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体育館の空気は、熱気と汗の匂いで白く濁っているようにさえ見えた。
キュッ、キュッ、というシューズが床を噛む鋭い摩擦音。何十回、何百回と繰り返されるスパイクの重い衝撃音。
私はマネージャーとして、コートの脇にある硬いパイプ椅子に腰を下ろし、ファインダーを覗き込んでいた。
(シャッター音)
レンズの先、0.1秒単位で切り取られる世界。
私の指先は、磁石に引き寄せられるように背番号10——角名倫太郎を追い続けている。
図書室で見せる「やる気のない先輩」の顔は、ここにはない。
獲物を狙う爬虫類のような、静かで、冷徹な殺気。
しなやかにしなる背筋、跳躍の瞬間に浮き上がるふくらはぎの筋肉。空中で一瞬だけ静止したかのような、重力を無視した美しい体躯が、レンズの中で残酷なほど鮮やかに踊る。
「……っ、かっこいい……」
肺の奥から、熱を帯びた感嘆が漏れた。
その瞬間だった。
着地した角名さんが、額に張り付いた前髪を無造作に払いながら、スッと、正確にこちらへ顔を向けた。
数メートル離れた距離。ファインダーという小さな窓。
なのに、彼は私の網膜を直接焼き切るような、射貫くような視線をぶつけてきた。
彼は不敵に口角を吊り上げると、練習の輪から音もなく外れ、迷いのない足取りでこちらへと歩いてくる。
一歩、近づくたびに、私の心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打つ。
私は慌てて視線を落とし、液晶画面を隠すようにカメラを胸元で抱え込んだ。
「……四ノ宮。それ、俺ばっかり撮ってない?」
頭上から降ってきたのは、低く、湿り気を帯びた響きを孕んだ声。
大きな影が私を飲み込む。見上げると、逆光の中に立つ角名さんが、三白眼の瞳に意地悪な愉悦を浮かべて私を見下ろしていた。
「えっ、あ、違います……っ! 全員のフォームを、平等に記録して……後で北さんに提出する資料用で……」
「嘘。君のカメラ、俺の残像しか映ってないんだけど。……ちょっと見せて」
角名さんが、私の指先にわざと触れるようにしてカメラのボディを握った。
昨日の図書室で、指を絡められた時のあの痺れるような熱が、全身の毛穴から噴き出すように蘇る。
彼は私の微かな抵抗を容易く無視してカメラをひょいと取り上げると、細長い指で器用にダイヤルを回し、画像を高速でスクロールし始めた。
「……ほら。これ、俺。これも、俺」
角名さんは画像を眺めながら、私の隣に滑り込むようにして、ぐっと顔を寄せてきた。
激しい運動を終えたばかりの、彼の肌から立ち上る熱。
ユニフォーム越しに伝わる、鍛えられた身体の質量。
昨日の図書室の清潔な石鹸の香りとは違う、もっと野生的で、雄の匂いを感じさせる荒い吐息が、私の敏感な首筋をダイレクトに掠めた。
「……まぁ、いいけど。俺も、君のカメラに他の奴が映ってるの見ると、……すげーイラつくし」
「え……?」
聞き返そうとした、その刹那。
角名さんの大きな左手が、カメラを握りしめている私の右手を、上から包み込むようにして力強く固定した。
周囲から見れば、ただの「選手とマネージャーの画像チェック」という日常的な光景に過ぎない。
けれど、その死角——カメラの影に隠れた場所で、彼は私の指の隙間に、自分の長い指を、肉を割り込むようにして深く滑り込ませた。
「……ねぇ、紬。これからは、俺以外撮らなくていいよ」
彼は私の耳たぶを、熱を帯びた指先でゆっくりと弄り、昨日の図書室よりもさらに低く、独占欲を剥き出しにした声で囁く。
「……その代わり、練習中も、試合中も、一瞬たりとも俺を見逃さないで。……いい?」
抗えるはずがなかった。
至近距離で見つめる彼の瞳は、暗い情念を宿した捕食者の色をしていた。
カメラを握る右手が、彼の指の体温でじりじりと焼けるように熱い。
「好き」という弱みを完全に握られた私は、もう、彼の引いた境界線の内側へ、引きずり込まれることしか許されなかった。
「……あ、北さん。四ノ宮、フォームの相談あるみたいですよ。あっちの影で詳しく聞いてきます」
彼は平然とした、いつもの「死んだ魚の目」に戻って主将に嘘をつくと、動揺で膝が笑っている私の腕を、ぐいと強引に引き寄せた。
私のファインダーは、もう、角名倫太郎という猛毒以外を映すことを、許されなくなっていた。