テラーノベル
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いつも通りの午後、保育園へ出勤した。
今日も子ども達は元気でかわいい。
補助に入った三歳児クラスのお昼寝が終わって、僕がいることに気がついた子どもたちが次々に抱きついてくる。
「都希せんせーだー!」
「嬉しいー!」
「やったー!」
あっという間に、子どもたちに囲まれた。
「今日はうさぎぐみさんだよ。よろしくね」
そんな中、ほっぺがほんのり赤くなっている男の子に気がついた……
「ほっぺが赤いね。お顔、見せてね」
そっとおでこに触ると、熱い……
「お熱かもしれないから、測りに行こうか」
不安そうな男の子の頭を撫でながら声をかける。
測ると、やっぱり熱が高かった。
「一緒にお迎えを待ってあげるね。先生がそばにいるから大丈夫だよ」
「……うん」
男の子は、赤い顔のまま、ほっとしたように笑った。
「都希せんせー、さよーならー」
男の子は、迎えに来た母親と手を繋ぎ、その手を大きく振りながら帰って行った。
──何があるのかわからないけど、この日常が僕にとって、とても大切なんだ……
そのあとは、いつも通りに仕事をこなした。
夜はバーだけど、今日は少し疲れた感じがする……
壮一からメッセージがきていたけど、今夜は疲れを理由に断った。
◇
店の閉店作業の途中に千景が入って来た。
この時間帯に千景が来ることも、今では当たり前になった。
「いつものお願いします」
今夜もにこにこしながら、酒をオーダーしている。
「……どうぞ」
──そして、出された酒を飲み干す。
でも……なんだか、いつもと違うような──
違和感と同時に、目が笑っていない……そんな気がした。
すると、普段なら飲み終わるとすぐに帰る千景が、唐突に話かけてきた……
「──そういえば、ツキさんって、エプロン姿も似合いますね」
──?
「あ、眼鏡もかけたりするんですね。すごく似合ってましたよ」
「ねぇ、なんの話してるの?」
「……保育園で、働いてるんですね」
──!!
「は?働いてないけど」
「ま、いーや。店の外で待ってるから話ましょうよ。じゃ、ご馳走様でした。」
「ちょっと!待ってよ!」
僕にしては珍しく大きな声で引き留めた。
でも──千景は、まるで聞こえていないかのように店から出て行ってしまった。
◇
──話だって?一体何を話すって言うんだよ。くそ、面倒くさいな……。
閉店作業も終わり、そんなことを思いながら店の階段を登る。
階段を上りきると、千景が壁に寄りかかって待っていた。
「で、なにか用?僕は話すことなんて無いけど。」
不機嫌なまま、すぐさま千景に声をかけた。
すると……僕の様子を観察するように、千景がゆっくりと話し始めた。
「……仕事中、普段あまり行かない場所でたまたま見かけちゃったんですよね。ツキさんを。──あれって、変装のつもり?普通にわかっちゃいましたけど」
見られていた……?
自分の運の悪さに小さくため息が出る。
「何言ってるのか分からないし……もう帰るから」
それだけ言って、千景の目の前を通り過ぎようとすると──
「いつも店が終わったあと、男とか女とか関係無く一緒に帰ったりしてますよね。女の子にはキスされてたし……本当にすごいですね。それなのに、変装までして保育園で働いてるなんて……」
千景がわざと周りに聞こえるような声で話し始めた。
「店でのことを知られたらどうなるんでしょうね?保育園の子どもたち、悲しむのかな……」
────!
ここまで好き勝手に言われると、さすがに感情が抑えられなかった。
「大切な場所を汚された」そう感じた途端、言葉よりも先に、自分より背の高い千景の胸元を掴んでいた。
「お前に何か関係あんのかよ!!」
「やっぱりね。……随分ムキになるじゃん。」
バカにした表情や話し方に腹が立つ。
「マジでお前、面倒くさい!!何なんだよ!」
胸元を掴んだまま怒鳴った直後、冷めきった表情で千景が呟いた。
「──俺の相手もしてよ」
「は?!お前、何言ってんの?!」
一瞬、何を言われてるのか分からなかった。
でも、すぐに言葉の意味を理解した。
今までも、こういうことを言ってからかってくる客はいた──
でも、こいつが言ってることは違う。
──これは、脅しだ。
もし、保育園に店のことを知られてしまったら──僕は大切な場所を失ってしまう。
──本当に許せない。
このままではダメだ。こいつの出方を見極めるしかない──
これ以上、動揺したら負けだ。
「はは、相手?そういうことね……日渡さんって、案外くだらないことをいう人なんですね」
嫌味たっぷりに、言葉を吐き捨てた。
でも、千景の表情は変わらない。
「で、相手してくれんの?……今更、何人いたって同じだろ?」
このままここで話をしていても意味がないと思った。状況が悪い……。
──今はいうことを聞くしかないのか……。
かなり不本意だけど、相手の考えが全くわからない以上、千景の挑発に乗るしかなかった。
「相手って?いつ?今?もう疲れたから早く決めてよ」
わざと千景の答えを急かすと、強引に腕を掴まれ、足早に通りを歩いた。
「やめろっ!離せって──」
抵抗をしても振り解くことができない。
そして気がついた時には、きらびやかに光るラブホテルの前にいた──。
◇
部屋に入るなり、強く背中を押されて──
真っ白なベッドに倒れ込んでしまった。
──突然のことに、恐怖で身体が強張ってしまいそうになった。
でも、相手に気づかれないように、なんとか気持ちを押し殺した。
「へぇ……お前って、そういう趣味なんだ。」
ベッドの上から皮肉を飛ばす。
「今日だけ、くだらないこと言ってるお前の相手をしてやるよ。でもさっさと済ませて」
千景は上着を脱ぎ捨て──
感情の読めない目で、こちらを鋭く睨みつけていた。
◇
「くそっ……っ、い……たい……」
声が勝手に漏れる。
僕の言葉が聞こえていないかのように、力強く押さえつけられたまま、時間ばかり進んでいく──。
抗おうとした気持ちは、いつの間にか小さく萎んでいた。
──今の千景からは、何の感情も読み取れない。
怖い……でも受け入れ無いと、次に何をしてくるのか分からない。
恐怖と痛みが混じった中途半端な快楽が僕の心を押しつぶしていった。
無言のまま、何度も、何度も繰り替えされる行為が終わるのをただ待つしかなかった。
──やがて千景の動きが止まり、重さから解放された。
「終わっ……た……どいて……」
かすれた声で呟き、押しのけて離れようとした。
けれど、すぐにまた腰を捕まれて再び組み敷かれてしまった。
「や、めろ……」
言葉は弱々しく、空気に溶けていった。
怒りをぶつける気力も、もう残っていない。
ただ、ひたすらに自分の心が静かに冷えていくのを感じた。
……どのくらい時間が経ったんだろう。
やっと解放された。
足元がふらつく状態のまま部屋を出ようとすると、ホテルに入ってから始めて千景が声をかけてきた。
「────また呼ぶから」
──返事はしなかった。
相手の好きなように押さえつけられるしかない自分が悔しい……
ただ、千景を睨みつけ、鉛のように重い身体を庇いながら僕は部屋を出た。