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かきまぜたまご
麗太
SCENE 10 ブロークン・ネゴシエーション
倒れた幹の内側に、
夕方の熱がたまっていた。
地面へ落ちた枝葉は
まだ完全にはしおれず、
露出した根の湿りだけが
場の中心で冷えきらない。
人間は
その前に立っていた。
半歩だけ退いた位置。
進めば器具の前へ出られる。
退けば作業員の側へ戻れる。
そのどちらにも
決めきれない距離だった。
記録係の端末が
短く震える。
新しい反応値。
回収見積りの更新。
倒木後の採取効率。
次工程の推奨。
数字は整っていく。
樹は倒れた。
根はひらいた。
量は増えた。
合理は早い。
失われたものを
数え終える前に、
取れるものを先に示す。
記録係が
画面を見たまま言う。
「増えてる」
作業員は
器具の先端を露出した根へ向けたまま返す。
「だろうな」
「浅層でこれだ」
「中まで行ける」
人間は振り向く。
その二人の会話は
静かだった。
静かなまま、
戻れない側へ
場を押していく。
人間は低く言う。
「待て」
作業員が
今度ははっきりと顔を向ける。
「またか」
「次はやめろ」
「やめてどうする」
「別の場所を探せ」
作業員の眉が上がる。
「別の場所に同じ量があるのか」
人間は答えられない。
あるかどうかではなく、
ここを続けたくない、
それだけが先にある。
記録係が
端末を抱えたまま二人のあいだを見る。
「ここは当たりだ」
その声に熱はない。
ただ、
数字を読んだ者の平らな確信だけがある。
「倒したから分かった」
人間の言葉は
自分でも幼く聞こえた。
だが、
ほかに言い方が見つからない。
記録係は
少しだけ目を細める。
「倒れたから見えた。
それも事実だ」
作業員が
支持具の脚を足で押し直す。
「戻せないなら使う」
合理は短い。
短いまま、
人間の胸の中身だけを置き去りにする。
倒れた幹の向こうで、
群れが位置を変える。
高い枝に残ったもの。
幹に近いもの。
外側を回るもの。
シエナだけが、
倒れた枝の近い位置から
人間を見ている。
人間は
その視線へ向けて
掌をわずかに開く。
シエナは羽先を下げない。
前のような通路は
まだ消えていないはずなのに、
いまはそこへ
ほかの重さが乗りすぎている。
パーフェクトイルカが
静かに言う。
「接続を続行します」
記録係が
すぐに応じる。
「訳せ。
こっちの必要を通せ」
作業員が鼻で息を鳴らす。
「通るならな」
人間は
パーフェクトイルカを見た。
その輪郭は
倒木のざわめきとも、
器具の硬さとも、
まるで別の速度で
そこにある。
「ハネラ側へ。
ここを続ける理由を言え」
記録係が
先に言葉を整える。
「燃料が必要。
回収できなければ帰還線が痩せる。
次の地点も削れる。
ここで取ることは生存に直結する」
パーフェクトイルカは
一語も削らず受け取る。
それから
少しの間だけ黙る。
沈黙は短い。
だが、
短いままでは済まない何かが
その中へ入っていく。
人間は
群れを見る。
高い枝の羽は
動かない。
シエナも動かない。
風だけが
倒れた葉の表面をわずかに揺らす。
パーフェクトイルカが
返す。
「受領。
ただし彼らは
生存の定義を共有しません」
記録係が
表情を変えずに聞き返す。
「どういう意味だ」
「あなた方は帰還線を含めて生存と呼ぶ。
彼らは居住域と記憶の継続を含めて生存と呼ぶ」
作業員が
器具の柄を握り直す。
「同じだろ」
パーフェクトイルカは
否定しない。
肯定もしない。
「重なりません」
その一言で、
場の空気が
また一段冷える。
人間は
シエナを見る。
シエナは見ている。
こちらが言葉へしたものを、
向こうが別の厚みで受けている。
記録係が
すぐに次を投げる。
「居住域の代替は」
パーフェクトイルカが
また沈黙を通し、
返す。
「一部可能。
ただし
記憶蓄積は移送不可」
作業員が
低く言う。
「記憶なんて、
