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男性は翌日も窓際の席に座った。
ピンクのドアがカランと鳴った瞬間、店内の空気がまた少しだけ変わった。昨日と同じ、ダークネイビーのスーツ。ネクタイの色は今日は少し違う、深いグレー。髪は変わらず後ろに掻き上げて、一筋の前髪が額に落ちてる。彼は迷いなく窓際の席を選んで、コートを丁寧に椅子の背にかけて座る。まるで昨日からこの席が自分の定位置だったみたいに、自然で。オーダーは昨日と同じ。
「ブラックコーヒー。砂糖もミルクもなし」
私は厨房で、くまちゃんカップじゃなく、白いシンプルなカップを選ぶ。昨日、彼が飲む姿を見てから、無意識にそうするようになってた。インスタントの粉をスプーンで掬って注いで、湯気が立ち上るのを待つ。カップをトレーに乗せて運ぶ間、足が少し重い。店内の他のご主人様たちは、いつものように「きゅんきゅん♡」を求めてキャピキャピしてるのに、
この窓際だけが、別世界みたいに静か。テーブルにカップを置くと、彼は小さく「ありがとう」とだけ言う。昨日と同じ、普通の言葉。「ご主人様♡」とか「きゅんきゅん♡」とか、一切求めない。私は頭を下げて、「ごゆっくりどうぞ♡」って返すけど、声が少し掠れる。彼はもう視線を窓の外に移していて、眩しい陽光がスーツの肩に当たって、柔らかく反射してる。
ゆっくりとカップに口をつける。一口飲んで、目を細めて、息を吐く。その仕草が、丁寧に焙煎された豆を味わうみたいで、この店で出すインスタントコーヒーが、急に申し訳なくなる。でも、彼は文句ひとつ言わない。ただ、静かに、もう一口。カップをソーサーに戻す音が、カランと小さく響く。
ピンクのドアがまたカランと鳴った。いつものタイミングより少し早い。私はトレーを抱えたまま振り返って、思わず息を飲んだ。モラちゃんだった。
いつもの不機嫌そうな顔で、店内を品定めするように視線を巡らせて、一番奥の暗いテーブルじゃなく、今日は真っ直ぐ窓際へ向かう。スーツの男性が座ってる席の、斜め後ろのテーブルにどっかり腰を下ろした。視線が、すぐに私を捉える。「おい」って口が動いた気がしたけど、声は出さなかった。代わりに、目だけで「何やってんだ」って言ってる。
私は慌てて営業スマイルを貼り直して、「ご主人様、お帰りなさいませ♡」って頭を下げるけど、声が少し上ずった。同僚たちが「弥生さんの彼氏さん、今日も来たね~」って囁き合う声が、遠くで聞こえる。モラちゃんはメニューも見ずに、いつものブラックコーヒーを指差す。でも、注文の視線は私じゃなくて、窓際のスーツ男性に向いてる。彼はまだコーヒーを静かに飲んでいて、こちらの騒ぎに気づいてないふりをしてる。
でも、モラちゃんの視線はどんどん鋭くなる。スーツの肩幅、ネクタイの結び目、髪を掻き上げた仕草、全部を値踏みするように見てる。指がテーブルの上で、トントンと叩き始める。いつもの苛立ちのサイン。私は厨房でコーヒーを淹れながら、背中がぞわぞわする。
「ご主人様、お待たせしました♡ ブラックコーヒーでございます~」
私はモラちゃんのテーブルにカップを置いて、頭を下げる。彼はカップを手に取らず、「おまえ、さっきの客と何してた」って、低い声で吐き捨てる。周りのご主人様たちに聞こえないくらいの、小さな声。でも、毒が濃い。
「……ただの注文ですよ。お客様ですし」
私は小さく答える。本当は「きゅんきゅん♡」なんてしてない。あの人はただコーヒーを飲んでるだけなのに。「ふざけんな」モラちゃんはカップをテーブルに叩きつけるように置いて、「俺が見てんのに、他の男に媚び売ってんじゃねえよ」って、唇の端を歪めて言う。
嫉妬?
