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第四話 夫婦喧嘩は、たいてい食器の音と一緒に始まる
その本格的な喧嘩は、雨の日に起きた。
締切まで一週間を切っていた。原稿は半分にも届いていない。
新田からの催促メールは日に三通に増え、件名だけで胃が痛くなるようになっていた。
真紀は週六で働き、帰宅すると僕の進捗を聞きたそうにしながら、聞かないようにしていた。
そういう遠慮の積み重ねは、いずれ必ず爆発する。
夜、真紀がスーパーの袋を提げて帰ってきたとき、僕はソファで寝落ちしていた。
ノートパソコンは開いたまま、画面には三時間前から変わらない文章が表示されていた。先生は僕の腹の上で寝ていた。
「……ねえ」
真紀の声で起きた。
「ん……?」
「買い物袋、持ってくれない?」
「あ、ごめん」
飛び起きた拍子に先生が腹から落ちた。先生は不満そうに鳴いて、僕を一瞥して去っていく。
真紀は濡れた前髪を耳にかけ、靴を脱ぎながらため息をついた。
「寝てたんだ」
「ちょっとだけ」
「原稿は?」
「やってた」
「寝ながら?」
とげがあった。
僕も疲れていた。いや、正確には何も成していないくせに疲れていた。それがいちばんたちが悪い。
「嫌味?」
「事実」
「そういう言い方やめてくれる」
「どういう」
「僕だって遊んでるわけじゃない」
真紀は買い物袋を台所に置き、中身をしまい始めた。
牛乳、もやし、豆腐、特売の鶏むね肉。僕はそれを見て、また胸の奥がざらついた。
「遊んでるなんて言ってない」
「言ってるのと同じだろ」
「じゃあ聞くけど、今日どれだけ書けたの」
「……」
「ほら」
「書けない日だってある」
「毎日そうじゃん」
食器を置く音が、少しだけ強くなる。
「言いすぎだろ」
「言いすぎ?」
「僕だって苦しんでる」
「苦しんでるのは知ってる」
「じゃあ」
「でも、苦しんでるだけじゃご飯食べられないの!」
その一言は、部屋の温度を変えた。
僕は黙った。真紀も黙った。台所の蛇口から、水の流れる音だけがした。
「……ごめん」
真紀が先に言った。
「今のは、きつかった」
「いや」
僕は首を振った。
「事実だよ」
「でも」
「真紀は正しい」
正しい相手と喧嘩するのは、どうしようもなくみじめだ。
反論する言葉が全部、子どもの駄々みたいに聞こえる。僕は立ち上がって、台所の入り口まで行った。
「でもさ」
自分でも、ずいぶん情けない声だと思った。
「僕が一番それわかってるよ」
真紀の肩が、ぴくりと動いた。
「自分が書けてないことも、稼げてないことも、支えられてることも、全部わかってる。わかってるから苦しいんだよ」
「……」
「わかってることを、毎回真紀の口から聞かされると、息ができなくなる」
「聞かせたくて言ってるんじゃない」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
「書いてよ!」
振り返った真紀の目に、涙がたまっていた。
「私はそれだけなの。あなたに会社員になれって言ってるわけじゃない。夢見るのやめろって言ってるわけでもない。ただ、書くって決めたなら書いてよ。途中で自分が傷つくの怖くなって、逃げるみたいなの、もう見たくない」
「逃げてない」
「逃げてるよ」
真紀は泣きながら、でも言葉を止めなかった。
「売れないのが怖い。評価されないのが怖い。だから、ほんとは書きたいものまで見失ってる。違う?」
「……」
「私、支えるのはいい。でも、あなたが諦めかけてるものを、私ひとりで支え続けるのは無理」
何も言えなかった。
そのとき先生が、呑気に台所へ入ってきた。僕らの間を通り抜け、真紀が買ってきた鶏むね肉のパックに前足をかける。
「先生、だめ!」
真紀が慌てて手を伸ばす。その隙に、先生は包装の端を爪で引っかいた。ぱちん、とラップが破れた。
「ちょ、待って、やめろ!」
僕も駆け寄る。先生はむね肉を引きずって逃げた。床にぽたぽたと肉の汁が落ちる。真紀は泣きながら「なんで今なの!」と叫び、僕は「だからこいつは野良なんだよ!」と意味のない怒鳴り声を上げた。
部屋の中で猫を追いかける、泣いている妻と売れない夫。
たぶん誰が見ても滑稽だった。
最終的に先生はソファの下に逃げ込み、肉だけは救出した。ラップは破れ、床は汚れ、真紀は涙を拭きながら笑っていた。
「最悪すぎる」
「ほんとにな」
僕らは台所の床を二人で拭いた。
喧嘩の続きは、もうできなかった。
その夜、寝室で背を向け合ったまま、僕は長いこと眠れなかった。真紀の言葉が頭の中で何度も繰り返された。
あなたが諦めかけてるものを、私ひとりで支え続けるのは無理。
その通りだと思った。
その通りすぎて、胸が痛かった。