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放課後の喧騒が、遠くのグラウンドから波の音のように微かに聞こえる。
西日が差し込むバレー部の部室は、使い古されたサポーターのゴムの匂いと、誰かが使い残した制汗剤の清涼感が混じり合って、妙に重たく、沈殿した空気に包まれていた。
私は一人、部員たちのスコアブックを整理しながら、鉛のように重たい瞼と戦っていた。
連日のハードな練習。そして何より、あの図書室や体育館の隅で繰り返される、角名先輩からの逃げ場のない「独占」。
彼の低い声が、冷たい指先が、網膜に焼き付いたあの三白眼の視線が、昨夜も私の眠りを執拗に妨げた。
(……だめ、寝ちゃ、……あと、一冊……)
思考が、ぬるま湯のような微睡みに溶けていく。
私はパイプ椅子に座ったまま、長机の上に両腕を枕にして、抗えない深い眠りへと沈んでいった。
どのくらいの時間が経っただろうか。
不意に、頬の柔らかな部分に触れる、ひんやりとした何かの感触で、私の意識がゆっくりと浮上する。
「……ん、……っ、」
目を開けようとしたけれど、全身が深い霧に閉じ込められたように動かない。
代わりに、視界を閉ざしたままの私の感覚が、異常なほど鋭敏に研ぎ澄まされていく。
誰かが、私のすぐそばにいる。
それも、呼吸が重なるほど近くに。
その確信と共に、私の頬をゆっくりとなぞっていた「指」が、こめかみから耳の裏、そして敏感な首筋へと、獲物を慈しむ捕食者のように滑り落ちてきた。
少しだけ荒れた指先が、皮膚の薄い場所をわざとゆっくりとなぞるたび、心臓が跳ね上がり、眠気が一気に吹き飛ぶほどの戦慄が全身を駆け抜ける。
「……ふーん。こんな無防備な顔して寝てると、何されても文句言えないよ? 紬」
鼓膜に直接注ぎ込まれるような、鼻にかかった気だるげな声。
角名さんだ。
心臓がドクン、ドクンと、肋骨の内側を激しく叩き始める。起きて返事をしなきゃいけないのに、彼が放つ独特の、冷たくて甘い「毒」のようなオーラに気圧されて、私は目を開けるタイミングを完全に失ってしまった。
パサリ、と重みのある何かが私の肩に掛けられる。
彼が今しがたまで着ていたであろう、バレー部のジャージだ。
体温が残った布地から、彼自身の、清潔な石鹸と微かな汗が入り混じった特有の匂いが濃密に立ち上り、私の肺を隅々まで支配していく。
「……まつ毛、長いね。……鼻筋も、意外と綺麗だし。……唇は、思ったより柔らかそう」
独り言のように、けれど確実に私に聞かせるように囁かれる言葉。私のパーツを一つずつ、指先で確認するように愛でるその仕草。
角名さんの人差し指が、今度は私の下唇の真ん中に、そっと置かれた。
逃げられない。
彼は私の反応を楽しむように、親指の腹で唇をゆっくりと押し込み、中の湿った粘膜をじりじりと、執拗になぞり始める。
「……っ、」
我慢できず、小さな、熱を帯びた吐息が漏れてしまう。
その瞬間、彼の指の動きが止まり、代わりに顔がさらに、あと数センチという距離まで近づいてくる気配がした。
閉じられた瞼の向こう側が、彼の影で完全に暗くなる。
鼻先が触れ合い、彼の熱い呼気が、私の唇に直接、逃げ場を塞ぐように降り注ぐ。
「……ねぇ、起きてるんでしょ。……まつ毛、ずっと震えてるもん」
追い詰めるような囁き。逃げ場を失った私の耳たぶを、彼はわざとらしく、冷たい指先でピンと弾いた。
「……いいよ。寝たフリ続けたいなら、そのままにしてあげる。……その代わり、俺も好き勝手させてもらうから。……文句、ないよね?」
そう囁いた彼の唇が、私の首筋の、一番脈動が激しい場所に、吸い付くように押し当てられた。
柔らかな唇の感触と、その奥にある熱。
「……っ……、角名、せんぱ……」
ようやく絞り出した私の声は、震えていて、自分でも驚くほど弱々しい。
角名さんは私の首筋に顔を埋めたまま、クスクスと喉を鳴らして低く笑った。
「やっと呼んだ。……ねぇ、紬。君の心臓、今、俺のせいですごい速さで鳴ってるの、知ってる?」
彼は顔を上げると、今度は私の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
至近距離で見る彼の三白眼は、底知れない独占欲に満ちていて、私は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
「……俺のこと『尊敬する先輩』だなんて、もう二度と言わせないから。……分かった?」
攻略不可の先輩による、逃げ場のない「教育」。
部室という名の密室で、私は自分自身が、もう彼の巨大な掌から一歩も外へ出られないことを、その熱すぎる体温を通して分からされていた。