マリアンヌ・ロゼットは、自室でそわそわとしていた。
侯爵令嬢にふさわしい広々とした部屋には、大きな窓が幾つもあり、春のうららかな陽の光が差し込んでいる。
薄桃色の壁紙は、光の当たり具合で鳥と葉柄が浮き出る異国から取り寄せた一級品。
ピカピカに磨き上げられたマホガニー調の鏡台とチェスト。座り心地のよさそうな猫足のソファ。巨大な天蓋付き寝台。それらを配置しても、マリアンヌが歩き回るには十分なほどのスペースがある。
「マリー様、少し落ち着かれてはいかがでしょうか?」
幾度となく扉と窓を往復しているこの部屋の主に向けて、侍女のジルは苦笑を浮かべながらそう言った。
「……うん。わかっているわ。でも……」
物心ついた時から、淑女としての礼儀作法を叩きこまれているマリアンヌは、己の取っている行動がそれにふさわしくないことを自覚している。
でも今日に限っては、年頃の乙女のままに行動させてほしい。
なにせ今日は、特別な日なのだ。
多分、人生においてこんなにもドキドキすることなんてないだろう。
しかも、それが自分の人生を大きく左右することなら、尚更に。
幼少の頃からずっと傍で仕えているジルだってそれくらいは承知の上。だから、彼女はマリアンヌの為に気持ちが落ち着くお茶を淹れている。
この部屋には、ノノと言う名の真っ白な毛並みのメス猫もいるけれど、主の一大イベントなど、どうでもいいらしく、一番日当たりの良い出窓の物置き部分で、うつらうつらしている。
「さぁ、カモミールティーが入りました。ラベンダーのクッキーもございますよ、お嬢様」
だからソファに座って、落ち着いてくださいな。
ジルは最後の言葉を口にすることはしないが、目でそう訴えながら、ソファの前のローテーブルにお茶と菓子の皿を置いた。
侍女に気遣われてしまったマリアンヌは、嫌とは言えず、素直にソファに着席する。
「いい香りね。ジルが淹れてくれるお茶は、世界で一番だわ」
「まぁ、恐れ入ります」
猫舌のマリアンヌは、カップを両手で持って、ふぅふぅと息を吹きかけながら、茶葉の香りを楽しんでいる。
その仕草があまりに可愛らしく、ジルはニコニコと笑みを浮かべている。
マリアンヌは、社交界ではセレーヌディア国の真珠と呼ばれるほどの、可憐な容姿をしている。
艶のあるブロンドの髪に、ミルクに一滴だけベリーの雫を落としたようなピンクパールのような肌。つぶらな瞳は、柔らかな新芽のような黄緑色で、憂いを帯びたようにいつも潤んでいる。
けれど、形の良い唇はいつも笑みを浮かべているので、全体的に優しく、ふんわりとした印象を与え、まさに真珠と言う名に相応しい侯爵令嬢だ。
そんな肩書を貰ってしまった本人は、必要以上にその名に相応しい振る舞いをしなければと意識してしまっている。
とはいえ、気の置けない侍女と二人っきりでいれば、真珠姫の仮面を脱ぎ捨てて素の自分に戻ってしまう。
しかも今、階下の応接室で家督を継いだ兄ウィレイムと、幼馴染のレイドリックが大切な話をしているから、取り繕いたくても、それができないでいる。
「ねえ、ジル。そろそろお兄様に呼ばれても良い頃だと思わない?」
お茶でのどを潤したマリアンヌは、おずおずとジルに問いかけた。
ジルはくすりと笑ってから答える。
「そうですね。マリー様のおっしゃる通りです。きっとヨーゼフさんは、大急ぎでこの部屋に向かっている最中だと思います」
何の根拠もないけれど、ジルはマリアンヌの希望通りの言葉を返す。
でも、当てずっぽうで口にしたそれは、預言に変わった。
──コン、コ、コン。
「来たわ!!」
特徴のある控えめなノックの音がしたと同時に、マリアンヌはカップを手にしたまま勢い良く立ち上がった。
「マリー様、お座りくださいませ」
このまま自分の手で扉を開けかねないマリアンヌを制止して、ジルは早足で扉へと向かう。
扉を開ければ、今まさに話題に上がったこのロゼット邸の執事──ヨーゼフがいた。
彼は、慇懃に腰を折ると、部屋へと足を踏み入れる。
そしてマリアンヌと視線を合わせると、口を開いた。初老の男性らしい、深みのある落ち着いた声音で。
「お嬢様、ウィレイム様がお呼びでございます」
「は、はい」
ぴょんとウサギのように飛び跳ねながら起立したマリアンヌだけれど、その表情はとても不安げだった。
「ねえヨーゼフ、お兄様はなんと仰っていたかしら?お願い、先に教えて」
使用人に向けるには、あまりにへりくだった態度だったが、そうまでしても知りたいのだ。
長年マリアンヌの傍にいる執事は、普段は意識して厳しいものにしている目元を特別に綻ばせて、こう言った。
「ご安心ください。マリー様のお望み通りになりました」
パッと笑顔になったマリアンヌは、気付いたらもう廊下に飛び出していた。
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