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「真帆さん、こんちわ~」
夕方。例の如く、がらりと魔法百貨堂の引き戸を開けて店の中に一歩足を踏み入れると、
「――えぇっ!」
そこには黒い人影が立っていた。
犬みたいな唸り声をあげる、あの黒い人影だ。
な、なんでコイツがここにいるわけ?
「サ、サイナラ……!」
わたしは後ずさりしながら、もう一度ガラス戸を抜けて、店の外に出ようと試みる。
ゆっくり、ゆっくり、黒い影から視線を逸らさないように、遠ざかるように。
要はクマに出くわした時の対処法である。
これがこの黒い人影に効くのかはわからない。
黒い人影はくるりとわたしに身体を向ける。
背の高さはわたしとちょうど同じくらい。
グルグルグルと唸り声を漏らしながら、わたしが一歩後ろに足をやれば、一歩前に足を踏み出してくる。
ね、狙われてる?
ひぃっ! こわい! どうしたらいい? どうしたらいい?
わたしはまた一歩、後ろに足を引く。
同時に、黒い人影もまた一歩、私に向かって足を出した。
なんで? なんでこいつがここにいるわけ? あのお客さんをつけまわしていたんじゃないの?
「こ、来ないで――」
わたしは思わず、黒い人影に訴えていた。
もちろん、人影がわたしのいうことを聞くわけがない。
わたしが後ずさりすると、距離をあけることなく近づいてくる。
今はもう店の前のバラ園までわたしは下がっていて、黒い人影もガラス戸を抜け、店のすぐ前に突っ立っている。
このままこいつに背を向けて全速力で逃げ出すべきか、それとも大声を出して真帆さんに助けを求めるべきか。
――そういえば、真帆さんは?
店の中にコイツはいたのに、真帆さんは気付いていないのだろうか?
それとも、まさか、真帆さん、この黒い人影にもうとっくに襲われていて――
「――あら、茜ちゃん。いらっしゃい!」
上空から声が聞こえて仰ぎ見れば、そこにはホウキに腰かけて、今まさに地面に下り立とうとしている真帆さんの姿があったのだった。
ホウキの柄には、スーパーの店名が印字された、パンパンに膨れた白いビニール袋。
どうやら買い物に行っていたらしい。一応、ひと安心……?
真帆さんはわたしから視線を黒い人影に向けると、少し意地悪そうにニヤリと笑んだ。
「……思った通り、現れましたね」
とんっ、と真帆さんは地面に立つと、ホウキを右手に、ビニール袋を左手にして、わたしの前に仁王立ちになる。
助かったと思うのと同時に、真帆さんのその何ともいえない立ち姿に滑稽さを覚えなくもない。
と、そんなことは置いといて、
「ま、真帆さん、これどういうこと? なんでこいつがここに?」
「魔力に惹かれたからです」
「魔力に? あのお客さんのところから離れて?」
「そういうことになりますね」
「ど、どうするの? なんか、ずっと唸り声をあげてんだけど……!」
「たぶん、私たちの魔力を吸い取るつもりなんじゃないですか? まだまだ自分の魔力が足りないから人になれないんだと思っているんでしょう」
「な、なにそれ、どゆこと? 人になる? ってか、こいつってなんなわけ?」
「ドッペルゲンガーです」
「ど、ドッペルゲンガー? み、見たら死んじゃうお化けのこと?」
「お化けじゃありません、精霊です」
「せ、精霊? こ、こんなに禍々しいのに?」
「禍々しいなんて失礼ですよ、茜ちゃん」
「失礼って、真帆さんどっちの味方なのさ!」
「敵も味方もありません、この方はドッペルゲンガー……と、私たち魔法使いが呼んでいる、ただのそういう存在でしかないんです」
「いってる意味がわかんない! どっちにしても、わたしや真帆さんの魔力を吸い取るって時点で悪意満々じゃん!」
「悪意じゃありませんよ、本能です」
「そんなんどうだっていいよ! 早くなんとかしてよ!」
「あらあら、どうにかするのは茜ちゃんの仕事ですよ?」
「な、なんで!」
「いったじゃないですか」
真帆さんは私ににっこりと微笑んで、
「この件は、茜ちゃんにちょうどいい案件だって」
「そ、そんなこといわれたって!」
「ほらほら、茜ちゃん、前に出て、前に」
真帆さんはへっぴり腰のわたしのお尻をぽんぽん叩き、無理やりドッペルゲンガーの前に立たせやがる。
「ひ、ひいぃ! こわい!」
「大丈夫ですって! 目を逸らさないで、よく見てください!」
「み、見たら死んじゃうんじゃないの?」
「死にませんよ。むしろ目を離すと隙をついて、茜ちゃんの魔力を吸い取ってきますよ?」
「す、吸い取られるとどうなるの?」
「死にます」
「ひいいい!」
やっぱり死ぬんじゃん!
