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天幕が取り払われるように雲が晴れ、月が再び夜の舞台に現れる。夜の女王の冷淡な光明が、舞台上の悲劇役者を照らし出すように蛾の怪物に成り果てたサクリフの姿を露わにする。ユカリによって黒々とした炭の塊の如き姿に貶められたサクリフは、広い通りの石畳に伏すように倒れている。
ユカリはそのそばに駆け寄り、許しを請いたかったが、ベルニージュが離してくれず、ただ涙を流すことしかできなかった。
取り戻したばかりのサクリフの記憶がユカリの頭の中で鮮明に浮かび上がる。
出会ったばかりの時の銀の鎧。英雄物語について語る時の子供っぽい声色。
女であることを明言したときの苦笑。ベルニージュをからかうような口調。
雪のように白い髪と黄昏のような青紫の瞳を露わにし、生贄だった自分を語る寂しげな横顔。
自らを犠牲に、鱗の小人に一太刀浴びせた凛々しい表情。
蛾の怪物になった後でさえ、その面影の残る表情には優しさを秘めていた。
その全てが失われた。サクリフとサクリフの夢がユカリの手によって焼き尽くされた。
ユカリは涙に曇る瞳で、ベルニージュの肩越しにサクリフの姿をじっと見つめる。一度は記憶さえ手放していた己を恥じ、サクリフと己の罪を二度と忘れないように脳に焼きつけようとする。
その時、その黒い塊が少し動いたことにユカリは気づく。涙を拭い、自分を抱きしめるベルニージュの肩を叩く。
「ベル! ベル! サクリフさんが動いた! 生きてる! 離して!」
ベルニージュが曇った表情のままユカリを抱きしめる手を緩める。ユカリが自暴自棄になって何かをしでかさないかというベルニージュの警戒が、ユカリにも分かった。
次の瞬間、蛾の怪物が勢いよく立ち上がり、雄たけびを上げた。翅も全身もぼろぼろだが、まだ形を保っている。
ベルニージュがユカリを庇うように立ちはだかる。
サクリフは二人の少女を両眼に捉えたまま、翅を大きく広げて駆けてくる。ユカリもベルニージュもほとんど反応できないうちに、サクリフは跳躍し、そのままユカリたちを押し倒して覆いかぶさった。サクリフの顔で型を取った仮面のような表情には変わらず堅くも優し気な感情を湛え、そして決意のような意志をユカリは感じた。
何か声をかけようとした矢先、無数の矢がサクリフの翅に突き刺さる。サクリフは表情を歪めることなく、その天からの攻撃を全て受け止める。その鏃が人の手によるものでないことは一目でわかる。複雑で流麗で何より禍々しい、その拵えは《熱病》が放っていた矢だ。
サクリフがゆっくりと立ち上がり、夜空と対峙する。月を背にして宙に浮かぶ《熱病》は遥か上空にいるにもかかわらず、まるで目の前に立ちはだかっているかのような存在感を感じさせた。どのような表情なのかすら分かってしまう。遠く離れてなおユカリたちの頭の中に存在感そのものが押し入って来る。
人に似た形をしてはいるが、尋常の人間の背丈の倍はある。それでも今のサクリフよりは小さいが、その存在は幽玄で輪郭がはっきりとしないせいか、より大きく見えてしまう。白い髪は炎のように迸り、黄色い肌は月のように輝いている。驚異を濾して固めたような櫟の弓を携え、神秘を凍てつかせたような銀の箙を背負っている。
「何で《熱病》が? 私たちが狙われてる?」とユカリは呟く。
「月の恨みを買った覚えなんてない?」とベルニージュが尋ねる。
「……恋路を邪魔したくらいだけど」
「十分かもね」
「理不尽だよ」
そうしている間にも次々と銀の矢が降り注ぎ、サクリフに突き刺さる。ユカリとベルニージュの眼前に広げた翅に無数の穴が開いていく。しかし矢は通り抜けず、ユカリとベルニージュは無傷だった。
