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放課後の音楽室。
日が傾き始めた窓辺から、やわらかな光が差し込んでいた。
ピアノの前に座った元貴は、すでに鍵盤に指を置いていた。
今日のテーマは——連弾。
「じゃあこの楽譜、僕が上パート、元貴くんが下パートね」
「はい」
藤澤先生が譜面を開き、軽く音を確かめるように鍵盤をなぞる。
元貴は、こうして隣で先生と一緒に音を鳴らせることに、静かな喜びを感じていた。
ピアノは独学。
コードも、スケールも理解している。
けれど——
「……感情を、音に乗せるのが、難しくて」
「うん。音を“弾く”と、“届ける”は違うからね」
「届ける、かぁ……」
「今日はそれ、少し掴んでみよう」
—
試しに、一度弾いてみる。
左手のアルペジオは滑らかに進み、右手は旋律を支える。
技術的には、問題はない。
けれど——
「うん、きれいに弾けてる。でも……なんだろう、少しだけ“気持ち”が遅れてる感じがするかも」
「……やっぱり、そうですよね」
「悪いことじゃないんだよ。音を綺麗に弾く意識が強すぎて、感情の波が入る余白がない感じ」
「……余白」
「強く弾く、とか、速く弾く、とかじゃなくて。息を吸うように、“間”を意識してみて」
藤澤先生は優しく言いながら、もう一度同じパートを弾いてみせる。
その旋律は、空気を震わせるように繊細で、途中に置かれる“間”が自然だった。
「……すごい。止まってるように聞こえないのに、ちゃんと止まってる」
「そう。呼吸みたいにね。そこに“自分”を乗せていくんだよ」
—
再び鍵盤に指を置く。
今度は、先生の呼吸を感じながら。
1音目を押す瞬間、隣の先生の姿勢と指の角度を意識する。
息を合わせて——音が、重なる。
静かに、でもしっかりと絡み合う音。
ふたりで1つの音楽を生み出しているという実感に、元貴の胸が高鳴る。
(この人と一緒に音を重ねられる。それが、嬉しい)
—
演奏が終わったあと、ピアノの上に手を置いたまま、元貴はつぶやいた。
「……先生の音、あったかいです」
「ありがとう。でも、元貴くんの音も変わってきてるよ。さっきよりずっと素直だった」
「……うれしいです」
「ねえ、元貴くんってさ。音楽に、自分を込められる人なんだよ。もっと自信持っていいと思う」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
誰かに“自分の音”を認めてもらえることが、これほどまでに嬉しいなんて。
「……先生」
「うん?」
「僕……先生のこと、好きです」
——口からこぼれたのは、静かだけど真っ直ぐな気持ちだった。
藤澤先生は、一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、少し目を伏せて、そしてやさしく言った。
「…ありがとう。そう言ってもらえるのは、すごくうれしいよ」
「……でも」
「うん……ごめんね。僕は、先生だから。元貴くんのことは、生徒として大事にしたい」
「わかってます。でも、どうしても伝えたくて」
「その気持ちは、大切にして。ありがとうね」
—
その日、連弾の音は、空気に残ったまましばらく消えなかった。