テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
2件
そして暗い部屋の中でヌードルをたべているこの俺。
夜更かししながら書いた夜更かししている中太を授業中に加筆修正したやつです(?)
午前二時。 この時間、ヨコハマの喧騒はとうに眠りにつき、窓の外には等間隔に並ぶ街灯が寂しげな光を投げかけているだけだ。しかし、中原中也のマンションの一室だけは、青白い光がリビングの壁を不規則に揺らしていた。 大型の液晶テレビに映し出されているのは、動画配信サービスの人気海外ドラマだ。爆発音や叫び声が、深夜の静寂に溶け込む程度の音量で流れている。
「……中也、次のエピソード、再生してもいいかな」
ソファの端に丸まっていた太宰治が、隣に座る中也の顔を伺うようにして呟いた。 その姿に、かつての最年少幹部としての威厳や、探偵社の名探偵としての鋭さはない。首元が伸びきったグレーのTシャツに、中也が「サイズが合わねェ」と言って放り出したゆったりとしたスウェットパンツ。寝癖で跳ねた髪をそのままにした太宰は、どこにでもいる、少し脱力した若者そのものだった。
「ああ。……明日、休みだしな」
中也が短く答えると、太宰はどこかホッとしたような顔でリモコンを操作した。 中也は、太宰のその「顔色を伺う癖」をよく知っている。 世間から見れば、太宰治という男は自信に満ち溢れた天才に見えるだろう。だが、こうして二人きりの生活を始めてから、中也は嫌というほど思い知らされた。この男は、自分に「愛される価値がある」ということを、未だに信じきれていないのだ。
「中也、ポテトチップス、まだある?」
「あァ、そこのカゴの中だ。……おい、あんまり食いすぎると、また明日『胃がムカムカする、中也のせいだ』とか抜かすんじゃねェぞ」
「ふふ、よく分かってるじゃないか」
太宰は袋の底に残った欠片を指で摘み、口に放り込む。パリパリという小さな音が、テレビの音に混ざる。 中也は、無造作に置かれていた大きなマグカップを手に取った。中にはキンキンに冷えた麦茶が入っている。それを一気に煽ると、喉を鳴らして一息ついた。
「……なぁ。カップヌードル、食うか」
「えっ、この時間に? 悪魔の誘いだね」
「食うなら半分こにしてやる。シーフードか、カレーか」
「……カレーがいいな」
中也は無言でソファから立ち上がり、キッチンへと向かった。 背後でドラマの続きが始まる音がする。中也は手慣れた動作で電気ケトルをセットし、カップ麺の蓋を開けた。 太宰は、自分から「何かをしてほしい」と強請ることは滅多にない。特に、自分自身の生存に関わる食事や体調管理については、どこか他人事のような冷めた態度を取る。だから中也は、彼が「食べたい」と口にする前に、あるいは「食べたい」とすら思っていない時に、こうして当たり前のこととして食事を差し出すようにしていた。 それは中也にとって、彼をこの世界に繋ぎ止めるための、ささやかな儀式のようなものだった。
やがて、カレーヌードルのスパイシーな香りがリビングに漂い始める。 中也がトレイに乗せて戻ると、太宰はソファの上で体育座りをして、期待に満ちた(しかしどこか申し訳なさそうな)瞳でこちらを見ていた。
「ほらよ。火傷すんじゃねェぞ」
「ありがとう、中也」
割り箸を割り、太宰が麺を啜る。 蒸気で少し曇った彼の瞳が、満足げに細められるのを見て、中也は自分の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 こういう時間が、かつての自分たちには、どれほど遠い奇跡だったか。 命を削り、誰かを蹴落とし、血の海を渡り歩いてきた二人が、今、深夜にカップ麺を分け合っている。その事実に、中也は深い安堵を覚える。
「……ねぇ、中也」
「あ?」
「君はさ。どうして、こんな退屈な男と一緒にいるんだい?」
