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#シングルファザー
「亜鐘姉さまがそんなことに……」
わたしは紫雲で疾駆する晴明さまに並走しながら、亜鐘姉さまの疑いと処遇を聞かされた。だけど頭が整理できずにふわふわ浮いているようで、とても実感の伴う話ではなかった。
「私も……」
晴明さまは一つ息を呑み、表情なく続ける。たぶん、あえて表情をなくしている。
「私も信じたくはなかったが、状況がそう物語っている。私が閉じ込められた煙の穢悪も、もしかしたら調伏したのはお前でなく亜鐘だったかもしれない」
「……わたしは気を失ってましたし……」
確かにあの状態で自分が穢悪を調伏したとするのに、少し違和を覚えていた。亜鐘姉さまの血が未知の働きをしたとするのなら、もしかするとあのときの岩々に残されていた血痕が答えを示しているのかもしれない。
「あんなに優しい姉さまだったのに……」
けど、陸燈姉さまや霞姉さまだって同じ気持ちだったはずで、にもかかわらず断を下した事情には、よほど確信が込められていたのだと思う。
わたしは走りながら少し俯き、亜鐘姉さまの笑った顔を思い出した。
覚えの悪いわたしに、根気よく読み書きを教えてくれた優しさを思い出した。
坤鬼舎に入り、叱られっぱなしのわたしを撫でてくれた背の感触を思い出した。
同時に彼女からいつも感じていた危うさも思い出した。
きっと、誰よりも晴明さまに愛されたかったんだろうな……。懸想に身を焦がした結果が、こういうことか……。
わたしは風を切り土を蹴って駆けながら、少し涙ぐんだ。なんとかできなかったかと思ったけど、それを考えるのはあとだと洟を大きくすすり上げる。
「しかし」
晴明さまは山の森を出て裾野が眼前に広がると、北へと紫雲の手綱を引いた。わたしも土を背後に巻きあげながら急旋回し、その隣に並ぶ。
「あの大人の穢悪を調伏するなら、亜鐘の助けが必要だ。どんなに大きく強大でも、穢悪である以上は怨魄があるはず」
「それを亜鐘姉さまに探してもらうわけですね。でも……」
亜鐘姉さまにとっては、ムシのいい頼みだと思う。追放しておいて、力を借りようというのだから。
きっと交換条件を出されるだろう。
内容は想像が付く。晴明さまとの逢瀬。
たぶん一人で晴明さまを独り占めてしまうような。
それは、やっぱり良くない気がするな。これまでのようにみんなで……。
いや。
できたら滝壺のあの片山家で、晴明さまと穏やかに暮らしたい。
その考えがふっと頭に浮かび、自分でも少し驚いた。意外な欲求だった。もしかしたらわたしにも、晴明さまを独り占めしたい欲が生まれたのかもしれない。亜鐘姉さまと同じように。
「どうした、夜火」
晴明さまの呼びかけで、我に返る。ちょっと、恥ずかしかった。
「いいえ。なんでも」
「ならばいい。叡山に急ごう。僧徒や他の陰陽仗の力も……、癪だが兄者の力も借りなければ。なによりまずは亜鐘と話を」
晴明さまは前を向いたままで言った。
そうだ。難しいことはあと。いまはあの大人をなんとかしないと。
未練を振り切るように、わたしは足に力を入れる。そして大人の気配を詳しく探ろうと意識を澄ました、そのとき。近くになにかを感じる。
「……晴明さま」
わたしは足を回転させつつ、左側に視線を飛ばした。
「近くに覚えのある気配……。モリと思います。気配を感じます」
「……行こう。モリにだけは滝壺の山家を教えていた。わたしを探しているのかもしれん」
※
亜鐘姉さまのようにもっと上手く気配を手繰られれば、もう少し早くモリと合流できたかもしれない。
わたしたちとモリは広い裾野を互いに探し回り、ようやく合流。山の影になる場所で晴明さまは下馬し、手ごろな岩に腰を落ち着けた。
モリは休息を取る晴明さまの前に立ち、子細を話す。
しかしその報告は予想外で、にわかに信じられないものだった。
「亜鐘が賀茂の陰陽仗を殺した……?」
晴明さまは面持ちを変えて絶句した。加茂家の使いが現場を調べて報告し、すぐさまモリがここへ駆け付けたとか。その途中で大人が現れた。
「どうしましょう、晴明さま」
予定が崩れ、わたしはモリの隣から考えを仰ぐ。
「どこに行ったのか分からないんじゃ、わたしでは探せません。亜鐘姉さまがいなければ、あの大人の穢悪……」
「いや……。ちょっと待ってくれ……」
晴明さまはわたしの言葉に同調しない。
より深刻な顔になると、口を手で隠してブツブツと呟き始めた。
「夜火の女君は、坤鬼舎に帰られるのですかな」
モリが、晴明さまの考え込む間に問いかけてくる。わたしはちょっと困った表情をつくって、顔を左右に振った。モリは白く長い眉の下の眼差しを悲しげにしわを深くし、また前を向いた。
