きっと、沙良としては気付かれないように様子を見たつもりだったんだろう。
「……っ!」
声なき悲鳴を上げて瞳を見開く様が可愛くて、僕は心の中で一人悶えた。
「騒がせてごめんね」
だけど表向きはそんな歓喜の心なんておくびにも出さず、そればかりか眉根を寄せて弱り顔。床へ散らばった荷物を拾おうとした。
幸い店内には僕と沙良の他には二人しか客がいない時間帯で、なおかつ彼らは僕たちから大分離れたところに座っている。こちらの物音は聞こえているだろうけれど、あえて駆け寄ってくるほどの距離ではないと判断したんだろう。僕たちの邪魔をしようなんて馬鹿はいなかった。
ひとりしかいない店員も、幸いあちらの方で接客中だ。
(ま、そうなるタイミングを見計らって入店したんだけどね)
僕のしめしめといった心とは裏腹。沙良はオロオロとした様子で、僕に手を貸すべきか否か迷っているみたい。
日頃お節介な人間に囲まれている僕には、沙良のそう言う引っ込み思案で決断力に乏しいところも凄く新鮮で可愛く感じられてしまうから重症だ。
(もう一押しかな?)
そう考えた僕は、拾い上げたばかりの筆箱から、シャーペンを一本だけ、再度落っことした。
「あっ」
拾おうとする素振りでもう一度手にしたものをばらまくという念も入れておいた。
これにはさすがの沙良も動かずにはいられなかったみたい。
慌てて立ち上がって、僕が落としたばかりのものたちを拾うのを手伝ってくれた。
「ありがとう。何か今日、荷物が多くて……」
僕はチャンス到来とばかりに、彼女にニコッと微笑んでそう告げると、さも今気づいたと言わんばかりの口調で「あ……キミ、もしかして前に……」とつぶやいた。
沙良もきっと最初から僕のこと、誰だか気付いていたんだろうな。
「この前と逆になっちゃったね」
多くは語らず、僕がクスッと笑ったら、「……ですね」と小声で首肯してくれた。
「――隣、いい?」
こうなったらもっと押さなきゃダメだ。
大分長い時間をかけてもなかなか沙良に近付けるチャンスが訪れなかったことを思い出して、僕は行動に出ることにした。
僕は沙良が押しに弱いことを知っている。だから、問い掛けたくせに、あえて彼女の返事を待たずにカウンター席の一番端っこの彼女の席の、すぐ隣へ荷物を置いた。
「あ、あのっ」
そわそわする沙良の手元を見た僕は、前々からチェック済みで知っていたことをつぶやく。
「それ、……去年の『発達心理学』のテキストだよね?」
僕の言葉に沙良がビクッと肩を揺らして、僕をじっとみつめてきた。その目が、恐れと戸惑いで揺れているのが分かる。
あー、失敗したかな? いきなり距離を詰め過ぎたかもしれない。
けれど僕はそんな気持ちは微塵も表に出さず、すぐに、やわらかく微笑んで言葉を続けるんだ。
「ごめんね。驚かせちゃった? 僕は法学部の八神朔夜。去年、心理学概論で同じグループだったの、覚えてるかな?」
沙良は、ほんのわずかに視線を伏せたまま、小さく頷いた。
「……覚えて、ます……」
「そっか。よかった。 ――で、えっと……キミの名前は……」
そこでわざとらしく間を空けて、天を仰いでみせる。
「確か……篠宮……沙良さんだ。文学部の……」
そうしてさも記憶の扉から彼女の情報をようやく引きずり出して、半信半疑。間違ってない? と問いたげなふりをした。
本当は僕が沙良のことを忘れているはずなんてないのにね。
だけど素直なキミは僕の罠にまんまと引っかかってくれるんだ。
「はい、合っています」
「えっと……じゃあ、沙良さん。キミが掲示板前で物を落とした時、僕とちょっとだけ話したのは覚えてるかな?」
ほっと胸を撫で下ろした体で、あえて〝篠宮〟のほうではなく〝沙良〟の方を選んで話を続ける。
そうしながら、僕はさも落ち着かないと言った素振りで、沙良に元の席へ戻るよう促した。
「ずっと立たれてたら落ち着かないし……座ってくれたら嬉しいな?」
沙良は少し迷ってから、また小さく頷いてようやく僕の隣に腰を落ち着けてくれる。
そこで僕はホッとしたように話を続けるんだ。
「――あの時にさ、僕がキミの眼鏡のことを言ったのは覚えてる?」
途端沙良がギュッと両手に力を込めて俯くから、僕は彼女の中に僕の言葉が残っていると確信する。
コメント
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策士だなぁ。