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359
保谷東
亜鐘
晴明さまと比翼連理の愛を育んだのは、わたしだけ。
坤鬼舎を保つため、また家督を継ぐ者として仕方なく他の鬼女で遊んではいらっしゃるけど、愛しているのは絶対にわたし一人。お子もきっとわたしとの子を望まれている。
だってわたしを助けるとき、あんなに優しい言葉をかけてくださったもの。
他の人間たちは、蔑み虐げ嬲り弄び飾りにまでしようとしていたのに。
そう。晴明さまだけが。
他の姉さまたちは晴明さまの遊びを勘違いして、その情に付け込んでいるだけ。卑怯で姑息な鬼女たち。
分かっている。晴明さまの遊びだと。わたしだけが。
だけど面白くない。愛し合う男君に自分だけを見て欲しいと願うのは、それほど邪な欲かしら?
「それでは暇を頂きます」
わたしは手首を縄で繋がれ、命恋姉さまに頭を下げた。
陸燈姉さまと霞姉さまは坤鬼舎から出てこず、見送りは命恋姉さまただ一人だった。当然と言えば当然か。
「ねえ、加茂の陰陽仗さま」
命恋姉さまは加茂家から迎えに来た、狩襖を着た二人の陰陽仗に頭を下げた。一人はまだ年若く、もう一人は年配だ。
「お手柔らかにしてあげてください。なにしたか知りませんけど、根は悪い鬼女じゃないと思うんで」
「当主に言上しておきます」
若い陰陽仗は申しわけ程度に頭を下げると、わたしを繋ぐ縄を乱暴にぐんと引っぱった。わたしは繋がれた腕から強く持っていかれ、坤鬼舎に背を向ける。名残惜しいとは思わなかったけど、悲しげに表情を沈ませ、わたしを見送る命恋姉さまが、目の隅に映った。
あの人もああして味方ぶっているけど、結局は晴明さまのお情けに付け込んだ一人だ。わたしは知っている。
坤鬼舎で味方と呼べたのは、夜火だけ。
背が低くて、犬っころみたいで、お転婆で、あどけない。
まるで晴明さまのお好みではない鬼女。
裏表のない性格でわたしを慕ってくれていたし、お手付きにはならないだろうと、あの子自身が自覚もしていた。そこがなにより好ましく愛らしかった。
だからあの子がお手付きになった夜、わたしはその嬌声を聞きながら、また害さねばならない鬼女が増えたと思い、悲しかった。妹のように思っていたから。
隠岐に流されると耳にしたときは、心から安堵した。晴明さまをお守りするためとは言え、あの子だけは殺したくなかった。
人気のない道なき道を進み、徐々に陽も落ち始めた。
道順は聞かされていないけど、たぶん都には寄らずぐるっと回り道して、鬼門を鎮護する叡山に向かうのだろう。
年配の陰陽仗は馬に乗り、歩くわたしを家畜のように引いていく。若い方も馬で、ずっとわたしの背中を見張っていた。孕んだ殺気が背を焼く炎のように伝わってくる。
「少し休むか。馬に水も取らせたい」
やがて進む原っぱに細い川が横たわると、年配の陰陽仗は下馬した。
武官とは言え髪には白いものも目立ち、鬼女を見張る長丁場のお役目は体に堪えるのかもしれない。
「汝はならぬ。我慢しておけ」
若い方は表情を欠いた声でわたしに告げると、水を汲んだ竹筒を逆さに向け、美味そうに喉を波打たせた。
我慢、我慢か。
もう、たくさんだ。
「あんまり、酷ではございませんか?」
わたしは二人に声をかけた。たぶん坤鬼舎から出て初めて。
空気が緊張したのが分かる。年配の陰陽仗が佩いた太刀に手をかけた。
「――鬼女」
若い方がわたしを引く縄を持ち、太刀を構えた。
「異な考えを起こすでない。場合によっては斬首も許されている」
「そんなものは持ち合わせてはおりませんよ。わたしの頭の中にあるのは、いつも夫だけ」
「これはその土御門どのの師が考えた末の処置である。まったく、土御門どのも自分で拷問すれば手間も省けように、鬼女の扱いが生温い」