彼にも、心配かけてしまうな。
不安が手に汗をつくる。でも必要ならこの命を使ってでも、必ず晴明さまを生かして帰すと言い聞かせて、弱気の虫を追い払った。
「もしかすると、思った以上に悪いかもしれん」
しばらくして、晴明さまが顔を上げた。
少し血の気が引いていて、わたしとモリは顔を見合わせた。
「亜鐘は呪や穢悪を操る術を持っているのかもしれないと、霞から聞いていた。だから赤ん坊は穢悪となった。モリの話でも、現場を見るに恐らく祈祷を込めた縄を千切ったと言うし」
「あ、なるほど」
わたしは、このときまだ事態を呑み込めていなかった。それなら一緒に大人の穢悪と戦ってくれたら心強いなあと、のんきな考えを浮かべていた。
「大人の顕現と逃げた亜鐘。この時宜を考えると」
晴明さまが話したこのとき、大人の歩く地響きで微かに地面が揺れた。いよいよ近く迫ってきたかと戦慄を背中に感じていると、晴明さまの言葉が続く。
「あの大人を、亜鐘が操っているのかもしれない」
「亜鐘姉さまが……?」
どうして? 仔細を問う前に、思い当たる。
それはとても嫌な想像だった。わたしは逃げた亜鐘姉さまと大人の出現を切り離して考えたいけど、もしも、もしも二つに関係があるとするなら。
わたしや姉さまに対する憎しみが、そうさせているのかもしれない。
そしてこの予測は、晴明さまやモリも同じく頭の中にあるだろう。
「亜鐘姉さま……」
呻きに似た呟きが口から漏れる。
こちらは切り札を失うどころか、その切り札と敵対することになったんだから。
「亜鐘が大人を操っているなら大ごとだ。あの穢悪は都に憎しみを持つ怨に加え、私たちに対する亜鐘の憎しみも加わっているかもしれん。破滅をもたらしかねんし、なにより」
晴明さまは太い息を吐き出した。
「――あいつを殺さないといけない」
「…………」
なにを言うのも憚られる。そうではない見込みに全てを賭けるしかないけど……。
祈るように考えた、そのとき。
背筋を怖気が撫で、わたしは思わず背を伸ばす。
これは……。この気配は……。
亜鐘姉さまでなくても、気配がここまで強烈だと分かってしまう。
「……晴明さま……」
わたしは根の合わない歯をどうにか抑え、荒くなる息差しの中から声を出した。
「……どうした?」
「この場所……、いえ、わたしたちの気配が、あの大人に捉えられたようです。こっちに大人の意識が向いているのを感じます……」
「参ったな」
「――だけではなく」
わたしは息を呑み、言いたくない言葉の先を続けた。
「この感じ……。晴明さまを見ているときの、亜鐘姉さまそっくり……」
※
悲田院の僧
だいだらぼっちがやってくる。
七尋女房がやってくる。
南西に小さく見えた禍々しい大人は、都に大混乱をもたらしていた。
権門勢家は我先とこぞって北へ東へと逃げ出して、あの広い都大路に牛車が溢れて遅々と進まぬような有様という。
愚かなことだ。
拙僧は悲田院の門の前に立ち、遠くに見える大人を眺めていた。
あれがこの世に終わりをもたらす者だろうか。
なるほど。姿形は相応しい。
末法に時代が下る前触れだろう。貴族たちが自己陶酔と贅に身を浸す傍らで、民草が飢えて死ぬ。窮して心貧しくなる。子を病人を年寄を捨てる。だからその澆季を誅しに、あの者は都に来るのだ。
拠所のある話ではないが、拙僧はあの大人を見て何故かそう思えた。
しかしなんとしよう。大人の進みは間違いなくこちらに舵を取っているが、この悲田院には無辜の孤児や病人が多くいる。連れ出し逃げるはあまりに難儀だ。
「上人」
考えていると、傍らから声。
目を向けるとアコがいた。身寄りのない鬼の女童。
「ここにいてはならん。頭巾が外れたらツノが人に見られるぞ」
「あの大人」
アコは拙僧の言葉を聞かず、小さく見える大人を指さした。
「……ここへ来るであろうな。いま逃げる道を考えていたところだ。お前も荷物があれば用意しておきなさい」
「ううん」
アコは首を左右に振る。そしてこちらを真っすぐに見た。
「大人のせいで、あの人が困ってる」
「あの人?」
「あの鬼女。いつも親切な人」
と、言われても鬼女はアコ以外に覚えがない。彼女の縁者かと思ったが、これまでこの子からその類の話を聞いた覚えがなかった。
「アコ、行かないと」
「どこへだ。いや、しかし外は危ない。まだ中におれ」
「いつも親切にしてくれたから。行かないと」
彼女はそう言って、次の瞬間には疾風のような速さで隣から消えてしまった。
※
賀茂保憲
思ったよりもエラいモンが出てきたな。
都近くの丘から大人を眺めて、俺は呆れた笑いを浮かべた。
あの分じゃ、亜鐘は無事に済まなかったか? いずれにせよ穢悪を操るという目論見はしくじったんだろう。そして最後に見せた意地があれか。
