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薄暗い照明のもと
レイチェルの部屋は
静かに夜を迎えていた。
ほんのり甘い香りが漂うこの空間には
生活の気配と
彼女の趣味が程よく調和している。
ぬいぐるみが並ぶベッドの端に
ソーレンとレイチェルが
並んで腰掛けていた。
ベッドの上に二人で座るのは
初めてではない。
今までも何度か
ここで話し込んだことはある。
だが、今夜は
まるで違っていた。
部屋に入った瞬間から
喉が乾き
心臓の鼓動が
胸の内側を叩いて止まらない。
(落ち着け、俺⋯⋯落ち着けっての⋯っ)
内心で何度もそう呟いてはみるものの
身体はまるで言うことを
聞いてくれなかった。
恋人になったばかりの
レイチェルが隣にいる。
それだけで
肩の奥が重くなり
指先に余計な力がこもる。
視線を逸らしながらも
彼女の吐息の音が
すぐ近くで聞こえてくる。
静寂の中
それが妙に艶やかに感じられて
ソーレンは唇を噛んだ。
(⋯⋯クソがっ!
別に女と初めてってわけでもねぇのに
なんでだ⋯⋯
なんで、こんなに緊張してんだ⋯⋯)
頭の中はぐるぐると回り
考えるほどに焦りが募る。
(普通に考えて、誘われてんだよな?
⋯⋯いや、でも、レイチェルだぞ⋯⋯
コイツに限って
深い意味とか無い可能性も⋯⋯)
ソーレンはひとつ
無意識に肩を竦めた。
ベッドに腰を下ろしてから
数分も経っていない。
けれど
時間の流れが妙に遅く感じる。
隣にいるレイチェルの膝が
ほんの少し自分の足に触れただけで
全身の血が沸き立つような錯覚がした。
「⋯⋯あのね、ソーレン?」
その優しい声が耳に届いた瞬間
背中に汗が滲んだ。
焦るな、落ち着け、深呼吸だ――
そう言い聞かせながらも
喉はカラカラに
乾いていくばかりだった。
「な⋯⋯なんだよ?」
口を開けば
思ったよりも掠れた声が出て
自分でも驚いた。
甘い期待が、否応なく膨らんでいく。
彼女の部屋で、夜に、二人きり――
経験が無いわけじゃないはずなのに
この感情は初めてだった。
(男なら
誘われたならリードすべきだろうが!
何でこんなに⋯⋯っ)
内心で苛立ち、拳を握りかけたその時。
「今夜は⋯⋯
〝擬態〟の練習に付き合って欲しいの!」
予想外すぎるその一言に
ソーレンは思考が一瞬止まった。
「⋯⋯⋯⋯は?
⋯⋯練習?⋯⋯擬態⋯⋯?」
困惑したように
眉を顰めて振り向けば
レイチェルはきらきらとした瞳で
真剣にこちらを見ていた。
「そう!
いつハンターが来たって
不死鳥との闘いになったって
役に立てるように!
今のうちに慣れなきゃと思って!」
恥ずかしそうに
膝の上で指を絡ませながら
レイチェルは続ける。
「誰かに擬態した後って
記憶に引き摺られて
泣いちゃうから
傍に⋯⋯居て欲しいの」
ソーレンは黙り込んだまま
息を深く吐き出す。
「⋯⋯⋯⋯⋯はぁ〜〜〜〜っっ」
床の隅に目をやりながら
大きく、長く、溜息を吐く。
その音に
レイチェルが眉を跳ね上げて声を上げた。
「え?何そのバカでかい溜息?」
ソーレンは顔を覆いながら
ようやく呟く。
「⋯⋯お前、もう少し⋯⋯男心を学べ」
レイチェルは
ぽかんと口を開けた後
ようやく意味に気付いたのか
顔を真っ赤に染め上げた。
「⋯⋯え? ⋯⋯っ!ご、ごめんね!?」
謝る声は小さく、けれど本気だった。
その姿に、ソーレンは首を振る。
「勝手に勘違いしたのは、俺だ。
⋯⋯で? 練習ってのは」
恥ずかしさを拭いきれないままも
気を取り直して問い返す。
レイチェルは頬を染めたまま
こくりと頷いた。
「今夜は⋯アリアさんの練習!
ほら、擬態できたら
彼女が最強でしょ?
