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うっふん(?)
中原家の屋敷は、夜になると、外の喧騒を遮断する深い静寂に包まれる。 だが、その静寂は、太宰家で彼を苛んでいた「死の沈黙」とは違っていた。厚い絨毯、等間隔に灯る柔らかな電灯、そしてどこからか漂う上質な木の香り。それら全てが、太宰治という存在を異物として浮き彫りにさせていた。
「……治。いつまでそこに立ってんだ。さっさと入れ」
中也の低い声が、広大な大理石の浴室に反響した。 太宰は、浴室の入り口で、借りてきた猫のように肩をすくめて立ち尽くしていた。 中原家の浴場は、太宰がかつて「人間」として扱われていた頃の記憶にすら存在しないほど、贅を尽くしたものだった。湯気の中には、高価な薬湯の香りが混じり、大きな浴槽からは、溢れんばかりの湯が絶え間なく溢れている。
「……中原様。私は、あちらの……使用人用の洗い場で十分です。ここを汚してしまいますから」
太宰は、目を伏せたまま言った。 中也を名前で呼んだあの日から、彼の心は激しく揺れ動いていた。中也の温もりを知ってしまった恐怖と、それを求めてしまう自分への嫌悪。彼は再び、自分を守るために「卑屈な下男」という仮面を被り直そうとしていた。
「ああ?」
中也は、すでに服を脱ぎ捨て、腰にタオルを巻いた姿で、不機嫌そうに眉を寄せた。
「俺が『入れ』って言ってんだ。お前の返事は『はい』か『YES』しかねぇんだよ。……それとも、脱がせてほしいのか」
中也が冗談めかして一歩踏み出すと、太宰は怯えたように身を引いた。
「……い、いえ……自分で、脱ぎます……」
太宰は、震える指先で、数世代前の古い制服のボタンを一つずつ外していった。 布が肌から離れるたびに、彼は自分が裸にされること以上に、自分の「中身」を晒すことに耐え難い羞恥を感じていた。 やがて、継ぎ接ぎだらけのシャツが床に落ちた時、中也は、息を呑んだ。
湯気の中に現れた太宰の身体は、あまりに細く、そしてあまりに無惨だった。 白い肌をキャンバスにするかのように、至る所に、暴力の痕跡が刻まれていた。 叔父に木属性の異能で打たれたであろう、黒ずんだ打撲痕。信治に熱い茶を浴びせられた時の、広範囲に広がる火傷の跡。そして、満足な食事を与えられなかったために浮き出た、痛々しい肋骨。
中也の瞳に、激しい火花が散った。
「…………あの、クソ野郎ども……」
中也の周囲の空気が、重力によってミリ、と軋んだ。 彼は、太宰の身体に刻まれた「絶望の履歴」を目の当たりにし、自分の中に渦巻く殺意を制御するのに、多大な労力を要した。
太宰は、中也のその激しい反応を、「醜いものを見た嫌悪」だと勘違いした。
「……申し訳ありません。……見苦しいものを、お見せしました。……やはり、私はあちらへ――」
「動くな」
中也が怒鳴った。 その声に、太宰はびくりと身を強張らせ、その場に釘付けになった。 中也は、大股で太宰に歩み寄ると、彼の細すぎる肩を両手で掴んだ。
「……何が見苦しいだ。……これを見て、お前を嫌う奴がいるなら、そいつの目を俺が潰してやる」
中也の声は、地を這うような怒りに満ちていた。だが、その指先は、太宰の傷跡をなぞる時、驚くほど繊細で、温かかった。
「…………中也……さま……」
「……汚ぇのはお前じゃねぇ。……お前をこんなにしやがった、あの家そのものだ」
中也は、太宰を抱きかかえるようにして、洗い場の椅子に座らせた。
「座ってろ。……俺が、洗ってやる」
「えっ……!? そ、そんなこと、滅相もありません! 私のような者が、中原様に――」
「黙ってろ。……これは、俺の『趣味』だ。文句あるか」
中也は、太宰の拒絶を力ずくでねじ伏せると、高級な石鹸をたっぷりと泡立てた。 彼は、戦場で何百人もの命を奪ってきたその手で、太宰の汚れた髪を、優しく、慈しむように洗い始めた。
太宰は、目を閉じ、ただその感触に身を委ねるしかなかった。 中也の指先が頭皮を刺激するたびに、溜まっていた頭の芯の痛みが、少しずつ解けていくような気がした。 誰かに、触れられる。 それが「痛み」を伴わないものであることが、太宰にとっては、何よりも信じ難い奇跡だった。
「……痛くねぇか。力、強くねぇか」
中也が、時折、確認するように声をかける。
「……はい。……とても、温かいです」
太宰の目から、一筋の涙が溢れ、泡と共に流れていった。 中也の指が、太宰の背中の傷をなぞる。 そこには、治りかけの大きな切り傷があった。昨夜、叔父が「手土産として綺麗にしてやる」と言って、無理やり異能で刻み込んだ「従順の証」だった。
中也の指が、その傷に触れた瞬間。
「……あ……っ!」
太宰の身体が、小さく跳ねた。 だが、中也は手を離さなかった。代わりに、自分の手のひらに重力の熱を込め、傷口の痛みを吸い出すようにして、じっくりと温めた。
「……治。……お前はもう、道具じゃねぇ。……お前は、俺の隣で、俺と同じものを食べて、俺と同じように笑う権利があるんだ」
