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リビングのキッチンには
静かな夜の空気が流れていた。
時也は流し台の前に立ち
ケーキを食べ終えた食器を
丁寧に洗っていた。
お湯で泡立ったスポンジを
皿に滑らせながら
ふと、頭の中に響く声が耳を捉えた。
(⋯⋯時也⋯⋯)
その声に、時也は自然に顔を上げた。
カウンター越しにテーブルを見やると
アリアがコーヒーカップを
口に運びながら座っている。
静かな瞳で
月明かりを映すその姿は
普段と変わらない。
しかし、確かに今
彼女が自分を呼んだ声がした。
「はい。
なんでしょうか、アリアさん?」
穏やかな声で問いかける。
だが
アリアはコーヒーを一口飲み
時也に視線を向けると首を傾げた。
その動きが、少し不思議そうに見える。
「⋯⋯え?
今⋯僕を、呼びませんでしたか?」
時也の問いかけに
アリアは瞳を伏せて静かに首を振った。
(⋯⋯時也⋯⋯)
再び、同じ声が耳を打った。
時也は思わず目を瞬かせる。
先程と同じ声――
けれども、確かにアリアの声だ。
読心術を通じて
アリアの呼びかけが
自然に届いたのかと思ったが
目の前のアリアにはその気配がない。
「⋯⋯二階から?」
時也は瞬間
背筋が凍りつくのを感じた。
目前に、確かにアリアはいる。
しかし
声は二階からも聞こえた――
その矛盾が
脳裏に嫌な仮説を浮かび上がらせた。
「⋯⋯まさか⋯⋯っ!?」
冷たい汗が背を伝う。
普段なら
アリアが心で呼び掛けてくるのは
常のことだ。
だからこそ
時也は自然に反応していた。
だが
目の前にアリアがいるのに
二階からも声が聞こえるという矛盾。
そこにあるのは
ただ一つの可能性だった。
時也の瞳が鋭く変わり
直ぐに、近くに佇む青龍を振り返った。
「青龍!貴方は、アリアさんのお傍に!」
「かしこまりました」
幼子の姿ながらも
青龍はその威厳を崩すことなく
時也の命令に即座に応じる。
アリアの側に留まり
護るために動かずにいる。
その様子を確認すると
時也はすぐさま階段へと走り出した。
(もしや
レイチェルさんが⋯⋯擬態したのか?)
心臓が嫌な予感を警告している。
レイチェルが
擬態能力を持つ事を知っている時也は
その精巧さも十分理解している。
特に
時也自身に擬態したあの夜――
レイチェルが泣き続けた
あの記憶を思い出す。
その正確さが
今度はアリアとして
発現しているとすれば――
「失礼しますね!」
息を整える間もなく
ノックもせず
勢いよくレイチェルの部屋の扉を
開け放つ。
その瞬間
時也の目に飛び込んできた光景に
思わず息を呑んだ。
薄暗い部屋の中
月光が窓から差し込み
ベッドの上には
一人の女性が座っている。
金色の髪が淡く輝き
深紅の瞳が冷たくも美しく輝いている。
間違いなく、アリア――
だが、その傍にはもう一人。
床に跪き
彼女の足の甲に唇を落としたまま
微動だにしないソーレンの姿。
その姿は、まるで
絶対的な存在である君主への
主従を表しているようだった。
その異様な光景に
時也の喉が乾き
思わず硬直した。
「⋯⋯こ、れは⋯⋯っ」
時也の胸に込み上げるのは
理解しているはずの現実を
受け入れがたい感情。
目の前にいるのが
アリアではなく
レイチェルの擬態だと分かっている。
分かっているのに
ソーレンがその足に
口づけしている姿が
胸に醜く棘を刺していく。
(⋯⋯違う!
今はそんなこと⋯⋯
考えてる場合じゃない!)
頭を振って冷静さを取り戻し
時也は状況を確認する。
(⋯⋯擬態して
どのくらいの時間が経過しているのか
早く⋯⋯起こさないと!)
目の前のソーレンは
まるで魂を抜かれたかのように
跪いたまま動かない。
アリアの姿をしたレイチェルもまた
冷たい表情のまま
ソーレンを見下ろしている。
「ソーレンさんっ!