「みなさんで共謀しているんですね。夫はわたしといたいと願っているはずですから。悋気に狂った姉さまたちの謀ですか。やはり殺さねば」
「汝……」
若者が目で沙汰を求めると、
「いい。斬ろう」
年配の陰陽仗が断を下し、自らも太刀を抜く。
殺意を確認してから、わたしは両手を胸の高さに掲げ、力を入れた。手首を固く繋ぐ縄がミシミシと音を立てる。
「わたしは分かっていましたよ。どちらにしろ、害するおつもりでしょう? わたしが全てを話せば、立場が悪くなるのは姉さまたちだから。命など惜しくはありませんが、でも愛する女が斬られては、あの方があまりにお可哀想」
「無駄だ。それは祈祷を込めた穢悪用のお縄よ」
若い陰陽仗がわたしを繋ぐ縄を引く。しかし固く縛られた手首は血が滲んでいて、既に縄にも染みができていた。僅かばかりだが、十分だ。
「ふっ!」
力を込めると縄は蜘蛛の糸のように容易く千切れ、風に吹かれて何処へと消えていく。陰陽仗の二人は目を丸くし、信じていたものが屑と化すその様を眺めていた。
「……なにをした、鬼女」
若い陰陽仗が眼差しをきつくする。
さすが穢悪との戦いを生き抜いた武官だ。わたしには武芸がよく分からないけど、相当な手練れを思わせる練り込んだ気配。
年配の方も殺気が凄い。敵意を漲らせ、こちらに刀を向ける。
「よい。斬る。お前は戦いに向かぬ呪と聞いている。なれば陰陽仗を二人相手にして敵うとは思うて――」
「――ないだろうよ」
声と共に一閃。年配の陰陽仗の首に光の糸が走ると、頭だけが草むらに落下した。重量を感じる音が、一瞬の静寂に響く。
「斬るなときつく言ったはずだ。勝手なマネしやがる」
「ご、ご乱心召されたか、保憲殿!」
若い陰陽仗が刀をかまえた。いきなり現れた一門の筆頭に向かって。
だけど保憲さまはなにも答えなかった。代わりに地面に向かって「朔」とだけ発声して、若い陰陽仗の表情を驚愕の色に染めた。
「ま、待った! 待たれよ! 俺は逆らわないし、なにも見なかった! このまま消えます! だから」
「情けない遺言だ。だから紛いモンは世の汚点なんだよ」
保憲さまは呟くと、身動きのできない陰陽仗を両断した。勢いよく血が噴き出て、二つになった体はどちらも草むらに転がった。
「お世話をかけます。保憲さま」
「なんてこたぁない」
刀を拭い、保憲さまは笑んだ。返り血を浴びた隆々とした体は、異様な迫力をもってわたしの目に映った。
「亜鐘」
彼はこちらを見てわたしの名を呼ぶ。
「やるんだな?」
「はい。ことここに至っては、もう手はありませんもの」
「――お前の内なる鬼がそうさせるんだろうな。内にホンモノを飼ってる奴ってのは、覚悟が決まってていい」
「あら。お褒めにあずかるなんて」
「褒めちゃいないが」
保憲さまは大きな歩幅でこちらに迫ると、
「餞別だ。受け取れ」
そう言って小刀を寄越した。ずっしり重みのある、さぞ名のある刀と見た目だけで想像できた。
「よく切れる。いまのお前には必要だろ」
「ありがとうございます。使わせて頂きます」
返事を聞くと、保憲さまは陰陽仗たちが乗っていた馬にまたがり、そしてそのまま去っていった。去り際に見せたお顔は、少しだけ悲しげに見えた。
思えばわたしを理解してくれたのは、あの人だけだったかもしれない。何らかの利害の一致があって、手を貸してくれていたんだろうけど。
――夜火も、厄介な人のお気に入りになったものね。
まあ、わたしもその一人なんだろうけど……。
……それにしても賀茂家の陰陽仗たち、あの口ぶりではやっぱりわたしを拷問する気でいたみたいね。
陸燈姉さまはやっぱり嘘つきだ。みんなみんな、わたしと晴明さまの邪魔ばかりしてくるのはどうしてだろう。鬼女も人も卑劣で意地悪だ。わたしと晴明さま以外はみんな穢悪。禍根の塊だもの。
予定は少し早まったけど、こんな世の中なんて、もうたくさん。