不意に、太宰が麺を啜る手を止めて言った。 テレビの中では緊迫したシーンが続いているが、彼の声はそれとは無関係に、ひどく凪いでいた。 太宰の「自尊心の欠如」という持病が、深夜の静寂に触れて、また顔を出したのだ。
「死にたがりで、家事もしないし、仕事もサボってばかり。挙句、こんな夜中にカレーヌードルを食べたいなんて言い出す、ろくでなしなのに」
「……今更何言ってやがる。テメェがろくでなしなのは、出会った時から知ってるだろ」
中也は太宰の手からマグカップを取り、自分の飲みかけの麦茶を飲ませた。 太宰は大人しくそれに従い、少しだけ落ち着いたように息を吐く。
「俺は、テメェが『太宰治』だから一緒にいんだよ。仕事ができるとか、家事ができるとか、そんな下らねェ条件で選んでるわけじゃねェ」
「……でも、私には何もないよ。君を幸せにできるようなものは、何一つ」
「幸せかどうかなんて、俺が決めることだ。……俺が今、こうしてテメェとダラダラしてんのが一番マシな時間だと思ってんだから、それでいいだろ」
中也は太宰の細い肩を引き寄せ、自分に寄りかからせた。 太宰の体温は、少しだけ低い。だが、心臓の音は確かに、中也の腕の中でリズムを刻んでいた。 太宰は、中也の胸板に頭を預け、長い睫毛を伏せた。
「……中也は、ずるいな。そうやって、正論で私を追い詰める」
「追い詰めてねェよ。……ほら、麺が伸びるぞ。さっさと食え」
太宰は小さく笑い、再び麺を口にした。 今度の笑みは、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。 中也は、彼が自分自身の価値を信じられるようになるまで、何度でも、何年でも、こうして隣で「正論」を吐き続けてやろうと決めていた。彼が自分を愛せないのなら、その分まで自分が愛して、彼の「空洞」を埋めてやればいい。それは中也にとって、重力操作よりもずっと自然な、当たり前の感情だった。
ドラマは三話目に突入し、物語はクライマックスを迎えようとしていた。 だが、隣の太宰の頭が、カクン、と中也の肩に落ちる。 カレーヌードルは半分ほど残ったまま、太宰は深い眠りに落ちていた。ポテトチップスの欠片が、彼のスウェットの上に一つこぼれている。
「……おい、寝るならちゃんと布団で寝ろっての」
中也は苦笑しながら、テレビの音量をさらに絞った。 太宰の寝顔は、驚くほど無防備だ。この顔を、世界中の誰にも見せず、自分だけが独占できているという事実に、中也は奇妙な優越感を覚える。 彼は太宰を抱き上げようとして、思い直した。 今、ここで無理に起こして寝室へ連れて行くよりも、こうしてソファで、重なり合うように眠る方が、彼にとっては安心できるのかもしれない。
中也は近くにあった毛布を引き寄せ、二人を包むように掛けた。 太宰が寝言で、微かに中也の名前を呼んだような気がした。 中也は彼の額にかかった髪を指先で払い、そのこめかみに、音も立てずに唇を寄せた。
「……おやすみ、太宰」
明日は休日だ。 目が覚めるまで、誰にも邪魔されることはない。 昼過ぎまで眠り、太宰が「お腹が空いた」と文句を言うまで、こうして温もりを分け合っていればいい。 テレビから流れる、ドラマのエンディングテーマ。 青白い光が消えた真っ暗な部屋で、二人の呼吸だけが、重なり合って静かに響いていた。
平和な、どこまでも平和なヨコハマの夜。 かつての双黒は、今はただの、互いを必要とする二人の男として、深い眠りの中に沈んでいった。
窓の外では、少しずつ東の空が白み始めていた。 新しい一日が始まる。 それは、昨日と同じようでいて、昨日よりも少しだけ「自愛」に近い、太宰治にとっての新しい朝。 中也は、太宰を抱く腕の力を、ほんの少しだけ強めた。 逃がさない。 この温かな日常という名の檻から、彼を一生。
……幸せなんて言葉は、この二人の前では、少しばかり安っぽすぎるのかもしれない。 ただ、この深夜のカレーヌードルの匂いと、麦茶の冷たさと、重なり合う心臓の音。 それだけで、中原中也は、自分がこの世に生まれた意味を、十分に肯定できているのだった。