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◻︎沙智という女性
ナースステーションの前を通り、病室へ向かう。
夫と大輝は慣れた様子で病室へ向かった。
[田所沙智]という名前がかけられたドアの前で、私は立ち止まった。
勢いでここまで来たけど、入れるわけがない。
2人が中に入った。
私は廊下の突き当たりにある談話室というところに向かう。
___なんでこんなとこまでついてきちゃったんだろ?
自販機で紙パックのオレンジジュースを買った。
果汁100%、ただそれだけでカラダに良さそうな気がして。
まだ私の頭の中は、さっきの夫からの話が整理できていない。
大輝9才、ということは智之より一年早く生まれている。
だから、私の妊娠がわかったときも、思ったよりうれしそうじゃなかったのかと、今ならわかる。
___私が妊娠しなかったら、それを理由に離婚してたのかな?もしかして…
30分ほどして、夫が病室から出てくるのがわかった。
談話室のドアが開き、私がいることを確認すると私の前に座った。
「少し落ち着いたようだ。いまは大輝が付き添っている」
「ねぇ!あなたはさっきから、さも当たり前のように話すけど私にはなにがなんだかわからないんだけど?」
夫は喉が渇いたなと、コーヒーを買っている。
「いつ話そうかと考えていたところだった…」
「何を?不倫のことを子供のことを?」
「どちらのことも…」
「話してどうするつもりだったの?」
「……そこはまだ…」
ジュルジュルと音を立ててオレンジジュースを飲み干した。
「とにかく、説明して」
「わかった…」
大輝が生まれたことで、責任を取るべきだと思った夫は、私と離婚して結婚すると沙智に申し出た。
しかし、沙智は結婚どころか子どもの認知も必要ないと断った。
「“俺たち夫婦に横入りしたのは私だから”と、“子どもは自分1人で育てるから”と言い張った。それでも、どうしても子どもが欲しくて産んでくれと頼んだのは俺だし、離れることができなかった…」
「そうこうしてるうちに、智之が生まれたってことね」
「あぁ、うれしかったよ、もちろん!でも俺はどうしていいかますますわからなくなって…」
「で、ずるずるとこうなったわけ?」
「…いや、ホントはもっと早く決着をつけようと思ってたんだ。でも、沙智が病気になってしまって、入退院を繰り返して。そのたびに1人残される大輝を放っておけなくて」
そうだった。
私はまだ夫の長年の浮気相手に会っていない。
「その…沙智さんという人の病気はどうなの?」
「…もうあまり長くない…」
バッチーン!!
私は思いっきり夫の頬をひっぱたいた。
腰掛けていた椅子からよろめいた夫は、そのまま頬を押さえ俯いている。
「どっ、どうして…」
「えっ?」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったのっ?!こんなことになる前にもっと早く!憎たらしい浮気相手じゃないと困るのよ、私の怒りはどこへ向ければいいのよっ!」
病院の中だということを忘れて、思いっきり叫んだ。
談話室は、シーンと静まりかえっていた。
しばらくして、看護師さんがやってきた。
「意識が戻りましたよ、病室へどうぞ」
「わかりました、ありがとうございます」
夫は立ち上がって病室へ行こうとする。
「私、帰ります」
「…そうか」
「お大事に!」
何か言いたそうな夫を残して、私は病院の前でタクシーを拾った。
かろうじて、夫がいたアパートの名前を記憶していたのでなんとかそこまでは帰れた。
コインパーキングの自分の車に乗り、大きく息を吸った。
___結局私は、自分の気持ちを何一つ言えていないじゃないか…
ちゃんと自分の気持ちをご主人に伝えるんだよと、未希に言われていたことを思い出した。
一旦、帰ろう。
あまりのショックで、ぼーっと運転するのは危ない。
お気に入りの曲を流して、歌いながら帰った、ひまわり食堂まで。
「つまり、二つの家庭を持っていたということか、香織さんのご主人は」
ひまわり食堂に着くと、私は未希に一通りのことを話した。
「私と結婚して少ししてからだから、ほとんど同じ期間だし子どもは一年早いし…」
「それは、奥さんの立場としてはショックだね」
「もうなにがなんだか、どうしていいのか」
「ましてや、命に関わる病気だと、怒鳴り込むわけにもいかないしね」
「それが一番キツいんです、とんでもない悪い女なら、大暴れするつもりだったんだけど」
ガラガラと誰かが入ってきた。
「お母さん、晩ご飯一緒に…って、あ、お客さん?」
「うん、そう、ほら翔太の友達のとも君のお母さんだよ」
「とも君の?あ、美魔女さんか!ちゃんとお会いするのは初めてですね、翔太の母の綾菜です」
私は慌てて立ち上がった。
「いつも翔太君にはお世話になってます。先日も智之を助けてもらって、お母さんにはきちんとお礼もせずに、すみません」
「あー、学校抜け出した話?骨折してたんだって?痛かったよね?」
「そうなんです、私がいたらないばっかりに痛い思いをさせました。でも翔太君が連れて帰ってくれて、よかった」
「母親の私が言うのもなんですけどね、わりとしっかりしてるんですよ、父親がいない分僕が強くなるとか言ってるし」
「お父さん、いないんですか?あ、ごめんなさい」
「いいのいいの、離婚したのよ、たまに会ってるけどね」
そうだったんだ。
離婚なんて、よくある話だと思った。
ただ、自分が離婚することになるかと思うと、それは実感がわかないのだけど。
「大量にカレーを作ったの、とも君のお母さんも食べていって!」
持ってきた大鍋をコンロに乗せながら、綾菜が晩ご飯に誘ってくれた。