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次に、カレンが輪っかを並べると、トラは身を低くし、器用にそれをくぐり抜けていく。くるりと回転するように、一つ、また一つ——
拍手が、波紋のようにじわりと広がり、やがて会場を包み込んだ。
次は三つの大きなカップ。
カレンはそのうちの一つに玉を入れ、手早くシャッフルを始める。
動きはまるで、どこかの手品師のように軽やかだった。
「さて、トラさん。どこに玉があるか、わかりますか?」
トラは一瞬だけカレンを見上げる。
その視線は短いけれど、確かに意思を交わしているようだった。
そして、迷いなくカップを前足で叩く。
「正解です!」
その瞬間、拍手がどっと湧き起こる。
トラはその褒め言葉を全身で受け止めるように、カレンの手に顔をすり寄せた。
「よしよし、トラくん、いい子だね」
甘えるような低いうなり声が、静かに場内に響いた。
それは威嚇でも、命令でもない。
まるで——信頼の音だった。
羽鳥は、息を詰めて見つめていた。
トラは観客を見ない。ただ、カレンだけを見ている。
まるで、世界のすべてが彼女だけでできているかのように。
檻の中にいるのは、猛獣と調教師じゃなかった。
一人の女性と、彼女を信じる一匹の相棒。
強さでも、従属でもない“関係”が、そこにはあった。
(……すごい)
羽鳥は、ただ黙ってその光景を焼き付けていた。
どこか、胸の奥が温かくなっていくのを感じながら。
カレンはステージ中央でマイクを掲げ、元気よく声を張る。
「お次は——タランチュラのタラちゃんです!翔悟さん、お願いします!」
舞台袖から、翔悟が露骨に渋い顔で現れた。
「……もう……なんで俺だけこんな役なんだよ……。カレンちゃんの頼みじゃなきゃ、絶対断ってたからな……」
ぶつぶつ文句をこぼしながら、彼は分厚いグローブをはめ、両手で慎重に透明なカゴを運ぶ。
その中には——
体長二十センチはあろうかという、巨大なタランチュラ。
艶のある黒い毛並み、がっしりとした八本の脚。
その名も、“タラちゃん”。
観客席に、ざわりと緊張が走った。
羽鳥も、思わず身を引く。
翔悟はカゴをできる限り自分から離し、腕をぷるぷる震わせながらカレンのもとへ向かう。
カレンは満面の笑みで迎える。
「ありがとうございます、翔悟さん!
大丈夫ですよ、タラちゃんはとってもいい子ですから!」
「そう言われても、怖いもんは怖いんだよ……」
翔悟の引きつった笑顔に、客席からくすくすと笑いが漏れる。
カレンはカゴの前にそっと膝をつき、静かに手を差し出した。
「はい、タラちゃん。おいで」
舞台も客席も、息を呑むように固まる。
——すると。
タラちゃんは、するりとカゴから這い出た。
黒く太い脚が、カレンの素肌にふれる。
ぞわり、と肌を這うように、彼女の腕を登っていく。
だが、カレンは眉ひとつ動かさない。
笑顔を崩さず、静かにその身体を受け止める。
そして、タラちゃんは彼女の手のひらの上にすとんと収まった。
その光景に、観客はただ、息を飲んだ。
恐れも、威圧もない。そこにあるのは、ただまっすぐな信頼だけ。
翔悟は小さくぼやく。
「……あんなのおっかなくて無理だろ、普通」
誰も笑わなかった。
今この瞬間、舞台の中心にいるのは——
小さな命と、それを正面から見つめる少女だけだった。
カレンはタラちゃんを手に乗せたまま、観客に呼びかける。
「はい、タラちゃん、お手」
まるで子犬に語りかけるような、軽やかな声だった。
ざわついた静寂が、場内を覆う。
そして——
タラちゃんは、太い前脚をゆっくりと持ち上げ、
カレンの指先に、ちょん、と触れた。
一瞬の静止。
次の瞬間、観客席からどよめきと歓声が爆発する。
「うおおおおお!!」
「なんだあれ!!!」
羽鳥も思わず立ち上がりかけたが、言葉は出なかった。
檻も、ムチも、鎖もない。
威嚇も、命令もなかった。
それでも、猛獣も毒蜘蛛も——
彼女に、確かに“応えていた”。
カレンはマイクを握り、微笑んだ。
「タラちゃんには、ちょっと特別なステージを用意しました!」
それに応じて、スタッフが舞台上に動き出す。
張られたのは、二本の平行なロープ。
幅は、タラちゃんの体にぴったりだった。
羽鳥は、それを見て小さく頷く。
(……そうか。一本じゃ、足りない)
カレンは両手でそっとタラちゃんを持ち上げ、ロープの始点へと運ぶ。
「タラちゃん、いってらっしゃい」
その声に応えるように、
タラちゃんはふわりと身を伸ばし、
前足を一本のロープに、後ろ足をもう一本にかけた。
左右に揺れるロープを器用に使いながら、
慎重に、けれど誇らしげに胸を張って進んでいく。
一歩、また一歩。
かすかな揺れにも動じない。
その小さな姿に、観客の誰もが目を奪われていた。
ゴール地点にたどり着くと、カレンは笑顔でご褒美を差し出す。
「すごい! タラちゃん、よく頑張ったね!」
場内は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
いつの間にか、客席のあちこちでスタンディングオベーションが起きている。
誰も、最初にあった嘲笑のことなど覚えていなかった。
ただ、一人の少女と、彼女を信じた猛獣と蜘蛛、
そしてこの夜に立ち会えた奇跡に——
惜しみない拍手を送っていた。
拍手と共に
深々とお辞儀をする。
ステージ中央で、カレンがにっこりとマイクに向かう。
「それでは、次はマジックショーです!ぜひ、最後までご覧くださいね!」
その声に呼応するように、トラが隣で咆哮をあげた。
「ガオォ!!」
腹の底まで響くような一声。
だが不思議と、誰も怯えない。
それはまるで、舞台を締めくくる祝福の合図のようだった。
会場が、さらに大きく湧き上がる。
羽鳥も拍手を送りながら、小さく漏らした。
「……すげぇ迫力だったな」
気がつけば、立ち上がった観客たちの波に自分も混じっていた。