃんはそんなことお構いなし。
「謝んなよ、みっともねえ」
って、吐き捨てるように言う。彼の声は低くて、でも周りに響くくらい大きめで、通りすがりの人がチラチラこちらを見る。恥ずかしくて、悔しくて、でも反論なんてできない。反論したら、きっともっとエスカレートするから。
「おまえ、俺がいなきゃ飯も食えねえくせに、店で『きゅんきゅん♡』とかやって、調子に乗ってんじゃねえよ」
「そんな……お客様だから……」
私が小さな声で言い訳すると、彼は鼻で笑う。
「客? ふざけんな。あいつら全員、俺の女に手ェ出そうとしてんだよ。お前みたいなのが、簡単に笑顔見せんじゃねえ」
ペットボトルをもう一度蹴る。今度は勢い余って、ボトルが道路に飛び出して、車のライトに照らされる。クラクションが短く鳴って、私は肩をすくめる。モラちゃんは止まらずに歩き続ける。私の腕を、ぐいっと掴んで引き寄せる。
痛い。でも、振り払えない。振り払ったら、もっと酷いことになる。
「家に帰ったら、ちゃんと話すぞ」
彼の声が、耳元で低く響く。
「今日のあれ、何だよ。あの野郎にチラチラ見てたよな。俺のことなんか、もうどうでもいいって顔してたじゃねえか」
私は黙って、俯いたまま歩く。胸の奥で、何かがきしむ音がする。変化に気づかれたくないと思ってたのに、こんなに敏感に嗅ぎつけてくるなんて。スーツの男性がただコーヒーを飲んでただけなのに、それすら脅威になる。嫉妬じゃなくて、ただの所有欲。「おまえは俺のもの」って、刻みつけるための言葉の暴力。家までの道のり、ずっと悪態が続く。
「お前、金貯めてどうすんだよ」
「か……カフェを開きたくて」
「お前みたいなのが、独立とか夢見てんのが笑えるわ」
「そんな……」
「資金貯めてカフェ? そんな金、俺が管理してやるよ」
「自分で……出来る……よ」
「俺がいなきゃ、お前なんか何も出来ねえんだからな」
私は唇を噛んで、耐える。通帳の数字が頭に浮かぶ。あと少しで400万円。あと少しで、お爺さんの店が手に入る。この悪態も、この掴まれた腕の痛みも、全部、今日の積み重ね。
あと少しだけ、この鎖を握られててもいい。でも、いつか。この手が離れた瞬間、私は走り出す。メイド喫茶の制服も、くまちゃんのカップも、「おまえ」って呼ぶ声も、全部置いて。家が見えてきた。
モラちゃんは最後に、「今日のことは、忘れんなよ」って、腕を離さずに言う。私は小さく頷くしかない。でも、心の中では、違う言葉を呟いてる。忘れない。
でも、絶対に許さない。