テラーノベル
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軽い気持ちで足を止めたサーカス。だが今は、その続きを、心から楽しみにしている。
テントの照明がふわりと落ち、
中央のスポットライトが、ゆっくりと次の演目を照らし始める。
しんと静まり返った会場の空気を切り裂くように、
眩しい光の中から、一人の男が優雅に歩み出てきた。
黒のハットに、艶のある漆黒のジャケット。
動くたびに光を反射し、舞台そのものが彼を引き立てているようだった。
観客の視線を自然と集めながら、男は余裕のある微笑を浮かべる。
慌てず、焦らず、全てを掌の上に収めるような落ち着いた仕草。
その手には、いつの間にかマイクが握られていた。
「——さて、皆さま」
ゆったりとした声色。
耳に心地よく届くテンポで、彼は語りかける。
「夢の続きを、お見せしましょう。」
その一言だけで、会場の空気がふっと緩み、
目には見えない魔法の帳が、静かに降り始めたようだった。
「マジシャンの剛と申します。」
落ち着いたトーンで名乗った瞬間、客席から拍手と歓声が沸き起こる。
その熱に押されるように、羽鳥も気づけば前のめりになっていた。
剛は軽やかに一礼し、マイクを片手にゆったりと歩きながら言葉を継ぐ。
「今宵の演目は、幻想の舞台にふさわしいものを、ご用意しております。
どうぞ最後まで、ごゆるりとお楽しみください。」
その声音は、決して大きくない。
だが、会場の誰もが耳を傾けずにはいられない。
やがて、もう一度拍手が起きる。
先ほどまでとは違う——確かな期待を帯びた音。
そして、ステージの空気は一気に華やぎ、
剛の魔法が静かに幕を開けた。
羽鳥の胸の奥にも、じわりと期待が広がっていた。
(……さて、どんなマジックが来るんだ?)
サーカスの夜は、まだ終わらない。
ステージ上の剛は、まるで子どものように目を輝かせながら、次の演目へと進んでいく。
客席を見渡し、満面の笑顔で胸元にトランプの束を掲げた。
「では皆さん!」
朗らかに、そして少し挑戦的に。
「ここに、トランプがあります。
タネも仕掛けも、一切ありません!」
客席がざわつく。
目を凝らす者、前のめりになる者。
誰もがその言葉の真偽を確かめようとしていた。
「気になる方は、近くまで来てご覧になってください。」
ステージの中央で、剛がトランプの束を掲げた瞬間、
羽鳥は、ぐいと身を乗り出した。
プロマジシャンの実演を、こんな至近距離で見られる機会なんて、滅多にない。
それだけでも胸が高鳴るのに、目の前にいる男は——
まるで、自分が幼い頃から憧れてきた“夢そのもの”のように見えた。
自分の手が、あと少し伸びれば届くんじゃないか。
そんな錯覚すら覚えて、羽鳥はじわりと手のひらに汗をかいた。
「手品はお好きですか?」
隣にいた東堂が、穏やかな声で尋ねた。
羽鳥は、反射的に答えていた。
「はいっ!!……あ、でも……」
言い切ったあと、少しだけ気恥ずかしくなって、言葉を濁す。
「プロのマジックって、ちゃんと見たの……実は初めてで」
東堂は、静かに頷く。
「それなら、良い体験になると思いますよ」
その一言が、どこか背中を押すように羽鳥の胸に響いた。
羽鳥の心は、次第にざわついていた。
ステージに立つ剛の姿は、ただの“演者”ではなかった。
それは、自分がずっと胸に抱いてきた夢の“完成形”のようで、見ているだけで心が熱を帯びる。
剛のマジックに、羽鳥の視線が釘付けになっていた。
喉が渇くのも忘れるほどの集中。舞台の光、観客のざわめき、剛の声と手の動き。
それらが羽鳥の意識を完全に支配していた。
その時だった。
誰かと肩が軽くぶつかる。
「ごめん、通りますねー」
気の抜けた声と共に、若い男性客が足早に通り過ぎていく。
羽鳥は少しよろけながらも、「あ、すみません……」と反射的に答えた。
だが、すぐに意識はステージに引き戻される。
視線は舞台。
頭の中は、剛の鮮やかな手捌きのことでいっぱいだった。
(……すげぇ……なんなんだ、この人)
ぶつかった違和感は、羽鳥の中であっという間に薄れていった。
自分の実力を試してみたい。
ふと、そんな思いが胸をかすめる。
今ならできるかもしれない。
