あれから、沙良とまたあんな風に言葉を交わせる機会はなかなか巡ってこなかった。
僕の周りにはどんなに追い払っても……相変わらずしつこいくらいに取り巻きみたいなのが四~五人ずつくっ付いていたし、彼らを振り解いたところで運よく沙良とふたりきりになれる率は、限りなくゼロに近かった。
でも……それでいいんだ。僕はちっとも焦っていない。誰かの懐へ入るには、ゆっくり、じわじわと近付かなきゃいけないんだ。急いてはことを仕損じるとはよくいったもの。
気持ち的には今すぐにでも沙良を捕まえて、僕の手の中へ囲ってしまいたい。その思いは日増しに強くなっていたけれど……そう希ってしまうからこそ、急いじゃいけないんだ。
どうにか沙良の油断を誘って、誰よりも近い存在に自然と収まらなきゃ。
***
あれから一ヶ月余り。
僕と沙良の間には、さしたる進展もないままに月日だけが無為に過ぎていた。
(あ……、いたっ。沙良だ!)
僕は、構内のカフェテリアの片隅で本を読んでいる沙良をたまたま見つけて、嬉々とした。だけどそんなのはおくびにも出さずポーカーフェイス。何気ない風を装ってカフェに入ると、沙良からは死角になる位置に陣取って、彼女の一挙手一投足を見逃さないようじっと観察する。
(ああ、沙良。今日も可愛いね……。けど――)
せっかく以前眼鏡が似合っていないことを指摘してあげたというのに、彼女はまだ野暮ったい眼鏡を掛けたままだった。
(どういうことだろう?)
大抵の女の子なら、僕が「その方が可愛く見えるよ?」と指摘すれば、尻尾を振ってイメージチェンジを図ろうとする。
だが、どうやら沙良は違うようだ――。
まるで僕からのアドバイスなんてなかったみたいに……それこそ頑なに外部との距離を取ろうとしているようにさえ見える。わざとらしいくらいに冴えないその見た目には、もしかしたら僕が知らないだけで何か彼女なりの〝特別な意味〟があるのかも知れない。
そうして……僕も実際のところ、僕の指摘通りにしなかった沙良を見て、――それこそ矛盾だらけなことに――ホッとしていたりもするんだ。
思わず沙良にあんなアドバイスをしてしまったけれど、もし彼女が一念発起してコンタクトレンズデビューなんて果たしてしまっていたら、僕はきっとすごく焦ったはずだ。
まだ沙良を僕の内側に囲い切れていない現状で、そうなってくれるのはハッキリいって、あまりよろしくない。
沙良が、あの眼鏡の下に信じられないような愛らしい顔を隠しているのは、まだ当分の間は僕だけが知っている、〝隠された宝物〟であってくれるほうが好都合だ。
***
あれから、二週間ほどが経った。
沙良とは、相変わらずまともに言葉を交わせていないまま。
僕のアドバイスなんてなかったかのように、彼女は今日も野暮ったい眼鏡をかけ続けていた。
――けれど、それでもいい。
それよりも、まずは急がず焦らず、ただじわじわと染み込ませるように沙良に近付く方が先決だ。
そう思っていた矢先だった。
(……あれ?)
構内のカフェテリアを通りかかったとき、ふと視界の端に見覚えのある姿を見つけた僕は、思わず立ち止まった。
沙良だ。
彼女はいつものように顔を伏せがちにしてカフェの隅っこの方で本を読んでいた。チラチラと見えるその横顔を見て、僕はちょっとした違和感を感じたのだ。
(少し、髪を切った?)
ほんのわずか。たった数センチの変化。
けれど、以前よりも顔周りがすっきりして、表情が見えやすくなっていることに、僕は気が付いた。伊達に毎日沙良を見ていないからね。
(……何か、あったのかな?)
もちろん、それが僕の言葉の影響かなんて分からない。いや、むしろただ単に前髪が鬱陶しくなっただけという可能性の方が高い気がした。だって眼鏡は依然として野暮ったいままだから。
それでも、彼女の中にわずかな変化――揺れ?――が生まれた。僕はそんな風に感じたんだ。
あれほど頑なに変化を嫌っていた彼女が、ほんの一ミリでも何かを変えた。
僕はその事実に、胸がざわつくのを感じて……。
(……もう少し、近づいてみようかな?)
その衝動に従って、僕は何気ない風を装ってカフェテリアに入ると、カウンター席の角へ座る沙良の、すぐ後ろのテーブル席へ向かった。
そうして、あえて沙良の後ろを通るとき、わざと手にしていた荷物をばさりと床へ落したんだ。
「あっ」
物が落ちる音と、僕の驚いたような声音に、沙良が読んでいた本から顔を上げると、ちらりとこちらを振り返る。
僕はそのチャンスを絶対に逃がさないと決めていたから、バッチリ沙良と目が合った。
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