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レモン
ふわねこカラメル
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居心地が悪かった。朝からオフィスに入った瞬間、空気が微妙に変わっているのを感じた。
誰もが私を見ると、すぐに目を逸らす。あるいは、わざとらしく微笑んで「おはよう」と声をかけてくる。その笑顔の裏に、好奇と嘲りが混じっているのが、痛いほど伝わってきた。給湯室でコーヒーを淹れようとドアを開けた瞬間、声が聞こえた。「……でさ、佐々森さん、聡太と別れたんだって」大野さんの、わざと大きな声。
彼女は数人の女性社員を囲んで、楽しそうに話していた。
「え、マジで? どうしたの?」
「メモ一枚で『別れよう』だって。合鍵置いてって、笑えるよね」
大野さんはスマホを片手に、派手な爪を光らせながら笑う。
「三年も付き合ってたのに、ずいぶんあっさりだったよね」
「地味すぎるもん。営業部のナンバーワンの相手があんな子じゃ釣り合わないよね」
くすくすという笑い声が、給湯室に響く。
私はドアの陰で立ち尽くしたまま、指先が冷たくなっていくのを感じた。胸の奥がざわつき、息が苦しい。噂はあっという間に営業部のフロア全体に広がっていた。デスクに戻ると、隣の席の同僚が小声で囁くのが聞こえる。
「やっぱりね。あの地味子じゃ、聡太にはもったいなかったよな」
「お弁当作って待ってたのに、ほとんど食べてなかったんだって」
背中に突き刺さる視線。キーボードを叩く手が、微かに震える。私は必死で俯き、仕事に集中しようとした。でも耳に入ってくる言葉の1つ1つが、針のように胸を刺す。
「佐々森さん、今日もミスらないといいね〜」
「もうすぐリストラ候補なんじゃない?」
休憩時間になると、ますます声が大きくなった。誰もが遠巻きに私を見ては、楽しそうに囁き合う。居心地が悪い。息苦しい。このフロアにいるだけで、皮膚がざわつくような感覚。私はデスクの引き出しに顔を埋めるふりをして、唇を強く噛んだ。
――もう、限界。ただ耐えるだけじゃ、終わらせない。私を踏みつけた連中……聡太も、大野さんも、このオフィス中の嘲笑も。全部、後悔させてやる。
そのとき、視界の端に、馴染みの姿が映った。真言寺くんが、少し離れた自分の席から、静かにこちらを見ていた。黒縁メガネの奥の瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。いつもの穏やかな表情の裏で、何かが静かに燃えているような気がした。彼は誰も気づかないように、小さく頷いた。
まるで「大丈夫、僕がいるよ」と伝えるように。その視線だけで、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。でも、同時に——この会社で、私が一人で戦う必要はないのかもしれない。年下の彼が、実はとんでもない力を持っていることを、私はもう知っている。噂が広がるオフィスの中で、私はそっと息を吐いた。「……もう、泣かない」心の中で、そう誓った。これからは、笑って耐えるふりをするのはやめよう。
◇◇◇
フロアに一人きりだった。残業が長引いたオフィスは、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っていた。コピー機の電源は落ち、電話の呼び出し音も途絶え、照明は半分以上が消されている。デスクの小さなランプだけが、私の周りをぼんやりと照らしていた。私は深く息を吐き、椅子に体を預けたまま天井を見上げた。
「……はあ」
静かな空間に、自分の深呼吸の音がやけに大きく響く。
今日一日、給湯室での大野さんの声、フロア中に広がった嘲りの囁き、視線の1つ1つが、まだ胸に棘のように刺さったままだった。「やっぱりね」「地味子じゃ釣り合わないよね」あの言葉が、耳の奥で何度もリピートされる。もう泣かないと決めていたのに、目頭が熱くなる。私は慌てて両手で顔を覆い、声を殺して息を整えた。
そのとき——「佐々森さん」柔らかくて、低い声が静かなフロアに落ちてきた。驚いて顔を上げると、そこに真言寺くんが立っていた。制服のシャツの袖を軽くまくり、片手にコンビニの白いビニール袋を提げている。
黒縁メガネの奥の瞳が、優しく細められていた。
「まだ残ってたんですね。……お疲れ様です」
彼は私のデスクの隣の椅子を引いて、そっと腰を下ろした。袋の中から、2つのお弁当を取り出す。
「今日、残業が長くなりそうって聞いたから、買ってきました。幕の内弁当と、ハンバーグ弁当……どっちがいいですか?」
その何気ない言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
まさかこの彼が、真言寺グループの御曹司だなんて——誰も思わないだろう。この広いオフィスで、ただのアルバイトの年下男子として、誰にも気づかれずに私を気にかけてくれている。私は少しの間、言葉を失った。
「……どっちも、美味しそう」
声が少し掠れていた。
今日一日、誰にも優しい言葉をかけてもらえなかった。ただ嘲笑と同情の視線ばかりだったのに。真言寺くんはくすっと小さく笑い、私の顔をまっすぐに見つめてきた。
「じゃあ、迷ったら両方開けましょうか。僕も食べます。半分こしましょう。ハンバーグはちょっと甘めのソースで、佐々森さん好みかもって思って選びました」
彼は弁当の蓋を丁寧に開け、割り箸を私の前にそっと置いた。
温かい湯気が立ち上り、濃厚なデミグラスソースの香りが漂う。私は割り箸を手に取り、一口ハンバーグを口に運んだ。
「……美味しい」
自然と、口元が緩んだ。今日、初めて笑った。疲れ切っていた頰が、久しぶりに柔らかく上がる。真言寺くんはそれを嬉しそうに見つめながら、自分の幕の内弁当を食べ始め、静かに言った。
「佐々森さんが笑ってる顔、すごくいいです。……今日、会社で大変だったんでしょう?」
私は箸を止めて、ゆっくりと頷いた。
「うん……噂、広がっちゃったみたい。聡太と別れたこととか……全部」
声が少し震えたけど、涙は出なかった。彼の存在が、なぜか不思議と心を落ち着かせてくれる。真言寺くんは静かに聞きながら、時折「うん」と相槌を打つ。黒縁メガネの奥の瞳は穏やかだけど、その奥に鋭く光るものがあった。
「僕、そばにいますから。どんな時でも」
その一言が、今日一番の温もりだった。静かな残業フロアに、二人の小さな明かりだけが灯っている。コンビニのお弁当の味は、決して高級なものではなかったけれど、心が溶けていくような、優しい味がした。私はもう一度、小さく笑った。
「……ありがとう、真言寺くん」
彼は照れたように目を細め、「いつでも、呼んでくださいね」とだけ答えた。この夜、孤独だった残業が、少しだけ甘く変わった。
そこで真言寺くんの言葉が重みを帯びた。
「穂乃果さんが望むなら、証拠は全部揃えられますよ」
……証拠?なんの証拠だろう。
それだけ言うと、真言寺くんは焼き鮭を口に頬張った。