でも⋯⋯
1000年の記憶は耐えられないし
時間を掛けて
少しずつやろうと思って。
だから
3分で私を呼び戻して欲しいの!」
その言葉に
ソーレンは
驚きと戸惑いを隠せなかった。
レイチェルが
擬態でアリアになる――
それがどれほど危険で
どれほど重いことか。
しかし
レイチェルの目を見て解る。
ー彼女は、本気だ⋯ー
「3分だな?⋯⋯わかった。
もし泣いても
泣き止むまで傍にいてやるよ」
「⋯⋯ありがとう。ソーレン」
隣に座る彼女が
静かに目を閉じようとしているのを見て
ソーレンは思わず息を呑んだ。
だが、彼の心臓は
別の意味で再び早鐘を打ち始めていた。
あれほど
強く膨らんでいた期待が
一気に引っ込んだはずなのに
それ以上に
今の緊張感は強かった。
レイチェルが
抱えようとしている記憶と
その痛みに
どれだけ自分が寄り添えるのか――
ソーレンは、黙って拳を握りしめた。
(⋯⋯いいか
俺はこいつの
〝隣〟に居るって決めたんだろ)
その瞬間
ソーレンの目が静かに引き締まる。
レイチェルが
ゆっくりと擬態を始めようとするー⋯。
「じゃ、やるね!」
レイチェルはそう言って
ゆっくりと目を閉じた。
深く息を吸い込み
ゆっくりと吐き出す。
その瞬間
部屋の空気が僅かに
震えたように感じた。
ソーレンは
隣に座る彼女の変化を
じっと見つめたまま
動けずにいた。
(⋯⋯大丈夫だ、俺が傍にいる。
辛くて泣くのなら⋯⋯
泣き止むまで⋯傍にいてやるだけだ)
そう、自分に言い聞かせながら
無意識に拳をぎゅっと握りしめた。
部屋の淡い照明の中
レイチェルの髪が
ゆっくりと金色に変わっていく。
最初はほんの一筋が金色に染まり
次第にその色が広がっていく。
淡い光を帯びた金髪が
月光を受けて妖しく輝き出した。
ソーレンは
瞬きもせずに
その変化を凝視していた。
(⋯⋯何だ、この感じ⋯⋯)
胸の奥に、妙な圧迫感が生まれる。
何かが形を成し始めたような
懐かしいような感覚が
じわりと心に広がっていく。
やがて
髪と同じ金色の長い睫毛が
まるで花が咲くようにゆっくりと開く。
その奥から現れたのは
深紅の瞳――
血のように、炎のように
赤が揺れている。
その瞳が、ソーレンを見上げた瞬間。
「っ⋯⋯!!」
どくん――!
ソーレンの心臓が、大きく跳ねた。
その瞬間
まるで全身が
心臓になったかのように
鼓動が耳鳴りのように響き始める。
胸を圧迫するような
異様な熱が湧き上がり
息が苦しくなった。
(⋯⋯なんっ、だ⋯⋯これ⋯⋯っ)
まるで身体中の血液が
逆流するような感覚。
脈が高鳴り
頭の中がぐらぐらと揺れ
意識が不安定になる。
ソーレンは反射的に胸を押さえ
必死に呼吸を整えようとした。
だが、身体が言うことを聞かない。
膝が震え
まるで重力が倍増したかのように
体が重くなる。
視界がぼやけ
アリアの姿を
しっかりと認識できなくなってきた。
その時――
胸の奥底から
突き上げるような感情が溢れ出す。
アリアの深紅の瞳が
まるで心の奥を
見透かすように揺れていた。
その視線に晒されただけで
ソーレンの理性が
音を立てて崩れていく。
レイチェルの面影が
完全にアリアの姿へと変わった。
気高くも美しく
冷たさすら感じさせる表情で
ただそこに佇んでいる。
その姿は
誰よりも美しく
神々しい――
それでいて
どこか寂しげな雰囲気を纏っていた。
その瞬間
ソーレンの唇から
無意識のうちに言葉が零れ落ちた。
「貴女様に、非は無いと⋯⋯
私は存じ上げております⋯⋯」
低く震える声は
まるで魂の奥底から
絞り出したかのように儚かった。
自分で言った言葉が
自分の耳にも届かない。
ただ、無意識に呟いていた。
(⋯⋯なんだ⋯今のは⋯⋯
俺が、言ったのか⋯⋯?)
ソーレンの意識が
どんどん引き摺り込まれていく。
脳裏には
遠い記憶の残像が浮かんでいる。
自分が、自分でないような感覚――
まるで
誰かの感情が
自分の中に入り込んできたようだった。
(⋯⋯くそ⋯っ!頭ん中、に⋯⋯
誰か⋯っ、いるみてぇ⋯⋯だ⋯⋯っ!)
ソーレンは
必死に抵抗しようとするが
アリアの姿が
まるで磁力で引き寄せるように
彼の心を縛り付ける。
その圧倒的な存在感に
体が勝手に
跪きそうになるのを必死で堪えた。
(クソ前世⋯⋯がっ!
勝手に⋯⋯俺の心、を⋯⋯
アリアで⋯染めんなっ!)
胸を抉るような感情が混ざり合い
意識がどこか
遠くへ引き摺られていく。
ソーレンは必死に耐えながら
再び唇を噛みしめ
崩れ落ちないよう自分を支えた。
アリアの姿が
静かにその深紅の瞳で
ソーレンを真っ直ぐに見据えた。
その瞬間
心臓がまた激しく跳ね
鼓動が全身を支配していく。
その瞳に囚われたまま
ソーレンは無意識に膝をつき
頭を垂れてしまった。
「⋯⋯お慕い申して⋯おります
⋯⋯アリア様⋯⋯」
(ち、くしょう⋯⋯俺は⋯⋯
アイツを⋯⋯起こさ⋯ねぇ⋯と⋯⋯)
深く伏せた頭の中で
ソーレンの意識がぼやけていく。
アリアへの想い――
それが自分のものなのか
誰かの記憶なのかすら
分からなくなっていく。
熱くて、切なくて
どうしようもない感情が
喉元から込み上げてきた。
自分が言った言葉にすら
意味が分からない。
ただ、涙が滲むような
どうしようもない痛みだけが
残っていたー⋯。