この熱のままなら、何か掴めるかもしれない。
だが。
観客の笑顔、期待の眼差し、沈黙すらも演出の一部として取り込むこの舞台に、
“素人”として上がることの怖さが、じわじわと心にブレーキをかけてくる。
もし失敗したら。
もし笑われたら。
もし、なにもできなかったら——。
そんな“もし”が、羽鳥の足元をひとつひとつ重くしていく。
(……それでも)
心の奥に、微かな灯が残っていた。
ここで挑めば、自分の中に、夢へ続く“架け橋”が作れるかもしれない。
いままで届かなかった場所へ、ほんの一歩だけでも近づけるかもしれない。
羽鳥は、ぐっと唇を噛む。
拳を握るその手が、微かに震えていた。
数人の観客が遠慮がちに前方へと歩み出す。
隣の東堂がちらりと目を向け、何も言わずに微笑んだ。
剛の手にあるのは、どこにでもあるトランプの束。
それなのに、不思議なほどの威厳があった。
——まるで、自分自身が“奇跡”であるかのように。
剛はトランプを軽やかに扇状に広げ、くるりと回しながら客席を見渡す。
そして、マイク越しに朗らかな声を響かせた。
「さあ、お客さまの中からどなたか!好きなトランプを一枚、お選びください!」
観客席がざわつく。
「やりたい!」と手を挙げる者、「こっちこっち!」とアピールする者。
あちこちから歓声と笑いが飛び交い、まるで抽選会のような賑やかさに包まれた。
——だが。
剛の視線は、ただひとりを捉えて離さなかった。
迷いのない手が、羽鳥のほうをすっと指し示す。
「そこの君。来てくれるかい?」
(え……俺!?)
驚きとざわめきが、羽鳥の周囲に波紋のように広がる。
次の瞬間、観客の視線が一斉に羽鳥へと注がれた。
息を飲んだ羽鳥の背中を、周囲の空気がそっと押す。
笑いと期待が入り混じる熱気に、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
東堂が、穏やかな笑みで囁く。
「どうぞ。近くで見られる、貴重なチャンスですよ」
羽鳥は、驚きと緊張を隠しきれない面持ちで立ち上がり、
一歩ずつ、ステージへと歩を進めた。
——まるで、導かれるように。
剛はトランプを揺らしながら、促すように言った。
「遠慮せず、好きなのを選んで!」
羽鳥は、ごくりと喉を鳴らしながら、一枚のカードをそっとつまみ取る。
表も裏も、何度も確かめる。
手触り、反り、重み——どこからどう見ても、ただのカード。
選んだのは、ハートのクイーン。
「……普通、ですね?」
「確認ありがとうございます!」
にっこりと笑う剛の指示で、羽鳥はカードを台へ掲げ、観客に見せた。
会場に、ざわざわとした気配が広がる。
「皆さん、選ばれたカードは覚えてくださいね! 絶対に僕に見せないように!」
羽鳥はカードを記憶に刻み、剛のもとへ戻った。
「では、そのカードを、好きな位置に戻してください!」
剛が差し出したトランプの中に、羽鳥は迷いながらカードを差し込む。
そして剛は、トランプを豪快にシャッフルしながら笑う。
「さて——ここからが、本番です!」
拍手と笑いが交じり、観客席がさらに熱を帯びる。
羽鳥も、無意識に身を乗り出していた。
(ここから、どう展開する…?)
剛の目が、一瞬だけ鋭く光った。
その奥に、冗談とは思えぬ集中が潜んでいる。
シャッフルを終えた剛は、束を指で軽く叩きながら、にやりと笑った。
「ただ当てるだけじゃ……つまらないですよね」
会場にざわめきが走る。
剛は観客席を見渡し、再び羽鳥へと視線を戻す。
「どうですか? ここで一つ、賭けをしてみませんか」
「賭け……?」
羽鳥は眉をひそめる。
「何を賭けるんですか?」
剛は、トランプを片手でくるくると回しながら、芝居がかった口調で言った。
「このあと、私がどんな手を使うか——
それを、あなたに、3択で予想していただきます」
(……そんなの、当てられるわけ……)
思わず、羽鳥の視線が泳いだ。
剛は静かに言葉を重ねる。
「もし、見事に当てることができたら」
その声は冗談のように軽やかで、それでいて底知れぬ深さがあった。
「あなたの願いをひとつ、叶えましょう」
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