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数日ぶりの暖かい食べ物を前にして亮介の腹が、部屋中に聞こえるほどグーと大きな音を立てた。亮介はおにぎりを手に取ってむさぼるように口に入れた。一口呑み込んで熱いお茶をすすると、体が芯から温まるのを実感した。
すぐ後に看護師長の宮田と、吉田という新人の女性看護師が部屋に入って来た。亮介は狭い部屋の中に二人のためのスペースを空けてやるために座っているパイプ椅子を奥に動かした。
吉田は顔色が優れないようだった。亮介はもうひとつおかしな点に気づいた。吉田が小さな円錐形の上が尖った帽子、いわゆるナースキャップをかぶっていたからだ。一般のイメージと違って、今ではナースキャップをかぶる女性看護師は滅多にいない。特に若い女性看護師は、ナースキャップを付けるのは看護師学校の卒業式の時ぐらいという方が多い。
ナースキャップは糊で固めるため、その糊が雑菌の繁殖の元になってしまう事があり、また通常の衛生状態が良い日本の病院では必要性が薄れているからだ。
多分精神的な疲労が大きいのだろう。そう思った亮介は吉田に向けておにぎりが乗った盆を向けてやりながら「さあ、食べて」と言葉をかけた。テーブルの上に視線を向けた吉田は、突然引きつった貌になって両手で自分の顔を覆い、床にしゃがみ込んで悲鳴を上げた。
「いやあああああ!」
宮田がテーブルの上の布巾を広げておにぎりの上に被せ、吉田の肩をつかんで床から抱き起した。
「大丈夫だ、もう心配ないよ。あんたはちょっと休んで来な」
そう言って吉田を部屋の外へ送り出す。吉田はどうにか平静を取り戻したようで、よろけた様な足取りでスタッフ用の仮眠室へ向かった。何が何だか訳が分からず、おにぎりを片手に持ったままポカンと口を開けている亮介に宮田が、申し訳なさそうな声で言った。
「すいませんね、先生。これを見ちゃったから」
宮田はそう言って布巾をはがし、おにぎりを指差しながらふっとため息をついた。そこは海苔が巻かれていて、おにぎりの表面にちょうど小さな、黒い四角い部分が見えている場所だった。
「海苔がどうしたって言うんです?」
亮介はなおも訳が分からず訊いた。宮田は椅子に腰かけながら答えた。
「それがトリアージタグみたいに見えちゃったんですよ、黒の」
亮介は思わず自分の手の、食べかけのおにぎりの表面に目をやった。言われてみればそう見えない事もなかった。だが、それにしても、といぶかる亮介に宮田は自分もおにぎりとお茶を手元に引き寄せながら言った。
「医者や看護師だってしょせんは人間だもんね。特にあの子は、看護師学校出てうちに来てからまだ満一年にもなってないから。あたしたちみたいに、数えきれないほどの患者さんのご臨終に立ち会った経験がない若いのが、たった数日の間にこれだけの死を見せつけられたら、そりゃ精神的にも参るわ」
「ひょっとしてナースキャップも?」
そう訊いた亮介に宮田は苦笑い、それもどこか悲しげな表情が混じった苦笑いを浮かべながら言った。
「ええ、自分の髪の黒を鏡で見て、パニックになったんですよ、昨夜」
午前十一時過ぎ、市役所の職員だと名乗る男が一人、警察官とともに病院を訪れ院長に面会を求めた。その二人が入って来たとき、その場にいた病院のスタッフも意識のある患者も驚愕の目で彼らを見た。
二人はやや白濁した透明なビニールの服で全身を隙間なく覆い、頭にはフードまで被りマスクで顔の下半分を隠していた。何事かと玄関に駆けつけた院長に、市役所の職員が事務的な口調で告げた。
「ここは屋内退避地域に指定されました」
「どういう事だね?」
院長は思わず大声で訊き返した。
「本日午前十一時、原発から半径二十キロ超、三十キロ以内の地域に屋内退避指示が出ました。総理大臣からの直接の指示だそうです」
院長もその場にいた病院スタッフの全員が顔をこわばらせた。院長がさらに食い下がる。
「しかし、なぜ今頃になって」
「ニュースを見とらんのですか?」
警察官が横から口をはさんだ。
「今日の早朝、原発の四号機が水素爆発を起こしたんです。放射性物質の拡散の状況は不明ですが、念のため全ての入り口や窓を厳重に塞いで、外出は可能な限り控えて下さい。あとエアコンの使用もやめて下さい。放射性物質が建物の中に侵入するのを防ぐためです」
二人は一方的に指示を伝えるとそのまま出て行った。病院スタッフはその後総がかりで病院のあちこちを点検して回った。もともと真冬の様な寒さが続いていたので、窓は全て閉まっていた。玄関のドアと救急搬入口のドアは、床との隙間に使い古したシーツを丸めて詰め込んだ。
各部屋のエアコンのスイッチを切って回りながら、亮介は一緒に回っていた児玉に話しかけた。
「ここのエアコンはヒートポンプ式ですよね? 動いていても外気は入らないんじゃ?」
児玉は首をかしげながらしかめっ面で応えた。
「どうなんだろうな? けど市役所がそうしろって言うんじゃ、仕方ないだろ」
エアコンが全て停まると、三十分もしないうちに病院内全体の気温が下がっていくのが亮介にもはっきりと分かった。昼間はまだいいとしても、夜になったら入院患者、特にベッドが足りずに床や廊下に寝かされている患者たちが寒さに耐えられるかどうか、心配になってきた。
亮介が一階の待合室に降りると、三十代の男性内科医が隅で院長に食ってかかっているのが見えた。医師は怒りを露わにした表情で院長に向かって言っていた。
「どうして行っちゃいけないんですか?」
院長は困りきった顔で宥める様に言葉を返していた。
「放射線防護服なしで外へ出るなと、市役所からの通達なんです。それに私たちは被災者のみなさんを……」
その医師は院長の言葉を大声で遮った。
「俺たちだって被災者じゃねえか! 自分のかみさんや息子の安否も分からないのに、探しに、確かめに行くことすらできねえって、そんな……」