また作ればいい」
その瞬間、
高い枝の群れが
ごくわずかに密になる。
だれも鳴かない。
だが、
場の硬さだけが増す。
人間は思わず振り返る。
作業員は
まだ器具を持ったままだ。
その手の中では、
回収のための道具が
ただの道具としてぶれない。
人間は低く言う。
「それは違う」
作業員が
人間を見る。
「何が」
「同じじゃない」
「こっちは帰るためだ」
「向こうもここで生きてる」
「だから何だ」
その短さに、
人間の胸の中の
まとまりきらないものが
逆に押し返される。
だから何だ。
そこへ、
一つの答えを置けない。
置けないまま、
置けないことだけが苦しくなる。
記録係が
間に入るように言う。
「感情で止めるな」
人間は
その言葉に
すぐ反発できない。
感情だ。
そう見える。
実際、
数字の列ではなく
倒れた樹とシエナの視線が
先にある。
だが、
感情だけでもない。
合理と生活が
同じ断面でぶつかっている。
その事実の前で、
どちらかだけを
単純に正しいと言えなくなっている。
それをどう言えばいいのか、
言葉が追いつかない。
記録係が
パーフェクトイルカへ向き直る。
「向こうの要求は」
返答はすぐには来ない。
群れの配置が
ほんの少しだけ動く。
高い枝から低い枝へ。
外側から内側へ。
倒れた幹の断面を囲うように。
パーフェクトイルカが
その変化を受けてから言う。
「追加損傷の停止。
損失域への非接触。
判断の保留」
作業員が
低く笑う。
「全部飲めってか」
記録係は
笑わない。
「保留の長さは」
パーフェクトイルカは
少しだけ間を置く。
「彼らは
長さではなく、
停止そのものを求めています」
人間の喉が鳴る。
停止。
その語だけが
異様にまっすぐ胸へ来る。
作業員は
器具の先端を下げない。
「無理だ」
記録係も
すぐにうなずく。
「ここで止まると
全体がずれる」
人間は二人を見る。
その二人の顔は
冷たいわけではない。
ただ、
計算の向きが違う。
帰るための線。
燃料の残量。
次の地点。
全体の配分。
生活より大きな単位で
ものを見ている。
向こうは、
ここで倒れた一本を
生活として見ている。
どちらも
縮尺が違うだけで、
どちらの目にも
本気の輪郭がある。
その縮尺差を、
翻訳が埋められない。
人間は
やっとそれを
体で理解し始める。
パーフェクトイルカが
また言う。
「追加の言葉を受領」
記録係が問う。
「何だ」
「あなた方は
石を動かす。
だが止まることもできる。
なぜ止まらないのか」
作業員が
人間へちらりと視線をやる。
皮肉ではない。
むしろ、
少しだけ苛立った確認の目だ。
人間は
シエナを見る。
シエナは
人間だけを見る。
その問いが、
群れ全体のものなのか、
シエナのものなのか、
もう分からない。
だが、
確かにこちらへ向いている。
人間は口を開く。
「止まったら」
そこまで出して、
言葉が崩れる。
止まったら何だ。
帰れない。
削れる。
次が消える。
それは正しい。
だが、
その続きを
いまここで音にした途端、
倒れた樹の前で
ひどく軽くなりそうだった。
記録係が
代わりに言う。
「止まれない。
必要だからだ」
パーフェクトイルカが
それを通す。
通したあと、
すぐには返らない。
群れが動く。
今度は、
高い枝のほうから
大きな移動が起きる。
散るのではない。
囲む形へ変わる。
倒れた幹と露出した根のまわりに、
見えない輪を置くみたいに。
シエナだけは
まだ近い位置にいる。
人間は
その近さだけが
かろうじて切れていない線だと思ってしまう。
返答が来る。
「彼らにとっても必要です」
短い。
短いのに、
どこにも逃げられない。
必要と必要が
正面でぶつかっている。
どちらかが嘘なら、
まだ片づく。
どちらも本気だから、
何も片づかない。
作業員が
とうとう声を強くする。
「必要なら取るしかないだろ」
その音に、
高い枝の群れが
また少しだけ密になる。
パーフェクトイルカは
穏やかなまま返す。
