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風が冷たく頬をかすめる。冬の空は、何も言わずに沈黙していた。
遥は、金網越しに地上を見下ろしながら、
ふと、遠い過去の“音”を思い出していた。
──パシッ。
乾いた音だった。
手のひらで打つ、暴力の音。
それが何度も繰り返されたあとの、
とても小さな、崩れるような音。
泣き声だった。
……玲央菜の。
遥は、あの瞬間をずっと理解できないでいた。
なぜ泣いたのか。
なぜ、あの程度のことで崩れたのか。
理解できなかった。
いや、したくなかったのかもしれない。
あの時、遥はいつも通り無言だった。
殴られても、蹴られても、何も言わなかった。
だが──あの日、少しだけ違った。
不意に、玲央菜の目を見た。
何かを訴えるでもなく、恨むでもなく、
ただ、まっすぐに、感情の死んだ目で。
それだけだった。
それだけで、玲央菜は泣いた。
(──どうして?)
遥には、それが、わからなかった。
「泣かされるのは、こっちだったろ」
「痛いのも、苦しいのも、ずっと、俺だったろ」
それでも、玲央菜は泣いた。
自分を壊してきた人間が、勝手に壊れた。
それが、どうしようもなく、意味不明だった。
……ただ、一人だけ、わかっていたかもしれない。
日下部。
あの日、遥が見たのは、
泣き出した玲央菜の横で、わざとらしく笑っていた日下部の顔だった。
あの顔──あれは、「焦っている」顔だった。
それだけは、わかった。
日下部は、理解していたのかもしれない。
あの涙の意味を。
玲央菜の“崩れ方”の構造を。
でも、遥には、わからなかった。
いや、
──“わかるほど自分が壊れていたら”と思うこと自体が、もう負けだった。
遥は口元に笑みを浮かべた。
あのときの玲央菜の顔と、
横で気づかれないように笑っていた日下部の顔を思い出して。
(おまえら……ほんと、壊し方が下手だったよな)
そう思ったとたん、
胸の奥にひりつくようなものが走った。
もしかしたら、と遥は思う。
あの日、玲央菜が壊れたのは、
“おまえ”じゃなかったんだ、と。
──日下部。
おまえがあの時、
ちゃんと“従って”いなければ、
玲央菜は泣かなかった。
(……そうだろ?)
でもそれは、遥の想像にすぎなかった。
ただ一つ確かなのは、
自分はあの日、何も壊していない。
壊されただけだ。
──にも関わらず、
泣いたのは、玲央菜だった。
そしてそれを、
日下部だけが知っていた。
風が、もう一度吹き抜ける。
遥はそれを頬で受けながら、
微かに笑って、
地上を見下ろす目を細めた。
その目は、
いまでも、あの日と同じ──
「なにも感じない目」だった。