聞こえてますか!ソーレンさん!!」
時也の強い声が部屋中に響く。
だが
ソーレンは依然として微動だにせず
ただアリアの足元に
ひれ伏したままだった。
焦りと困惑が入り混じり
時也の心に緊張が走る。
部屋の中に
自分の息を呑む音しか
聞こえないような静寂が漂い
その中で
ソーレンの小さな囁きが聞こえた。
「貴女様に、非は無いと⋯⋯
私は⋯⋯存じ上げております。
この命⋯貴女様の⋯⋯為に⋯⋯」
その低く震える声には
深い憧憬と慟哭が滲んでいた。
だが
それは今のソーレンではなく
遥か昔の誰かが紡いだような声色だった。
(⋯⋯駄目だ⋯⋯
完全に意識を
前世の記憶に引き込まれてますね⋯⋯)
時也は息を整え
静かに立ち上がった。
(このままでは
二人とも危険ですね⋯⋯
ソーレンさんを
早く正気に戻さないと!)
手の中に力を込めると
小さな植物の芽が現れた。
その芽は瞬く間に長く伸び
蔓となってしなやかにしなった。
まるで
鞭のように形を変えたその蔓を
時也は迷いなく握りしめた。
「すみません、ソーレンさん⋯⋯
結構、痛いですよ⋯⋯っ!」
短く警告を告げた瞬間
時也は躊躇うこと無く
その蔓を振り下ろした。
鋭い音が部屋中に響き渡り
蔓がソーレンの背中を打ち据えた。
「⋯⋯ぐぁ⋯っ!!」
鈍い痛みに襲われ
ソーレンは苦悶の声を漏らしながら
床に転がった。
衝撃で意識が揺さぶられたのか
ぼんやりとした瞳が
瞬時に焦点を取り戻す。
肩で息をしながら
荒い呼吸を繰り返す中
時也の声が鋭く響いた。
「ソーレンさんっ!!」
その呼びかけに
ハッと我に返ったソーレンは
痛みに顔を歪めながらも
勢いよく身を起こした。
背中に走る鋭い痛みを無視して
ベッドにいる
アリアの姿のレイチェルに目を向ける。
強く掴んだ両肩が
小さく震えているのを感じながら
必死に声をかけた。
「⋯⋯クソっ!
レイチェル⋯⋯おい!レイチェル!!
戻って来いって!!」
その言葉に
アリアの姿がびくりと揺れた。
しばらくして
アリアの金色の髪が少しずつ色を変え
短くなっていく。
深紅の瞳も
レイチェル本来の
エメラルドグリーンに戻り始めた。
その変化を見ながら
ソーレンは必死に肩を掴み続け
もう一度強く呼びかけた。
「レイチェル!俺だ!解るかっ!?」
完全に姿が戻ると同時に
レイチェルの瞳から涙が零れた。
まるで堰を切ったように
大粒の涙が頬を伝い
震える声が溢れ出す。
「⋯⋯っ、ソーレン⋯⋯っ!」
その悲痛な声が耳に届いた瞬間
ソーレンの胸が
ぎゅっと締め付けられる。
言葉にならない感情が胸を満たし
衝動的にレイチェルを
力強く抱きしめた。
レイチェルは
その胸に縋りつき
堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「⋯⋯悪ぃ⋯⋯遅くなっちまった
レイチェル⋯⋯ごめん、ごめんな⋯っ」
背中を撫でる手は
優しさと共に震えている。
ソーレンのシャツには
蔓で打たれた傷が紅く滲み
血がじわりと広がっていた。
だが
そんな痛みすらも気にせず
レイチェルの泣き声を受け止めていた。
時也は蔓を消し去り
静かにその様子を見守っていた。
(⋯⋯前世の未練が⋯解消された?)
