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亮介は出来れば目を逸らしたかった。普通の状態ならただちに大病院へ搬送するか、この病院の集中治療室に収容すべき重態の患者ばかりだった。だが、南宗田市立中央病院の今の状況では、どうしてやる事も出来ない。
目を逸らすな。亮介は心の中で自分にそうつぶやいた。現実から逃げるな、僕は医者なんだ。医師としての責任を果たす義務があるんだ。そう自分に繰り返し言い聞かせながら、亮介は児玉に従って五人の患者たちの傍らに屈んだ。
そこへ看護士がカンフル用の注射器を運んで来た。児玉が注射器に注入する液体のラベルを見て亮介は息を呑んだ。それはモルヒネだった。医療用とは言え、麻薬の一種だ。しかも児玉が注射器に入れた量は、亮介の知る限り、通常の使用量を大幅に超えていた。
「牧村先生、患者の体を押さえていてくれ」
必死に平静を装っているのであろう児玉の言葉に、亮介は黙って従った。骨盤骨折の女性患者の腹から腰の部分を両手で押さえる。患者の左の腰を抑えた時、そこにあるべき固い感触が感じられなかった。
児玉が患者の腕の静脈にモルヒネを注入し、次の患者の場所へ移動する。亮介も後を追って五人全員に大量のモルヒネを投与した。終わって立ち去ろうとする児玉に骨盤骨折の女性が声をかけた。その顔からは苦痛に苦しむ表情が消えていた。朦朧としながらも穏やかな表情で、やっと聞き取れるかという小さな声でその女性は児玉に言った。
「先生……ありがとうな。なんか楽になったわ」
かすかな声で「ありがとう」とくり返す患者の声を振り払うかの様に、児玉は仕切りの外へ出た。後に続いた亮介は、これもまた聞き取れるかどうかの小声で児玉がつぶやくのを聞いた。
「礼なんか言わねえでくれ……礼を言われる事なんかじゃねえんだよ、チキショウ」
夜明け早々に、支所の救急車が病院の搬送口に到着した。さすがに新しく搬送される重症、重傷の患者はいなくなってきていたが、孤立した市内の地域で消防団の捜索によって発見されたという事だった。
救急車の後部ドアからストレッチャーが降ろされ、初老の男性が意識不明の状態で病院内へ運び込まれようとした。立ち会っていた院長が患者の手首のトリアージタグを見て眉をしかめて救急隊員に詰め寄った。
「ちょっと、君。黒のタグの患者を運んで来られても困るよ」
救急隊員も患者をピックアップする段階でトリアージを実施する取り決めになっていた。黒にトリアージされた患者は病院へ搬送されても、どのみちいかなる医療措置も受けられない。だが、でっぷり太った方の救急隊員は泣きそうな声で反論した。
「だったら遺体安置所へ連れて行けって言うんですか? まだ息のある人を遺体安置所へ放り込めって言うんですか?」
その語気に院長も思わずたじろいだ。
「いや、そうは言ってません。避難所へ……」
だがもう一人の痩せぎすの救急隊員は、周りがクマで真っ黒になった落ちくぼんだ目を見開いて院長に言った。
「避難所はどこもすし詰めなんだ! それにもう、ほれ、あの廃校になった小学校の避難所には、死んだ人たちがもう何人か置きっぱなしなんですよ。遺体のすぐ側で、うちの嫁や子供が寝起きしとるんですよ。小さな子供の中には、遺体と一緒の建物にいるからって、パニックになってるのもいるんですよ!」
結局院長は、その患者を病院で受け入れる事を決めた。
午前六時少し前、消防団員数人が大きな段ボール箱を一人一個ずつ担いで病院を訪れた。中には米の袋とペットボトル入りの飲料水、あと合計で十個魚の缶詰が入っていた。避難所にかろうじて届いた支援物資の一部だという事だった。応対に出た院長は遠慮がちに尋ねた。
「気持ちはありがたいですが、避難所でもあらゆる物資が不足していると聞いています。大丈夫なんですか?」
消防団員たちのリーダー格の中年の男は、ことさらに平気そうな口調で答えた。
「こっちが苦しいって事は、病院だって大変なんだろ? 避難所にはここの病院で手当てしてもらってから来たのも大勢いるんだ。それに病院の先生たちが腹空かせてぶっ倒れちまったらみんなが困るからよ」
入院患者の数を考えれば、その程度の食糧は焼石に水でしかなかったが、院長は手厚く礼を言って病院内の倉庫に運んでもらった。
日が昇っても気温は一向に上がらず、凍える様な寒い朝が訪れた。患者はもちろん、医師、看護師、その他の病院スタッフの栄養状態も気がかりな状況になっていたため、院長の指示で朝食は、差し入れてもらった米をたっぷり使って久しぶりにまともな大きさのおにぎりになった。
医師、看護師の休憩スペースになっている二階のナースステーション奥の詰所の部屋には、四角い海苔が巻かれたおにぎりが盆からはみ出さんばかりに山盛りになって運ばれてきた。
病院スタッフは交代で朝食を取った。亮介は二回目の順番で部屋に入ったが、おにぎりはまだ山盛りに残っていて、炊き立ての米で握られたそれはまだうっすらと湯気を立てていた。