街へ近づくにつれ、星の瞬くよりも大きな人の声が聞こえ、小さな囁きは積み上がって徐々に高まり、塊になって熱を帯び、ついには怒号と叫び、悲鳴が荒波のように押し寄せてくる。ユカリは叫び声の聞こえる方へ、破壊音の聞こえる方へと通りをひた走る。
そして、とうとう蛾の怪物を見つけた。大通りの真ん中で天鵞絨煌めく外套のような翅を纏う巨人の如き怪物が、大口を開けて吠えている。
その怪物をテネロード王国の兵士たちが取り囲んでいる。剣や槍や弓を手に取って、鯨波を唱え、互いを鼓舞している。とはいえ戦場だとも言い難い様子だ。何十人が束になっても、蛾の怪物の羽ばたきに軽々と吹き飛ばされ、体毛に覆われた手に捻り潰されるだけだった。
かつてない災厄に見舞われたナボーンの街は誰にともなく助けを乞い、しかしその声は誰にも届かなかった。
勇敢なるテネロード王国の兵士たちはばちばちと爆ぜる松明を掲げ、鍛え上げられた槍の鋭い穂先を突き刺し、素早く正確に矢を射かけるが、怪物は傷つく巨体を気にも留めない様子で暴れている。
しかしそれは理由もなく手足をばたつかせているわけでもないようだ。魔女の牢獄で三体の怪物を見たユカリには、その蛾の怪物のある特性にすぐに気づかされた。
蛾の怪物は明かりを狙っている。松明を持つ兵士や、街の窓辺に飛び掛かり、瓦礫や血によって灯が消えるまで暴れ、消えると次の明かりを目指す。それこそ灯りに集まる羽虫のように。
ユカリは一つの閃きを得る。魔女シーベラは息子に手出しする月を憎んでいたという話。ある種の蛾は月の灯りに誘われて飛ぶという話。それらがこの事態を収める鍵になるかもしれない。
怪物を取り囲む兵士たちの後ろで、馬に跨ったパージェンス王子が怒鳴るように指示を出している。とはいっても具体的な策は何もないらしく、ただ様々な言葉を弄して攻め立てることを命じていた。
ユカリはパージェンス王子のそばへ急ぐ。魔法少女の小さな体で兵士たちの間を掻い潜り、馬上の王子を見上げる。
ユカリは怒号に負けないように声を張り上げる。「恐れながら申し上げます、殿下。怪物のことでお聞かせしたいことがございます」
すぐそばにいた騎兵が慌てた様子で間に入り、立ちはだかる。「何だ、お前は。子供がこんなところで何をしている」
その兵士の肩の向こうで振り向いたパージェンスは眉を顰める。「よい。何も持たずに国へ帰る恥に比べれば、奇怪な格好の子供に頼るのもなにほどのことよ。何か知っているのなら申せ」
ユカリははっきりとした口調で進言する。「怪物は明かりを嫌い、襲い掛かっているのです。まずは全ての明かりを消してはどうでしょうか?」
「何?」パージェンスは怪物の方へと視線を向ける。こうしている間にも蛾の怪物は松明や篝火の明かりに次々と飛び掛かっている。「ほう。確かなようだ。松明を持つ者から狙われているな」
パージェンスがまた別の騎兵を呼び寄せて耳元で何かを命じると、その騎兵は怪物の方へと走っていく。パージェンス王子の命令を叫び伝えている。
テネロードの兵士たちはすぐさま命令に従って怪物の方へと松明を投げつけた。夜空に弧を描いて火の群れが飛んで行く。同時に兵士たちは叫んだり怒鳴ったりするのをやめ、怪物から距離を置いた。
静寂が押し寄せる中、怪物は足元に転がった松明に一瞬だけ怯んだようだが、唸り声をあげながら一つ一つ叩き、踏み消し始める。地面を打ち付ける音が太鼓のように響き、大きく距離を開けたユカリのもとまで震動が届く。いくつかの馬が怯えて嘶くが、兵士たちはじっとこらえている。
「なるほど。こちらへの興味を失したようだ」パージェンス王子は再び高らかに命じる。「いざ行け! 猛き川の子等よ! その怪物の血を母なる大河に捧げるのだ!」
兵士たちは再び鬨の声を上げて怪物に攻めかかる。主君が見事に怪物の習性を利用したのだと兵士たちは感じ入り、士気を高めていた。
怪物の方は兵士に目もくれず、温かな明かりを灯した窓辺へと飛び掛かる。ナボーンの街の人々はすでに逃げ果せているようだが、灯りを消し忘れて立ち去った者がいくらかあるようだ。
「これはむしろ火をつけたままの方が戦いやすかったのではないか?」とパージェンスはぼやいたが、ユカリは既に一陣の風と共に飛び去っていた。
魔法少女は屋根の上を駆け巡る。思いのほか明かりが多く灯っている。まだ逃げられていない者も少なくない。
「何とか他の灯りも消さなきゃ。グリュエー。窓辺の灯り、窓蓋が閉まっているところはともかく、開いているところなら……、あ!」とユカリは声を上げる。
