テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
※
翌日。
往診先に近づくと、家の前で立ち尽くす女性がいた。将臣を見つけた途端、走り寄ってきた。
「先生、早くきてっ! 旦那が怪我をして、血が止まらないの!」
将臣と凪は、急いで患者の元へと向かった。
家へ駆け込むと、居間には三十代ほどの大工が横たわっていた。
右腕を手拭いで押さえているが、手の隙間から、血が畳へ滴り落ちている。
「先生……やっちまった」
男性の額には脂汗が流れている。
妻らしき女性が泣きそうな声を上げた。
「作業中に古い板を剥がしたら……飛び出した釘で腕を裂いてしまって!」
将臣は一瞬で傷口へ視線を走らせる。
「凪、清潔な布を取ってくれっ」
「はい!」
凪は風呂敷から晒を取り出して手渡す。
将臣はそれで傷口を強く圧迫した。
「少し痛みます。我慢して」
傷口からなおも血が滲む。
将臣は冷静だった。傷の深さを確かめると水で洗い流し、ヨードチンキで消毒をした。
「っ……!」
男が歯を食いしばり、身体を震わせた。
凪は思わず息を飲む。
(こんなに深い傷、初めて見たわ……)
将臣は迷いなく針と糸を取り出した。
「縫合しますから、痛みます。無理はなさらず、声を出してください」
「へっ。これくらいなんてことないわっ」
男性は、苦しそうに強がった。
「では、始めます」
針先が皮膚へ入ると、ぷつり、と小さな音がした。糸が皮膚を引き寄せ、裂けた肉が少しずつ閉じていく。
男は苦痛に顔を歪め、唇を噛み締めた。
傷から視線を逸らさない将臣の額には、薄く汗が浮かぶ。
それでも指先は、一度も迷わなかった。
凪はその後で処置を見守る。
(命を助けるって……薬を作るだけじゃない)
(こんなにも苦しくて……こんなにも恐ろしいことなの?)
また針が通る。ぷつりと皮膚から音がして、血がじわっと染み出す。開いている傷口が、徐々に繋ぎ合わさっていく。
「うっ……つっ……」
部屋に男性の小さな呻き声が、響く。
その時、凪の視界がぐらりと揺れた。
(あ……目が)
次の瞬間、膝から力が抜けてしまった。
「凪⁉︎」
将臣に名を呼ばれて、はっと意識が戻った。
なんとか倒れないように、壁へ手をついた。そして、大きく息を吸って、浅くなった呼吸を整えた。
「……申し訳、ありません」
将臣は一瞬だけ凪を見た。
「無理をするな」
それだけ言うと、すぐ患者へ視線を戻す。
その短い一言が、不思議なくらい温かかった。
「こちらへ」
妻が心配そうに凪の手をとり、少し離れた場所へ身体を移してくれた。
最後の一針を結び終え、将臣は包帯を巻く。
「これで大丈夫でしょう」
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
男の妻がその場へ座り込み、何度も頭を下げる。
「ありがとうございました……先生、本当にありがとうございましたっ……!」
大工も青白い顔のまま笑った。
「先生のおかげで……腕は失わずに済んだ。ありがとう」
将臣は道具を静かに片づける。
「無理は禁物です。しばらく腕は使えません」
「はい」
「古い釘刺し傷で恐ろしいのは破傷風です。この後の熱や腫れには十分に注意してください」
部屋の端で息を整えていた凪が、静かに頭を下げる。
「処置の邪魔をしてしまいました。申し訳ございません」
指先がまだ、かすかに震えていた。
「いや。初めて見れば当然だ。気持ちの良い場面ではないのだから」
将臣は手際よく、器具を消毒していく。
「無理に慣れようとする必要はない」
「……はい」
将臣の声は淡々としているが、凪にはその不器用な言葉で胸の奥が軽くなった。
外へ出ると、近所の人たちが自然と集まっていた。
二人は目を丸くする。
「先生は命の恩人だな!」
「そうそう。軍のお医者様なのに、毎週こうして来てくださるんだから」
「本当は軍なんかじゃなく、この町のお医者様になってもらいたいよ」
次々と誰かがそう言うと、周囲も何度も頷いていた。
その言葉を聞いた将臣は、わずかに目を伏せる。ほんの一瞬だけ、胸の奥に何かを押し込めるように、小さく笑った。
「……買い被りすぎだ」
凪だけに届く、呟き声。
それはどこか寂しく聞こえた。
凪は将臣を囲む人々を見回した。
(皆がこんなに感謝しているというのに……)
再び、将臣を見つめる。
(どうして……そんなお顔をなさるのでしょう)
凪は胸の奥が静かに締めつけられた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!