しびれを切らしたのか《熱病》が落ちてくる。矢にも劣らぬ速度で地上へと落ち、ユカリたちのそばにふわりと着地したかと思うと、サクリフを蹴り飛ばす。《熱病》は目を瞑っているようにしか見えないが、その振る舞いは何もかも正確で精密だ。またサクリフの巨体に比べればとても小さな体にもかかわらず、秘められた力は強大で、その蛾の怪物の体は地面を跳ねるようにして転がった。
サクリフの体を叩きつけられた建物は砂山のように呆気なく崩れる。その巨体は瓦礫に埋まった。
次いで困惑に満ちた人々の悲鳴が聞こえる。逃げ遅れたのではなく、隠れ潜むことを選んだ人々がいたらしい。彼ら彼女らは家を破壊した怪物に呪いの言葉をぶつけながら散り散りに逃げまどう。何も知らずに《熱病》の方へ逃げてくる者もいる。
「こっちに来ちゃ駄目! 逃げて!」
ユカリの叫びは聞こえているはずだが従う者はいなかった。
サクリフの埋まった瓦礫の方に顔を向けていた《熱病》は、おもむろに弓を構えたかと思うと彼ら無辜の人々に射かけた。
「私たちが狙いじゃなかった?」とベルニージュが呟く。
「グリュエー! 《熱病》から人を遠ざけて!」とユカリは怒鳴るように言う。
「優しくはできないよ!」
轟風が《熱病》を中心に吹き荒れ、人々を遠ざける。咄嗟に抗おうとした者は地面を転がっていく。ユカリとベルニージュもまた巻き込まれ、地面を転がることになった。
獲物を失った《熱病》は瞼を閉じながらユカリの方をちらりと見る。そして幽かな微笑みを浮かべたかと思うと、再び夜空に舞い上がった。間もなく無数の輝かしい矢が、夜空に花開くように街全体へ飛来する。ユカリとベルニージュは建物の陰に隠れてやり過ごす。
「これはもう無差別な嫌がらせだね」とベルニージュは夜空を見上げて呆れたように言った。
「災いなんてそんなものかもしれないね」とユカリは諦めたかのような声色で言う。
雄叫びが聞こえる。勢いよく瓦礫を弾き飛ばしてサクリフが立ち上がり、夜空を見上げて吠えていた。そうして傷だらけ穴だらけの翅を羽ばたかせて舞い上がり、まっすぐに《熱病》の方へと飛んで行った。
矢の雨は止んだが、代わりに怪物と厄災が取っ組み合い、時に地上に降って来る。その衝撃を受け止めた赤い屋根が割れ、支えきれずに壁が崩れる。
「熱病の雨よりはましだね。今の内に避難を呼びかけよう」と言って、ユカリは建物から飛び出す。
隠れ潜んでいる人々に街を出るように声高く叫ぶ。全員が応じているかどうかなど知る由もないが、老いも若きも男も女も次々に建物から出てくる。
何かを知っているらしいユカリに問いかける者、罵る者、泣き叫ぶ者。様々な人々に街から逃げるよう促す。
「あれは何なんだ!?」「本当に大丈夫!?」「何が暴れているんだ!?」「どこに逃げればいいの!?」「あれは蛾の怪物じゃないのか!?」「テネロード軍は何をしている!?」「屋根が! 鐘楼が! 街が!」
ユカリは誰にも負けない声で全員に応じる。「いま! みんなを守るために! サクリフが戦っているんだ! 早く逃げろ!」
ユカリの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、変わらず人々は口々に喋る。
「サクリフって誰だよ」「あの蛾と戦ってる奴か?」「輝いてる。神の御使いじゃないか?」「神が我々に救い主を遣わせてくれたんだ!」
逃げてくれるなら何だって良い、と思いつつも人々の勘違いを是正しようとユカリが再び怒鳴ろうとしたその時、轟音と共に何かが家屋の壁に叩きつけられる。
それはサクリフではなく《熱病》だった。辺りをグリュエーが渦巻いている。《熱病》は矢を番える。そして恐れに従わず、怒りに従って怒鳴るばかりの民衆に射かける。その矢は風に阻まれることなく、一人、二人と射倒した。しかし三人めが狙われる前にサクリフが降りてきて盾になった。
辺りが静まり返り、恐怖が主導権を握る。人々の悲鳴が溢れかえる。しかし今度は何から逃げればいいか分かっていた。皆が一塊になって《熱病》から逃げる。倒れた人々さえも見捨てられることはなかった。
「グリュエー。もう大丈夫だよ。みんなちゃんと逃げてる」