船をひっくり返したような屋根の舳先でユカリは立ち止まる。
「どうしたの? ユカリ」グリュエーがユカリの耳元でそよぐ。「灯を消して来ればいいの?」
「そうなんだけど。その前に確認したいんだけど、昨日の朝、グリュエーが窓蓋を開かなかった?」
その時の違和感の正体にようやく気付いた。
「そうだよ。それがどうかしたの?」
「だっていつだったか密室では吹けないって話をしたじゃない?」
「密室じゃないよ。グリュエーが窓蓋を開いたんだから」
「それを言うなら、そうできる機会は今までに何度でもあったでしょう? 何で今までできなかったの?」
「今までできなかったのは今までできなかったからで……あれ? グリュエー、何か変わったの?」
変わったのだとすれば、エベット・シルマニータの街で出会ったもう一人のグリュエーが関係しているに違いない。そもそもあのグリュエーは消えてしまったのか、あるいはグリュエー同士融合してしまったのか、それは分からないままだ。
ベルニージュに言わせれば、全く同じで区別がつかず目に見えず、しかもグリュエー同士で直接会話しないのなら、今そばにいるグリュエーが二人だとしてもユカリには分からない、という考え方もあるとのことだった。
「グリュエーはたぶん、成長したんだよ」とユカリは一つの思い付きを呟く。
「成長? 大きくなったってこと?」
「出来ることが増えたってこと。吹くだけだったのが、吹き込めるようになった、のかもしれない。グリュエー。この街の全ての灯を消せる?」
「たぶん、ユカリが見ていてくれたなら」
ユカリは取り急ぎ、このナボーンの街で最も背が高い市庁舎の時告げの鐘楼の頂に登る。この街に相応しい赤い屋根の丸みを帯びた鐘楼だ。大体街の中心にあるのも丁度いい。
怪物がどこで暴れているのかも、街をどのように進んでいるのかも一目瞭然だ。素敵な街並みが無残に破壊されていく。人々の悲鳴はまるで崩れ行く建物の悲鳴、あるいは身を削られる街の悲鳴のようだった。
「任せたよ、グリュエー」
「任されたよ、ユカリ」
ユカリの周りを大きく渦巻くと、強風が一斉に街の外縁へと吹く。静かに眠りに就いていた鐘が起こされ、不満げに鳴り響く。グリュエーは轟き、近くから遠くへ、街明かりの一つ一つが消えていく。蛾の怪物の標的が失われていく。
とうとう全てを消すと、いつも通りそばにいるグリュエーが嬉しそうに言った。「どうだ!」
「完璧! これで上手くいけばいいんだけど」
見渡す限り街に光はない。少なくとも怪物は建物の破壊をやめたようだ。
「どうなるの?」とグリュエーが尋ねる。
「月に行ってもらうの」
もしも蛾の怪物が月の灯りにも誘われるなら、そのまま月へ送ってしまえるかもしれない、と考えたのだった。
「月? ユカリ、月、見えなくなるよ」
ユカリは驚いて振り返り、夜空を見上げる。どこからか現れた厚い雲が今まさに月を隠してしまうところだった。
ユカリは拳を振り上げて、月に【叫ぶ】。「隠れるな! 元はといえば貴女が原因でしょ!?」
しかし月は返事することなく、雲の向こうに姿を消した。
だとしてもだ、とユカリは冷静に考える。標的を失った蛾の怪物は何に襲い掛かるでもなく、パージェンス王子がとどめを刺すことだろう。もはや魔導書は宿っていないのだから、いくら強力な怪物とはいえ退治できないことはないはずだ。魔女の牢獄でのことを思い出して、ユカリは確信していた。
しかしユカリの立てた予想に反して、蛾の怪物は空へ舞い上がる。しかし月でもなく、星でもなく、ユカリの方を目指して飛んでくる。
「何で!?」とユカリは叫ぶ。
「何でもいいから逃げなきゃ!」
グリュエーの叫びに応じて、ユカリは鐘楼から飛び降りる。蛾の怪物は勢いよく鐘に体当たりし、鐘楼台ごと破壊する。大きな鐘は弾き飛ばされ、屋根と壁にぶつかり、地面へと落ちた。荘厳で痛々しい音がナボーンの街にこだまする。
ひとたまりもない一撃だ。
「グリュエー! 雲を吹き飛ばして月を引きずり出せないの?」
「遠いよ。まずユカリが雲に近づいてくれないと」
「またあんなに高いところまで? でもそれしかないか。いや、待てよ。グリュエーが雲を吹き飛ばしている間、私はどうなるの?」
「落ちるんじゃない? 何とか怪物の体当たりを避けて」
「空中で!? 無理だよ! そもそも何であいつは私を狙うの?」
ユカリは申し訳ない気持ちになりつつも建物を盾にして逃げ回り、ときに空へ飛び上がる。怪物の巻き起こす風とグリュエーの巻き起こす風に翻弄されつつ、追ってくる巨大な蛾の怪物の巨大な手を避ける。