ソーレンには
もう先程までの前世の影が見られない。
力強くレイチェルを抱きしめ
背中を優しく撫で続けるその姿に
確かな愛情が感じられた。
レイチェルは
嗚咽混じりに
何度もソーレンの名前を呼び
ソーレンもまた
「大丈夫だ」と繰り返し囁いた。
その声が静かに溶け込み
部屋にやっと
安堵の空気が戻ってくる。
二人の心が
再び繋がったのを確認し
時也はゆっくりと息を吐き出した。
(⋯⋯ひとまず、良かったですね⋯⋯)
静かに見守りながら
時也は二人の背中を見つめる。
そこには
涙と血が混じりながらも
確かな温もりが二人を包み込んでいた。
先程までの緊張が解け
胸の鼓動が
ゆっくりと落ち着きを取り戻し
ようやく呼吸が整ってくる。
二人の姿を見つめながら
時也は口を開いた。
「どうしてまた
こんな事になったのです?」
声をできるだけ和らげ
優しい口調で尋ねる。
ソーレンが背中を摩り続ける中
レイチェルは涙を拭いながら
か細い声で答えた。
「⋯⋯わ、私⋯⋯が、擬態の
⋯⋯練習に⋯⋯っ」
まだ声が震え
言葉が途切れがちだ。
レイチェルが
言葉を紡ごうとするのを見かねて
ソーレンが先に続けた。
「レイチェルは
お前らの為にも
擬態に慣れようとしたんだ。
俺らん中で一番強いのはアリアだ。
だが⋯⋯
1000年の記憶には耐えらんねぇ」
ソーレンは苦々しい表情を浮かべ
歯を食いしばる。
「3分で呼び戻してくれって
頼まれたのに⋯⋯情けねぇ」
その言葉に
レイチェルはまた
涙を堪えるように肩を震わせた。
ソーレンの言葉には
自分を責める色が滲み出ている。
時也は小さく溜め息をつきながら
二人の心の声を静かに聞き取っていた。
レイチェルの中で
アリアの記憶と悲しみが
まるで暴風雨のように吹き荒れている。
その痛みと絶望が
レイチェルの心を
引き裂きそうになっているのが
時也にも聞こえてきた。
その苦しみを
受け止めようとするソーレンの焦燥も
心の中で混ざり合っていた。
「⋯⋯まったく、無茶を⋯⋯」
時也は小さく呟き
困ったように微笑んだ。
だが
その笑顔には優しさが含まれている。
「ですが⋯お心遣いには
感謝いたします。
アリアさんを救う為に
ご尽力いただきまして⋯⋯
ありがとうございます。
レイチェルさん」
その言葉を聞いた瞬間
レイチェルはまた
わっと泣き出してしまった。
ソーレンは
「おいおい」と戸惑いながらも
しっかりとその頭を撫で続ける。
涙が零れ続けるレイチェルを
少しぎこちない手つきで
だが、しっかりと抱き寄せた。
そして
レイチェルの頭をそっと支えながら
ちらりと時也の顔色を伺う。
先程まで
平静を保っていた時也の表情が
どこか苦しげだった。
その異変に気ついたソーレンが
珍しく気遣うように低く呟いた。
「⋯⋯お前、読心術でしんどいだろ?
後は⋯⋯俺がやる。
すまなかったな、時也。
⋯⋯助かった」
その言葉に
時也は僅かに目を見開き
すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。
「⋯⋯お気遣い
ありがとうございます。
ですが、ソーレンさん⋯⋯」
レイチェルが擬態で見たのは
まさに時也にとって
トラウマともいえる記憶だった。
その痛みを思い出させられた時也を
ソーレンが気遣うのは珍しい。
時也は
気を取り直すように小さく首を振り
肩の力を抜いた。
「いえ⋯⋯わかりました。
救急箱を、せめてお持ちしますね」
背中の血が滲み始めたソーレンを気遣い
時也は静かに立ち上がった。
だが
ソーレンはその言葉を手で制しながら
苦笑を浮かべる。
「こんくらい平気だって。
簡単に前世に呑まれちまった俺には
ちょうど良い薬だよ」
その言葉には
苦笑しながらも
濃い自責が滲んでいる。
時也はその様子をじっと見つめた後
優しく微笑んだ。
「多分ですが⋯⋯
愛を知った貴方に
共鳴されたのかもしれませんね。
他の転生者同様に
貴方の未練はようやく解放された⋯⋯
もう、惑わされることも⋯⋯
無くなるでしょう」
ソーレンはその言葉に
少しだけ驚いた顔をしたが
すぐに納得したように頷いた。
「⋯⋯そうか」
その短い返事には
どこか達観しているように感じられた。
レイチェルをしっかりと抱きしめながら
ソーレンは静かに息を吐いた。
時也は
静かに微笑みを残し
部屋を後にしようとする。
「では⋯⋯お言葉に甘えて
失礼しますね」
その言葉が
静かな夜の空気に溶けていく。
ソーレンは小さく頷き
レイチェルの頭をそっと撫で続けた。
涙が枯れるまで
ずっとそのまま
抱きしめている心算なのだろう。
もう二度と
あの無力感を味わわないために。
胸に刻まれた誓いと共に
ソーレンはレイチェルの髪に
優しく触れ続けていた。