待っていて、晴明さま。
二人にとって邪魔な全て。
この空蝉の世から消して、お迎えに上がりますから。
坤鬼舎から南。
十重二重に連なる山々に囲繞され、窪む湿地がある。
ここが坤鬼舎を震わせる、都からの怨が翅鳥する場所。その震源地。
近付くだけで肌に障り腫れものが膨れる。周辺の木々は枯れ、虫も獣も既に果てた荒山だ。自分に備わったカンでこれを探し当てられたのは、わたしにとって幸運だった。ここまで瘴気を蓄えない内に、血を撒いて気配を誤魔化せたから。
わたしがこの呪を持てたのは幸運だった。
また穢悪を索り辿るものとごまかせたのも。
確かに穢悪の位置は掴めるけど、単純に他の鬼女より並外れてカンがいいだけ。命恋姉さまのように鈍い鬼女がいるのだから、逆にわたしくらい鋭い鬼女がいたって不思議じゃない。夜火なんかもなかなか強いみたいだし。
「もう少し、怨を溜めるつもりだったのに」
切り立った尾末を歩み、塙に立つ。真下の圷に臨む渦巻く怨の闇は、まるで真夜中の海のようにわたしを見つめた。
来るべきときが、来た。
後悔はない。あの人のためだから。
足元からの生温かい風が吹き荒び、山々に反響して音色を作り出す。それは急かすように、禍々しくこの耳を叩いた。
「分かってるわ」
わたしは保憲さまに賜った刀を片手に構え、深く息をして胸に空気を溜める。そして躊躇いを振り切るように、
「いま自由にしてあげるから」
と、力いっぱい自分の左手に刃を当てた。
一度では切れず、刀を押して引いて何度も。
鈍く疼痛が走り、刀が骨に当たる硬い手応えが体に伝わる。血は腕を伝い、削がれた肉はかつてない熱さに焼かれていた。
口から呻きがもれてくる。
刀はもっと切れると思っていたのに、ままならない。骨の辺りでごりごりと何度も引っかかる。ひっきりなしに涙が流れてくるけど、わたしは耐えた。晴明さまのための痛みと思うと、喜びさえ感じた。
やがて皮膚が千切れる感覚と共に、手首は切り落とされた。
わたしは地べたに落としたそれを蹴飛ばし、腕から迸る鮮血を圷の闇に流し込んだ。痛みは次第に激しく脈打ち、出血と共に視界も白じんでくる。でも――
――これでいい。
膝をつき、遠のく意識の中で笑みが浮かんだ。自分の中に巣食うなにかがそうさせた。人商人を殺したときに感じた自分だった。いまなら分かる。これは自分の中の鬼だ。わたしは鬼に食われたのかもしれない。
でも晴明さまのためだから。鬼でも仏でも同じだ。
わたしの呪は、血によって呪や穢悪を操ること。
もちろん完全に意のままになるわけではない。
姉さまたちにけしかけようとした魚の穢悪は成長が早過ぎ、晴明さまがいらっしゃる間に穢悪となって危なかった。最初に見付けたわたしが自分の血で拭って気配を断たせ、モリに見付けさせた。その内に隙を見て襲わせるつもりだったのに。
坤鬼舎近くでは修練で穢悪をたくさん操ったけど、上位の穢悪はなかなか難しい。夜火には助けられたし、予想外に姉さまたちを追い詰めてくれた。
この溜まり続けた怨は、どうかしら。
お願いだからいうことを聞いてね。この血と命の全部をあげるから。わたしは人を捨て、ただの鬼になるの。
だからわたしを依代として身を合わせ、憎い都を、国を、人を、鬼女を、なにもかもを壊しに行きましょう。そして晴明さまをも取り込み、一つになって生きるの。
ずっとずっと、幾千代にも渡って。
スケ
俺は山の片崖に立ち尽くして、いきなり現れた大人を眺めていた。
巨木の高さをも軽々と超える巨体。草木で覆われ、ひどい太り肉。
歩みを進めるたびに地が揺れ、ここはまだ大人とはだいぶ距離があるのに、木に囀る鳥たちが羽ばたき逃げていく。
地鳴りだけじゃないだろう。あの大人からは刃の切っ先を眉間に突き付けられたような、不吉ななにかがひしひしと伝わってくる。
あれは……、なんなんだ?