違う。これは嫉妬なんかじゃなくて、所有物が他の誰かに見られてるのが許せないだけ。
「おまえは俺の女だろ」って、言葉には出さないけど、目がそう言ってる。私はトレーを胸に抱えて、「そんなこと……ありません」って呟く。声が震えてる。彼の視線が、ますます重くなる。
窓際のスーツ男性が、ふとこちらをちらっと見た。
一瞬だけ。
目が合った気がして、心臓が跳ねる。
モラちゃんもそれに気づいたみたいで、指のトントンが、急に激しくなる。
「あとで話すぞ」
彼はそう言って、コーヒーを一口飲む。でも、味なんてどうでもいいんだろう。ただ、私を監視するために、ここにいる。スーツ男性がいるせいで、今日はいつもより苛立ってる。嫉妬じゃなくて、縄張りを侵されたみたいな苛立ち。私は厨房に戻って、深呼吸する。
背中で感じる2つの視線。1つはねっとり絡みつくモラちゃんの。もう1つは、静かに、でも確かに私を見てるスーツの。
どっちも重い。
でも、違う重さ。あと少し。資金が貯まるまで、この視線に耐えればいい。モラちゃんの嫉妬が、いつか私の鎖を切るきっかけになるかもしれない。それとも、もっときつく締め付けてくるかもしれない。どっちにしても、もう少しだけ。私は次のオムライスを温めながら、窓際の席を、ちらっと見る。
スーツ男性はまだ、静かにコーヒーを飲んでる。カップを置く手が、上品で。その仕草が、なんだか遠い世界のものみたいで、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
そこでスーツ男性が立ち上がった。ゆっくりと、でも確実に。椅子の背にかけたコートを手に取り、肩に掛ける仕草が優雅だった。胸ポケットから財布のようなものを取り出す。私は反射的にトレーを抱え直して、
「お会計ですか? ご主人様♡」
営業スマイルで近づく。
よく見ると、それは財布じゃなくて、厚みのない革の名刺入れだった。深い赤茶のレザー。一目で高級品だとわかる。安物じゃない。モラちゃんが持ってるような、派手なブランドのロゴ入りでもない。ただ、静かに「本物」って主張してる。
彼は名刺を一枚取り出して、目を細めながら微笑んだ。その微笑みは、昨日も今日も見たことのない、柔らかくて、少しだけ意味深なもの。名刺を、私に手渡す。指先が触れそうで触れない、絶妙な距離。私は受け取って、視線を落とす。
宇佐美一帆と、シンプルな文字。下に小さな会社名と役職。「代表取締役」って書いてある。連絡先の電話番号とメールアドレスは、控えめなフォントで。
モラちゃんの顔色が変わった。奥のテーブルでコーヒーを飲んでいたはずの彼が、カップを置く音が、カチン、と鋭く響いた。視線が、名刺入れから、私の手元へ、そして宇佐美さんの顔へ。指がテーブルを叩くリズムが、急に止まる。代わりに、足がイライラと揺れ始める。いつもの苛立ちのサインが、今日は倍増してる。嫉妬じゃなくて、縄張りを脅かされたときの、もっと原始的な苛立ち。
「宇佐美一帆と申します。この後お時間いただけますか?」
彼の声は、店内の甘いBGMを切り裂くように静かで、でもはっきり響く。周りのご主人様たちが、チラチラとこちらを見る。同僚たちの囁きが、ぴたりと止まる。
「アフターということでしょうか?」
私は反射的にそう返す。メイド喫茶のルールでは、アフターは禁止。でも、個人的にって言われたら、どう返せばいいのかわからない。
「いえ、個人的にお話ししたいことがあります」
宇佐美さんはそう言って、名刺を指で軽く押さえる。
「急なことで申し訳ないのですが、お時間、10分ほどで結構です。近くのカフェで、コーヒーを飲みながら……本物のコーヒーを」
最後の言葉に、ほんの少しだけ冗談めかしたニュアンスが混じる。この店のインスタントコーヒーを、暗に皮肉ってるわけじゃない。ただ、事実を優しく指摘してるだけ。でも、その一言で、私の胸がざわついた。
本物のコーヒー。
いつか自分が淹れたいと思ってる、あの味。
モラちゃんが立ち上がった。椅子がガタッと音を立てて、店内の空気が一気に凍る。彼は大股で近づいてきて、私の横に立つ。肩が触れるくらい近くて、息が荒い。
「おい、何の用だよ」
低い声で宇佐美さんに言う。声は抑えてるけど、明らかに敵意が滲んでる。
「俺の女に、何の用だ」
宇佐美さんは動じない。ただ、静かにモラちゃんを見て、
「彼女に、個人的に話があるだけです。あなたには関係のないことだと思いますが」
その言葉が、モラちゃんの逆鱗に触れた。顔が赤くなって、拳が握られる。
「おまえ、何様だよ。ここは俺の女の職場だぞ。勝手に声かけてんじゃねえ」
私は慌てて間に入ろうとするけど、モラちゃんの腕が、私の肩を強く掴む。痛い。でも、振り払えない。 宇佐美さんは名刺入れを胸ポケットに戻して、
「失礼しました。お邪魔したようですね。高千穂弥生さん、もし気が変わったら、連絡ください」
そう言って、軽く頭を下げる。コートを羽織って、ピンクのドアへ向かう。背中が、静かで、でもどこか堂々としていて。ドアがカランと鳴って、彼の姿が消える。
残された店内。
モラちゃんの息が、耳元で荒い。
「おまえ……あいつと何だよ……名前、知ってたじゃねぇか」
囁くように、でも怒りを抑えきれずに言う。私は名刺を握りしめたまま、俯くしかない。そうだ。彼は私の名前を知っていた。「高千穂弥生」と。名刺のレザーの感触が、手のひらに残ってる。本物のコーヒー。個人的に話したいこと。あと少しで手に入る夢が、急に、すぐそこまで近づいた気がした。
でも、同時に、この鎖が、もっときつく締まる予感もした。