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帝都国立異能学園の朝の光は、残酷なほどに均一だ。 昨日まで「ゴミ」として扱われていた者にも、頂点に君臨する者にも、等しく朝日は降り注ぐ。だが、太宰治にとって、その光は自分の「不釣り合いさ」を強調するだけの、不快なスポットライトでしかなかった。
中原家の重厚な蒸気自動車の助手席に揺られながら、太宰は、昨夜の風呂での記憶を必死に心の奥底へ押し込もうとしていた。 中也の大きな手。温かな湯気。自分を「生きていていい」と肯定した、あの熱い声。 (……夢だ。あれは、質の悪い夢なんだ) そう思わなければ、今、隣で不敵な笑みを浮かべてハンドルを握る中原中也という存在に、自分の形が全て溶かされてしまいそうだった。
太宰が纏っているのは、昨夜、中也が「これからはこれを使え」と手渡した、新調された最高級の制服だった。 肌に触れる生地は驚くほど滑らかで、継ぎ接ぎだらけのボロ布とは比較にならないほど温かい。だが、その心地よさが、太宰には毒のように感じられた。
「おい、治。顔色がわりぃぞ。……車酔いか?」
中也が、信号待ちの合間に、太宰の額に手を伸ばした。
「……っ! い、いえ……大丈夫です。ただ、少し、眩しいだけで……」
太宰は、中也の手が触れる寸前で、身体を強張らせて避けた。 中也の瞳が、一瞬だけ寂しげに細められたのを、太宰は見逃さなかった。だが、彼はそれに応える術を知らない。
「……眩しいなら、俺の影に隠れてろ。学園に着いても、俺のそばを離れるんじゃねぇぞ」
中也は、独占欲を隠そうともせずに言い放ち、車を学園の正面玄関へと滑り込ませた。
車が止まった瞬間、学園の入り口は騒然となった。 帝都の英雄、中原中也が、自ら運転して登校してきただけでも一大事だ。その助手席から、昨日まで「太宰家の恥晒し」と蔑まれていたはずの、あの幽霊のような少年が降りてきたのだから。
「……見ろよ、あれ。太宰じゃないか?」
「中原様の車から降りてくるなんて、どういうことだ?」
「制服が新しくなってる……。まさか、本当に中原家に引き取られたのか?」
周囲の囁き声は、昨日の嘲笑とは異なり、戸惑いと、隠しきれない「嫉妬」を含んでいた。 太宰は、その視線の重さに、呼吸が浅くなるのを感じた。
(……嫌だ。見ないで。私を見ないでくれ)
自分は、影の中にいる時が一番安全だった。 中也という太陽の隣にいることは、自分の存在を白日の下に晒し、その醜さを際立たせるだけだと、彼の歪んだ自尊心が叫んでいた。
中也が車を降り、太宰の隣に並び立とうとした、その瞬間だった。
「――っ、失礼します!」
太宰は、中也の呼びかけを待たず、弾かれたように走り出した。
「おい、治! 待てって言っただろ!」
中也の声が背後から響くが、太宰は耳を貸さなかった。 彼は、人混みを縫うようにして、全力で逃げ出した。 目的地などない。ただ、中也の視線から、学園中の好奇の目から、そして何よりも、中也に「溶かされそうになっている自分」から逃げ出したかった。
太宰は、昨日のように旧校舎へ向かうのではなく、学園の広大な敷地の隅にある、鬱蒼とした森のような庭園へと逃げ込んだ。 ここは、異能訓練用の演習場として使われる場所であり、授業中以外は人が立ち入ることは稀だ。 太宰は、古い大樹の根元に座り込み、激しく上下する肩を抑えながら、膝に顔を埋めた。
(……馬鹿だ。私は、本当に馬鹿だ)
逃げ出したところで、帰る場所はあの中原家しかない。 中也を怒らせれば、昨夜の優しささえも、怒りへと変わってしまうかもしれない。
(……でも、怖いんだ。あのままあそこにいたら、私は……「幸せ」なんて、あり得ないものを、信じてしまう)
絶望の中で生きる術は知っている。 だが、愛されて、大切にされて、それでも自分は「ゴミ」なのだと自覚し続ける苦痛には、耐えられる気がしなかった。 太宰は、冷たい地面に指を這わせ、土の匂いを嗅いだ。 やはり、自分にはこちらの方がお似合いだ。湿っていて、暗くて、誰の目にも触れない場所。
その時、頭上の木の葉が、不自然なほど激しくざわめいた。