「光ってるからじゃない?」とグリュエーは分かり切ったことだという風に言った。
「それだ!」と空中で叫ぶ。魔法少女そのものが淡く光を放っているのだった。「とりあえず変身を解けば……」
その時、ユカリは真っ暗闇のナボーンの街の上から、遠目に明かりを見出した。それはおそらくナボーンより遠く離れて行こうとするナボーンの街の人々の持つ松明だ。だがまだすぐ近くにいる。いまユカリが変身を解けば怪物の標的になってしまう。
「そういう訳にはいかないか。私がやるしかない。それにしても何の武器もないんだよね。剣を借りてくればよかったよ。いや、武器なら一つだけあるか。たぶん魔女シーベラの怪物なら、たぶん効くよね」
ユカリは宙を舞いつつ、蛾の怪物に視線を送る。美しくも無表情の怪物はただ眩しそうな眼差しをユカリに向けている。
「どうするの? ユカリ」
「真正面から行けば押し潰される。グリュエー。私を蛾の怪物の背後に回り込ませられる?」
「やってみる。なるべく死なないでね」
「それは私の得意とするところだよ」
ユカリの体は高く高く打ち上がり、怪物も負けじと追ってくる。変幻自在のグリュエーに比べれば蛾の怪物は鈍重だ。ユカリは死なない程度に風に身を任せ、空中で体を捻り、回転し、とうとう怪物の背を見る。翅に描かれた二つの禍々しい目玉がユカリを睨みつける。
「行け! グリュエー!」
「行け! ユカリ!」
ユカリは怪物に背後から抱きつくと、額を押し付けた。これは賭けだ。怪物も含まれることを願う。
狙い通り、ユカリの額の触れた怪物の背中に火がつく。すぐさま翅に火がつき、ユカリ共々炎に包まれる。
ユカリにとっては熱くない炎にしてくれたことをベルニージュの母に感謝する。シーベラとシーベラの魔法を焼き尽くす炎が一回限りでなかったことは幸運だ。
ユカリと怪物はナボーンの街に落ちていく。怪物は屋根に叩きつけられ、転がり、通りへと落ちる。
ユカリはグリュエーの助けで少し離れたところに着地して変身を解く。どこも打っていないはずだが、空中で全身を捻ってしまったらしく、体が痛みという言葉で文句をつけてきた。
翅から体へ火が移ると怪物はさらに暴れ狂う。その雄叫びはどれほど勇敢な戦士も残虐な獣も震え上がらせる冥府からの響きのようだ。
「火を消されるかもしれない。グリュエー。空気を送り続けて」
グリュエーが応じると怪物を焼く炎は爆発的に膨れ上がり、一層猛り狂う。ハウシグ市の石門を焼き尽くしたベルニージュの母の炎をユカリは思い出す。
「ユカリ!」と背後から呼びかけたのはベルニージュだった。
ユカリは身動きが取れず、そばにやってきて肩を支えてくれたベルニージュに微笑みかける。ベルニージュは燃え上がる炎に目を細め、悲し気な表情を浮かべている。
「私ならほとんど怪我はないよ、ベル。私、とうとう怪物退治できた。白状すると、この旅ではベルに沢山助けてもらったのに、私の方は良いところを見せられなかったから、ちょっと悔しかったんだ」
「そんなことないよ。ユカリは多くの人を助けたでしょ?」
「魔女の牢獄でもそうだった。老翁の大蛇はベルが、シュビナはグラタードさんがとどめを刺した。鱗の小人は、鱗の小人は……、あれ? 鱗の小人に挑んだのは私一人だったっけ?」
その時、一頭の純白の蝶が、燃え盛る怪物の方からゆらゆらと上下しながら飛んできた。
ベルニージュが手でユカリの口を塞ぐ。ベルニージュの手に阻まれて、その手に蝶がとまる。
「離して、ベル」ユカリは手に塞がれた口でもごもごと喋る。そしてベルニージュの手首を握る。「この蝶って記憶でしょ? 私のところに飛んできたってことは私の記憶だよね?」
ベルは険しく悲しげな表情で、ユカリの口から手を離し、何も言わずにユカリを強く抱きしめる。まるでどこかへ行ってしまうのを食い止めるかのように強く抱きしめた。
純白の蝶はユカリの口の中に消える。そしてユカリの忘れていたサクリフの記憶が蘇る。今、全ての動きを止めて、ユカリの目の前で炭になりつつある怪物の正体が誰だったかを思い出す。
炎に駆け寄ろうとする衝動ごとベルニージュに抱き締められ、ユカリは涙を流し、くぐもる声で許しを乞う。
元に戻す方法などなかった。他にできることなどなかった。ベルニージュの慰めの言葉はユカリに届かず、その嘆きは止め処なく溢れた。
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