いや、……分かっている。初めて見るけど、実感と共になんとなく分かった。たぶんカミの言っていた穢悪というやつ。中でもとびきりイキのいいのだ。
なら、あれがカミの相手か? 力を使えないあいつの?
……よかれと思って居場所に帰したのに、時宜を誤った。
あんなもん相手にして、死なずに済むわけがない。そう分かっていても、きっと立ち向かうのがあいつだ。
仲間がいれば必ず庇うから。そういうやつ。そういうやつだ。
「そういうやつなんだよな」
声に出して一言呟き、俺は切り立つ崖を滑るように下っていった。
※
さっきまで晴れ渡っていた空は、現れたあの大人の穢悪に呼ばれるように、不穏な鼠色の雲が垂れこめてきた。山全体が陰鬱な陰に覆われてしまい、心なしか緑にも元気がなくなって、小川のせせらぎも濁って聞こえる。
気配だけでなく、目にしてはっきりと実感した。
怨の目方がそのまま穢悪になったようなあの巨体。
あれだけ苦戦した魚の穢悪すら可愛く思えてくる危険な圧迫感。
あれはもう破滅をもたらす地震や嵐と同じ。
逆らっても仕方のないなにか。
「それでも、行くんですか?」
立ち向かってただで済むはずがない。
わたしは紫雲に乗り行こうとする晴明さまの前に立つ。
「私の役目だからね」
「わたしは行って欲しくないです。無事になんて済まないと思うから。だけど……」
目を伏せて、くちびるを噛む。
「それでこそ、晴明さまだと思います」
「――いや。前の私なら、あんなもの放っておいただろう。お前たちや私の命と、有象無象の人間どもの命。算木が合わない。だが――」
晴明さまは紫雲に乗ったままこちらに近付き、わたしのツノを撫でた。柔らかな感触がツノから伝わってきて、何故だか泣きそうになってしまう。
「都には霞や陸燈の生家がある。命恋や夜火の守った者たちも」
「わたしたちの……」
「たとえ人が憎かろうと、私はたぶんそれを守らなければならない。お前たちの夫として。夜火が私の夜に標を照らして、教えてくれた」
言葉を聞き、自分の胸に喜びが淡く満たされているのを感じた。わたしの大事なものを、晴明さまが共有してくれた。自分が認められたような、誇らしい気持ちだった。
「――ありがとう、ございます」
洟をすすって、わたしは目を上げる。そのとき、穢悪の歩む小さな地響きが木々の葉を揺らした。もう猶予はない。
「では、共に参りましょう。あの穢悪を止めるために」
「……お前の心は嬉しい」
晴明さまの表情が、再び厳しいものに戻った。
「だけど、さっきも言ったはずだ。呪も使えないお前は連れて行けない。母君のような目に遭わせたくはないんだよ」
「なら、ここは通しません。恐れながら、行けば晴明さまは死ぬかもしれません。降りかかる火の粉を受け止める役目が必要です。そのために付いていきます」
「頑なだねえ。私には坤鬼舎の鬼女たちがいる。死にはしない」
「じゃあ、わたしも!」
手を握り、言葉と共に魂を吐き出すように言った。きっと晴明さまの母君と同じ思いで。どうか彼の心に届くよう祈りながら。
「わたしも鬼女です! 坤鬼舎の夜火です! お側にいて、ずっとずっと晴明さまの行く道を照らしますから!」
強い口調で、誰にも曲げられない意志を伝えた。それからわたしは硬くしていたくちびるを緩めて、晴明さまに笑いかける。
「晴明さま。わたしには、強く振る舞わなくていいんです」
そう告げると、晴明さまの険しい眉が少し解けた。それは昨夜にも見た、特別な晴明さまだった気がする。
「……すまない。ついてきてくれ、夜火」
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