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教室の隅、誰もいない放課後。背を向けて荷物をまとめる遥の肩を、日下部はじっと見ていた。
その背中が、重なった。
――あの時の、玲央菜の、あの泣き顔と。
あれは、最初で最後だった。
あいつが泣いたのは。
思い出したくもなかった。
けれど、思い出さずにはいられなかった。
遥の目が、
あの時、一瞬だけ――生きていた。
それまではただ、壊れかけた人形みたいで。
どんな暴力を加えようが、ただ黙って受けて、何も感じない、そう見えた。
でも、あの時。
玲央菜がいつものように遥の頬を張り飛ばして、笑って、その顔を覗き込んだ瞬間。
遥が、ほんの少しだけ眉を寄せた。
痛みにも、怒りにも似ていない。
ただ、“感情”という名の何かが、うっすらと浮かんだだけ。
……それだけだった。
それだけのことで、玲央菜は壊れた。
「……違う……それじゃダメなんだ……あたしが“上”じゃなきゃ……」
そう呟いた声を、日下部は今でも覚えている。
その直後、
玲央菜の目から、一筋だけ涙がこぼれた。
怒りじゃない。
哀れみでもない。
屈辱でも、後悔でもない。
“自分が支配者ではない”かもしれないと知ってしまった、
その絶望だけが、そこにあった。
あの瞬間を、日下部は見た。
誰よりも近くで。
そして、咄嗟にごまかすように、遥を蹴った。
玲央菜に笑って見せた。
「なーに泣いてんだよ、おまえ、殴っといて情けねーな」
そんな台詞で、場を流した。
玲央菜は何も言わなかった。
ただ、震えるように笑った。
でも、あの時からだった。
玲央菜の暴力が、少しずつ狂い始めたのは。
そして、日下部の中にも、
遥への、説明のつかない感情が根を張った。
――「こいつは、人を壊せる」
――「玲央菜を、壊せるのは、こいつしかいなかった」
それが悔しかったのか、怖かったのか、
自分でもよくわからない。
玲央菜は、自分にとって特別だった。
あいつの狂った笑顔も、暴力も、歪んだ支配欲も――全部、汚いけど美しかった。
その中心に、遥がいた。
何をしても壊れないはずだった“器”が、
たった一瞬の表情で、玲央菜の軸を粉砕した。
日下部は、それを知っている。
でも――遥には、絶対に言えない。
「おまえがあのとき、初めて笑ったんだよ」なんて。
「そのせいで、玲央菜は壊れたんだよ」なんて。
遥はきっと、今も理解していない。
それでいい。
それでいいはずなのに――
今、目の前で、何もないふりをして荷物をまとめる遥を見ていると、
どうしても、あの時の玲央菜の顔が、頭から離れなかった。
泣いていた。
崩れていた。
壊れながら、それでもなお「上でいたかった」女が。
遥に、“勝てない”と知った瞬間に。