つくづく哀れな女だった。だが内に抱えた鬼はホンモノだ。お気に入りが地獄に墜ちるのを見るのはやるせないな。
「朔」
地面に向かい名を呼ぶと、鬼女がぷかりと頭を出す。
「親父殿に伝えにいけ。ことと次第によっては、大内裏に貸しがつくれる」
「御意に」
朔は影から上がり、俺への一礼をもって叡山へと駆けていった。これで義務は果たした。あとは高みの見物とさせてもらおう。
さあ、どう出る、晴明。
都がいまアレによって滅んでも俺はかまわないが、お前は違うだろう。同じ謀を目的とする相棒だが、あいつは妙に甘い部分がある。
ただ、俺はお前がお気に入りだ。そして夜火も。いま死んで欲しくはないな。
現状の坤鬼舎の持ち駒でアレは防げないだろうが、そっちには内にホンモノを飼う者があと二人いる。カギを握るとすれば、あいつらだ。
※
わたしたちを見付けてから、大人の歩く速さが増した。
走るというより早歩きという感じだけれど、それでも一歩が大きいから巨体に似合わない驚くべき速度でわたしたちに迫ってくる。もう叡山に応援を呼びに行くだけの、時間の猶予もなさそうだ。
しかも、やはり知性も備えているみたいだ。
晴明さまを狙うなら、せめて都と違う方角へ逃げて大人を引き離そうとしたけれど、それは失敗。最初は晴明さまを追ってくるけど、都への進路を少し離れたらまた進む方角を戻してしまうのだ。
狙う順番を格付けしている? いや、たぶん違うと思う。
都を狙えば晴明さまが戻らざるを得ないことを、知っているのだ。
わたしたちは徐々に追い詰められていた。
「紫雲の疲れもそろそろ限界だ」
大人がだいぶ大きく見え始めた頃。
ただ広い原っぱを駆けていると、紫雲の走りに陰りが見えた。
いかに名馬でも、わたしたちは東西南北とずっと逃げっぱなし。こうなるのはときの問題だった。鬼女の体でだって疲れて息が上がっている始末だ。
上手く逃げられたらと思ったけど、こうなったら仕方がない。
元からそのつもりだった。これまでの全ては、このためにあったのだ。
「晴明さま」
立ち止まり、愛しい人の名を呼んだ。
晴明さまはわたしより数歩先に進んで止まり、こちらに顔だけを向ける。問いかけるその青やかな眼差し向かい、精いっぱい笑んで見せた。
「ごめんなさい。わたし、やっぱり死にたくありません」
「私だってそうだ。いきなりなにを言う」
「でもわたしと晴明さまは違います。だって狙われているのは晴明さまでしょ?」
「……確かに、な」
晴明さまは息荒い中から返事を捻り出すと、紫雲ごと大きく回ってわたしを正面に見た。真意を問う目だった。
「暇乞いというわけか」
「お世話になりました。御恩は忘れません。きっと姉さまたちがもう来ますから、合流してせいぜい大人を調伏してください」
「ならんぞ、夜火」
「……わたしは死にたくないんです」
「誤魔化すな。お前の考えなど……!」
晴明さまの青やかな瞳が悲しげに揺れたところで、
「主」
モリが間に割って入ってくれた。
「夜火の女君のお覚悟です。主には使命があるはず」
「だが」
晴明さまの反論の端初。
一際大きな地鳴りが、地面ごとわたしたちの体を揺らした。
大人が接近している。だいぶ近い。もう余裕がない。
わたしはモリに目配せをする。彼はただ黙って頷いた。頷いてくれた。
「さ、主、お早う。妻君のご配慮を虚しくさせますな」
「…………」
「お早く。使命を帯びる者は、ときに目前の苦労や恥に耐え忍ばねばなりません。夜火の女君は主が行きやすくしてくださったのです」
モリの数度目の促しに、晴明さまは前を向いた。その動作は鉛が入ったように重々しく心の内が読み取れたけど、
「必ず戻る。死ぬなよ」
最後にそう言い残すと、彼は再び紫雲を走らせる。
紫雲もわたしの願いに応えてか、足に力強さを取り戻して駆けてくれた。
――これでいいんだ。
見透かされていたら世話がないけど、得られた結果は同じだ。だいたい連れて行けって言ったのはこっちなんだから、そりゃ分かってしまうか。
わたしは晴明さまのお姿を目に焼き付けようと、次第に小さくなるその背をじっと見送っていた。
遠く見えなくなるまで、ずっと、ずっと。
たぶん、最後になってしまうから。
モリも一緒なら、二人はきっと姉さまたちと合流できる。そしたら大人にも勝機が生まれる。
だから呪の使えないわたしの役目は、いまはこれだけ。
ほんの一息でも命を使ってときを稼いで、あとを晴明さまに託すのだ。もし生きてまた会えたら、ちゃんとお役目果たしましたよって言ってやろう。
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