「……笑う……? 私が……?」
太宰は、自嘲気味に呟いた。
「私に、そんな権利があるとは……思えません。……私は、自分の異能すら、自分を傷つけるものだと思って生きてきましたから」
「なら、俺がその考えを、根底からひっくり返してやるよ」
中也は、太宰の身体を丁寧に流すと、彼を抱き上げ、大きな浴槽へと運んだ。
「……入れ。……まずは、その冷え切った心を温めろ」
太宰の身体が、たっぷりと張られた湯に沈み込む。
「……熱い……。……けど、気持ちいい……」
太宰の白い肌が、湯気と熱によって、淡い桜色に染まっていく。 彼は、浴槽の縁に頭を預け、数分間、ただぼんやりと天井を見つめていた。 太宰家では、冬でも冷水で身体を拭くことしか許されなかった。 お湯の温かさが、これほどまでに心臓の鼓動を強くさせるものだとは、知らなかった。
中也も、太宰の隣に腰を下ろした。 二人の距離は、湯気の中で、さらに縮まっていく。
「……太宰。……お前、これからどうしたい」
中也の唐突な問いに、太宰は微かに目を細めた。
「……どうしたい、ですか。……私は、中原様の……いえ、中也の、仰せのままに……」
「そういうんじゃねぇよ」
中也が、太宰の横顔をじっと見つめる。
「お前自身の望みを聞いてんだ。……食いたいもんでも、行きたい場所でもいい。……それとも、復讐したい奴でもいるか?」
「復讐……」
太宰の瞳に、一瞬だけ、鋭い刃のような光が宿った。 だが、それはすぐに、深い悲しみの色に飲み込まれていった。
「……復讐なんて、望みません。……ただ……」
「ただ?」
「……あの家の人たちが、私のことなんて、最初から存在しなかったかのように……忘れてくれたら、それでいい。……私は、もう、あそこにいた『太宰治』を、殺してしまいたいんです」
太宰の声は、震えていた。 彼は、叔父たちを憎むことさえ、自分にとっては「繋がり」を持ち続ける苦痛であると感じていた。 ただ、切り離されたい。 あの地獄から、完全に、跡形もなく。
中也は、太宰のその絶望の深さに、改めて戦慄した。
「……分かった。……お前の望み、聞き届けた」
中也は、湯の中から太宰の右手をとり、その細い指を一本ずつ、自分の指で絡め取った。
「……あいつらは、もうお前のことなんて思い出せなくなる。……俺が、あいつらの人生を、お前の記憶から永遠に抹消してやる。……だからお前は、ここで新しい『太宰治』を始めろ」
「……新しい、私……」
「ああ。……まずは、明日、美味いもんを腹いっぱい食うことからだ。……それから、新しい服を仕立てる。……それから……」
中也は、太宰の指先に、誓いのような接吻を落とした。
「……俺と一緒に、この帝都の空を飛ぶんだ。……重力なんて関係ねぇ。……お前が行きたい場所へ、俺が連れてってやる」
太宰は、初めて、中也の瞳の奥にある「本物」を見た。 そこには、義務も、怜憫も、打算もなかった。 ただ、一人の少年を、奈落の底から救い出したいという、純粋で、暴力的なまでの愛があった。
「…………中也」
太宰は、自分から中也の肩に頭を預けた。
「……私……生きていても、いいのかな」
「当たり前だ、この唐変木」
中也は、太宰の濡れた髪をかき上げ、その耳元で囁いた。
「……俺が許す。……お前の生も、お前の力も、全部俺が肯定してやる。……だから、二度と自分をゴミだなんて言うな」
風呂場の温かな湯気の中で、太宰の凍りついていた心の一部が、確かに、溶け始めていた。 だが、それは同時に、今まで彼を支えていた「絶望」という名の支柱が失われることも意味していた。 太宰は、中也という新しい熱を、どう扱えばいいのか分からず、ただ、その強い腕の中で、溺れるように息をついた。
一方、中也の胸中は、温かさとは正反対の「冷徹な殺意」で支配されていた。 太宰の身体に刻まれた、あの無数の傷。 それを一つ一つ、叔父たちの心臓に、同じ数だけ刻み込んでやらなければ、気が済まない。
(……太宰正治。……お前たちの時間は、もうとっくに終わってんだよ)
中也の瞳に宿った紅い重力の光を、太宰はまだ知らない。 二人が湯船から上がる頃、外の夜はさらに深まり、中原家による「太宰家解体作戦」の第一段階が、密かに開始されていた。
太宰治は、中也から手渡された真っ白で柔らかな寝着に身を包み、生まれて初めて、他人の温もりが残るシーツの中で眠りについた。 その夢の中で、彼は初めて、雪ではなく、花が降る光景を見た。
中也は、隣の部屋で、部下からの報告書を読み耽っていた。
「……よし。……まずは、こいつからだ」
報告書の最上部には、太宰信治の「学園での不正行為」の記録が、克明に記されていた。
中原中也の攻撃は、一瞬の爆発ではない。 それは、重力のようにじわじわと、相手の骨を砕き、精神を擦り潰し、逃げ場を完全に奪うまで続く、地獄の拷問となるはずだった。
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