風の轟きが止み、再び怪物と厄災が殴り合い蹴り合い掴み合う。拳は鉄槌のように唸り、お互いの体を容赦なく打ち付ける。軽やかに夜空を舞い、重い一撃を見舞い合う。
その戦いを見上げて、ユカリは悲し気に呟く。
「やっぱり月と戦うために生み出された怪物、なのかな。シーベラに聞いておけばよかった」
「たぶんそうだけど、贔屓目に見積もっても互角だね」
「どっちに贔屓したの?」
ベルニージュは困惑したように答える。「サクリフだよ」
「そうだよね」
サクリフと《熱病》の様子を見るに、ほとんど一方的だ。《熱病》は傷一つどころか、その身に纏う薄衣に綻びすらない。
「どうにかして助けられないかな」とユカリははやる気持ちを抑えて呟く。
「助けたいのは山々だけど、《熱病》を倒した後にまたサクリフと戦うことになるかもしれないよ。獣のような気迫だけど、どちらにもきちんと知性がある。同じ手は通用しない」
ただ暴れ狂う獣のような戦いではない。《熱病》は拳を握って殴り、掌を開いてサクリフの猛攻を捌く。一方サクリフも獣じみた雄叫びをあげてはいるが、闇雲に突っ込んだりせずに、時には引いて距離を取り、その鋭い眼光で相手を見極めようとしている。ユカリに襲い掛かってきた時とは別の生き物のようだ。
「せめてあの矢を奪えば、私たちや街の人々が狙われなくて戦いに集中できるかもしれない」とユカリは戦いを見守りながら言った。《熱病》はサクリフと取っ組み合いながらも、隙を見て弓を引こうとしている。「ベルは逃げ遅れた人を探して誘導してくれる?」
「一人でやる気?」とベルニージュは尋ねる。
「グリュエーもいるけど」とグリュエーがベルニージュには聞こえない声で唸る。
しかしベルニージュは察したように微笑む。「まあ、グリュエーがいるなら安心かな」
「そうでしょうとも」とグリュエーは嬉しそうに言った。
「分かった。こっちは任せて、ユカリ。無理しないでね」
「ベルこそね。グリュエー。行くよ」
グリュエーが猛然と吹き荒び、魔法少女の体を持ち上げる。淡い紫の光が真っすぐに、夜空の争いの方へと飛んで行く。
つかず離れず、ユカリはサクリフと《熱病》の周囲を巡る。《熱病》の閉じられた瞼の向こうの視線を感じる。
「グリュエー。サクリフに私たちが合わせるしかないよ」
「うん」
そうしている間にも拳の応酬は続く。《熱病》の拳がサクリフの腹にめり込み、サクリフの拳が《熱病》の脇腹を捉える。しかしどちらも怯むことなく、絶えることのない新たな拳を見舞う。
「隙なんてないね。作るしかない。グリュエー。常に《熱病》の背後へ回るようにして」
「隙があれば弓を奪えばいいんだね」
「違う。優先して奪うのは箙だよ。《熱病》は熱病を手で投げることもできるからね」
「そっか。それにしても隙、できるのかな」
ユカリは《熱病》の背後に回りながら答える。「できるよ。さっきは《熱病》の方が地上に落ちてきたでしょ。ああいう好機を、サクリフなら生みだせる。信じて」
手数は《熱病》の方が多いが、一撃の重さはサクリフに軍配が上がるようだ。《熱病》には傷一つないが、それは見た目だけのことかもしれない。徐々に動きが鈍っているように、ユカリには思えた。
「もうすぐだよ、グリュエー。もうすぐ」
次の瞬間、脇に回り込んで翅を掴もうとした《熱病》の上を取ったサクリフが拳を振り下ろし、顎をとらえる。
「今だ!」
ユカリとグリュエーの狙い通り、《熱病》は風に巻かれ、手放すまいと弓と箙を握りしめる。しかし、そこにサクリフが新たに拳を見舞い、とうとう二つの神秘に満ちた武具を手放した。グリュエーは箙だけではなく、弓をも握りしめて、忠良な猟犬のようにユカリのもとへと戻って来る。
「さすがグリュエー!」ユカリは風を称え、伸ばした手に弓と箙を受け取って、そして力なく呟く。「ああ、そうか。そこまでは考えてなかった。馬鹿だな、私」