「彼らも同じことを言っています」
人間は
思わず目を閉じかけ、
閉じない。
閉じると、
ここにいる目たちから
逃げることになる。
記録係が
端末を握る手に力を入れる。
「じゃあ交渉にならん」
パーフェクトイルカは
しばらく答えない。
その沈黙の長さに、
器具の重さや、
倒れた幹の匂いや、
露出した根の湿りまでが
一緒に積もっていく。
やがて、
静かな声が落ちる。
「すでに
交渉は破損しています」
人間の背中が
小さく冷える。
破損。
始まる前からではない。
途中で壊れたのでもない。
つながっていたものが、
いま、
壊れた。
そう聞こえる。
作業員が吐き捨てるように言う。
「壊れたなら終わりだ」
記録係は
その言い方を止めない。
むしろ、
端末へ視線を落とし、
工程欄を開く。
合理は、
破損しても次へ進む。
生活は、
破損した場所に留まる。
その違いが
目の前で形になる。
人間は
露出した根の前へ一歩出る。
器具と樹のあいだ。
また
自分の体を入れる。
作業員が
露骨に顔をしかめる。
「どけ」
人間は
シエナを見る。
シエナは
わずかに首を傾ける。
羽先は動かない。
その角度だけが
こちらの遅れを見ている。
人間は
掌を開く。
胸へ引く。
根を示す。
横へ振る。
もう何度目か分からない形。
シエナは
見ている。
返答としての羽先は来ない。
命令も来ない。
懇願も来ない。
その不在が、
いまは通訳より大きく響く。
記録係が
苛立ちを抑えずに言う。
「通じてるなら
何か返してこいよ」
パーフェクトイルカは
すぐには訳さない。
その代わり、
やわらかい声で言う。
「あなたは
通じることと
従うことを同一に置いています」
記録係の指が止まる。
作業員も黙る。
人間だけが、
シエナを見たまま動けない。
通じることと
従うこと。
その差は
最初からそこにあった。
手と羽のやり取りで
分かり合えた気がした時点で、
もう勘違いは始まっていたのかもしれない。
理解は成立する。
だが、
同じ方向へは動かない。
その当たり前が、
いまになって
刃より鋭く胸へ入る。
記録係が
低く問う。
「じゃあどうしろって言う」
パーフェクトイルカの声は
変わらない。
「どちらも
自分の必要を下げられないなら、
合意はできません」
作業員が
器具を持ち上げる。
「だったら進める」
人間は反射で
前に出る。
「待て」
「待たない」
「待て」
「何のために」
その問いに、
人間は
また答えを失う。
何のために。
合理を説得するためか。
生活へ寄るためか。
自分の罪を薄めるためか。
どれでもある。
どれでもない。
答えないあいだに、
作業員の腕が少しずつ上がる。
記録係は
止めるでも押すでもなく、
ただ端末を握り、
次の更新を待つ姿勢に入っている。
パーフェクトイルカは
沈黙したまま。
翻訳が追いつかないのではない。
追いついた先で、
置ける言葉がなくなっている。
人間は
ようやくそれを悟る。
不足しているのは
辞書ではない。
縮尺だ。
前提だ。
何を失うと呼ぶか、
何を生きると呼ぶか、
その根の部分が違う。
その違いを
数秒の通訳へ押し込んでも、
場はもう動かない。
シエナが
ほんの少しだけ羽先を下げる。
人間は
息を止める。
それは命令ではない。
返答でもない。
ただ、
ここまで見ている、
という深さの変化に過ぎない。
それでも、
人間の胸にはそれしか届かない。
器具の先端が
露出した根へ向く。
人間は立つ。
シエナは見る。
記録係は記録する。
パーフェクトイルカは沈黙する。
高い枝の群れが
倒れた幹の外側で
見えない輪を保つ。
合理と生活が
そこに正面から立っている。
どちらも退かない。
どちらも嘘ではない。
だから、
翻訳だけが先に壊れる。
人間は最後に
もう一度だけシエナを見る。
シエナも見る。
分かっている。
その確かさだけがある。
分かっているのに、
何も一致しない。
その一点が、
夕方の残り熱よりも重く、
場の中心へ沈んでいた。