「――逃げ足だけは、一人前だなぁ。手前は」
心臓が止まるかと思った。 上空から、重力による圧倒的な圧力が降り注ぐ。 太宰が恐る恐る顔を上げると、そこには、木の枝を足場にして、真っ逆さまに自分を見下ろしている中原中也がいた。
中也は、重力を無視して、ひらりと太宰の目の前に着地した。 その着地の衝撃で、周囲の土が円形に沈み込む。
「……な、中原……様……」
太宰は、震えながらさらに後退しようとしたが、背後は巨大な樹木に遮られていた。
「『中原様』じゃねぇだろ。……昨夜、俺の名前を呼んだのは、どこのどいつだ」
中也は、一歩ずつ、逃げ場を塞ぐように治に歩み寄る。
「……言ったはずだぜ。お前をこの学園の、帝都の、どこの影に隠れても、俺が引きずり出してやるってな」
「……どうして……。どうして、放っておいてくれないのですか」
太宰は、叫ぶように言った。
「私は、中也が思うような人間ではありません! この傷を見て、同情しただけでしょう? でも、私は中身まで、もっと汚くて、醜いんです! 中也の隣にいたら、私は……自分が自分じゃなくなってしまう!」
「それがどうした⁉︎」
中也が、太宰の隣の木を殴りつけた。 轟音と共に、太宰の耳元で樹皮が砕け散る。
「……自分が自分じゃなくなる? 上等じゃねぇか。……そんな腐りかけた自分なら、俺が全部ぶち壊して、新しい自分を叩き込んでやるよ」
中也は、太宰の腰を強引に抱き寄せ、彼を自分の方へと引き寄せた。 太宰の細い身体が、中也の胸板に強く押し当てられる。 「逃げんな。……お前が逃げれば逃げるほど、俺の重力は、お前を強く縛り付けることになるぞ」
「……っ……苦しい、です……」
太宰は、中也の腕の中で、酸素を求めるように喘いだ。 だが、その苦しさは、決して不快なものではなかった。 中也の体温が、新調した制服を突き抜けて、自分の心臓に直接、熱を注ぎ込んでくる。
「……苦しいのは、お前が生きてる証拠だ」
中也は、太宰の首筋に顔を埋め、その脈動を確かめるように深く息を吸った。
「……治。お前は、まだ自分がゴミだと思ってんだろう。……だが、俺にとっては、この世のどんな宝石よりも、お前のその『虚無』が愛おしいんだよ」
中也の言葉は、太宰の防衛本能を嘲笑うかのように、心の深淵へと突き刺さった。
「……愛おしい……? 私が……?」
太宰は、信じられないものを見るように、中也を見上げた。
「ああ。……お前が自分を嫌うなら、その分、俺がお前を愛してやる。……お前が自分を歪んでるって言うなら、俺がその歪みごと、抱きしめてやる」
中也は、太宰の頬を両手で包み込んだ。 親指で、太宰の瞳の下に残る、絶望の隈をなぞる。
「……もう一度、俺の名前を呼べ。……『他人のフリ』も、『無言逃亡』も、今日で終わりだ」
太宰は、中也の青い瞳に射抜かれ、動けなくなった。 その瞳には、嘘も、迷いもなかった。 ただ、一人の少年を、自分の重力圏内へと永遠に閉じ込めたいという、執拗なまでの「愛」が燃えていた。
「…………中也」
太宰の唇から、熱い溜息と共に、その名がこぼれ落ちた。
「……中也、助けて。……私、どうしたらいいか……分からないんだ」
太宰は、中也の胸に顔を埋め、声を殺して泣き始めた。 初めて見せた、子供のような「甘え」の形。 中也は、満足げに微笑むと、太宰をさらに強く、それこそ骨が軋むほどに抱きしめた。
「……分かんなくていい。……全部、俺が教えてやる。……食い方も、眠り方も、……誰かに愛されるっていうことが、どういうことかもな」
中也は、太宰を横抱きに抱き上げ、重力で浮き上がった。
「……今日は学校なんて休みだ。……二人で、美味いもんでも食いに行くぞ」
「え……っ、授業は……?」
太宰が驚いて顔を上げると、中也は不敵に笑った。
「帝都最強の俺が『休み』っつったら、休みなんだよ。……文句あるか?」
中也は、太宰を腕に抱いたまま、学園の空を悠然と横切っていった。 下で見守る生徒たちが、その非日常的な光景に絶叫を上げるが、中也は一顧だにしない。 今の彼にとって、腕の中にある「小さな空白」を埋めること以上に重要な任務など、この世に存在しなかった。