ユカリの体から急速に力が抜け、体の芯から燃え上がるように熱が上がる。呪いを貰うのに矢が体に刺さる必要はなく、触れるだけで充分だったのだ。ユカリは地上へと落下する速さでグリュエーに逃がされる。
「とにかく離れて」とユカリは力なく呟く。
サクリフもまたユカリを助けようと気が逸れてしまった。ユカリを追って落ちるように飛ぶ。《熱病》はその好機を見逃さなかった。
ユカリを捕まえたサクリフの脇腹に《熱病》の拳が突き刺さり、貫く。ユカリと怪物は衝撃と風に流されて、街の端の方へ落ちていった。
グリュエーがユカリと地面との間に入って墜落は免れるが、勢い余って激しく転がった。ユカリはそれでも銀の箙を手放さなかったが、銀の矢が零れ落ちる。
サクリフの体からは血が漏れなかったが、ぼろぼろと炭化した肉が崩れるように零れる。そして、かつてサクリフが身につけていた銀の鎧の一部が露わになった。その巨体の中にまるごと全身鎧が入っていたということだ。
熱にうなされながらもその残酷な光景を目の当たりにし、ユカリの視界が再び涙で曇る。
追って来た《熱病》は静かに地上に降り立つと、地面に転がる矢を一つ拾い、倒れ伏すユカリとサクリフへの興味を失ったように離れていく。その時、ユカリの蓋をしたような聞こえない耳にも悲鳴が聞こえた。
「おい! どうしたんだよ! 真っ黒こげじゃないか!? おい!」
霞む目に歪む星空とサクリフにすがりついて怒鳴る山彦の姿が見える。
しかし悲鳴の主はそれではない。《熱病》の歩いていく先にナボーンの街の人々がいた。逃げ遅れた人々は、しかし《熱病》の驚異を秘めた姿を見て、何かを諦めてしまったように立ち尽くし、座り込み、慈悲を求めて拝んでいる。
まるで終わりを伝えにきた死神のように淡い輝きを身に纏った《熱病》は無辜の人々にゆっくりと近づくと、目を瞑り、手を組んで祈りを捧げる一人の娘に、手に持った矢を静かに突き刺す。娘はその場で力なく伏した。しかし、それでも人々は畏れの余り逃げることもせず、ただすすり泣くばかりだった。《熱病》は慈悲でも与えるように厳かな儀式の一部であるかのように、人々に手をかける。
力の入らない手に力を入れ、ユカリは何かを探すように、何かを掴み取るように手を伸ばした。その手に取ったのは炭にまみれた蛾の怪物の手だった。ほとんど人間と同じ形だが、体毛が生えていて、それが黒く焦げている。
「サクリフ、助けて」
ユカリの力ない言葉に、力ない手に答えるようにサクリフがユカリの手を握り返し、手を離す。
勇ましい雄叫びを、ユカリは聞く。蛾の怪物の叫びではない。それは闘争に臨む戦士の叫びだ。
炭化した蛾の怪物の背中が弾け飛ぶ。繭から羽化した蛾のように銀の鎧が身を起こす。その手には銀の剣が握られている。
すぐさまに《熱病》は振り返り、銀の矢の呪いを投げつけるが、銀の鎧は一太刀に切り伏せた。その勢いのまま月の眷属の元へと駆け、銀の剣は《熱病》の胸を刺し貫いた。《熱病》は呻き声もあげず、直ちに霧散した。
ぼろぼろになった銀の鎧をまとうサクリフがそこにいた。輝くような白い髪、深い知性を帯びた青紫の瞳。蛾の怪物ではない、人間の姿で剣を構えている。
ユカリの熱が急速に引いていき、力が湧いてくるのを感じる。代わりのようにサクリフが膝から崩れ落ちる。ユカリは背中から飛びつくが支えきれず、サクリフは地面に伏す。
「やあ、ユカリ」サクリフは潰れた喉で血に濡れた声で喋る。「怪我がないといいんだけど」
「ありません。ぴんぴんしてます。サクリフさんが助けてくれたからです」ユカリは涙を拭い、涙を堪えて言う。
「僕は助けられたのかな。ユカリ。彼女はもう泣いていないのかな」
ユカリはサクリフの細くも堅い手を握りしめる。
「サクリフさん、喋らないで。もう大丈夫ですから。みんな助かりましたから」
「泣かないでくれ」そう言ってサクリフは力ない手を伸ばし、震える指でユカリの涙を拭う。「僕は君を助けに来たんだ。もう安心していいからね」
それがサクリフの最期の言葉だった。