真帆さんの袖をぎゅっと掴めば、
「嘘です。死にません」
「真帆さん! こんな時にふざけないで!」
「あっははは!」
真帆さんは腹を抱えるように笑ったあと、
「ごめんなさい。あまりにも茜ちゃんが怖がるので、ついつい」
こんにゃろ~!
「け、結局どうしたらいいの!」
「まずドッペルゲンガーをじっと見つめ返してください」
「い、いわれなくても見つめてる! 次は!」
「そうですねぇ…… では、可愛い犬を想像してください」
「い、犬?」
「犬でなくてもいいですよ。とにかく、茜ちゃんの想像できるはっきりとしたものを想像するんです」
「な、なんでもいいってこと?」
「なるべく無害なもののほうがいいですね」
「む、無害なものね。わ、わかった、やってみる」
わたしはドッペルゲンガーを睨みつけるように見つめたまま、心の中で必死に無害なものを想像する。
無害なもの、無害なモノ、無害な物、無害な者――
わたしがそれを想像すると、次第に黒い人影がはっきりとした形を成し始めた。
それは徐々に徐々に輪郭を持ち、手足が見え、胴体が現れ、そして顔が見えた。
次第にピントが合っていく、と表現するのが一番しっくりくるかもしれない。
その姿は、いつもわたしが見ている人の形となる。
――わたしの彼氏、神楽夢矢くんだ。
ドッペルゲンガーの姿が、夢矢くんの顔で、制服姿で、そこに突っ立っているのである。
「……え、えぇっ、なに、これ」
「おめでとうございます! 茜ちゃん、ドッペルゲンガーを手に入れましたね!」
「て、手に入れた? どういうこと?」
「いったでしょう、ドッペルゲンガーは精霊だって。私たち魔法使いが使役する、あるいは力を借りる魔力的な存在です!」
「つ、つまり?」
「これで茜ちゃんは、このドッペルゲンガーさんを使役することができるってことですね!」
「わ、わたしが、こいつを……?」
わたしの目の前に立つ夢矢くんは、きょとんとした表情で、小さく首を傾げている。
……どこからどう見ても夢矢くんにしか見えないけれど、間違いなく、コイツはさっきまで黒い影の形でそこにいたのだ。
にわかには信じがたいことだった。
わたしが、ドッペルゲンガーを、使役する?
「こ、これからどうしたらいいの、真帆さん」
「とりあえず、自分の影の中に入っててもらえばいいと思いますよ。必要になったときに呼びかければ、色々手伝ってくれると思います」
「て、手伝う?」
「ほら、いわゆるコピーロボットですよ。喋れはしませんけど、色んな人や物の形になってくれます」
「それってつまり――例えば、部屋の中にわたしの姿で机に向かわせて勉強してるふりをさせておけば、わたし自身はどこへでも遊びに行けるってこと?」
「そうですけど……」
真帆さんは軽く失笑してから、
「茜ちゃんも、私が初めてドッペルゲンガーさんを使役できるようになったときと同じことを考えるんですね」
「そりゃまぁ、コピーロボットなんていわれたらさぁ」
学生の考えることなんて、みんな一緒でしょーよ。
それはそれとして、
「えっと、じゃぁ……わたしの影に入ってて」
わたしがそう口にすると、にゅるりとその姿を闇に溶かしたドッペルゲンガーが、私の影の中へとまるで動くスライムのように消えていった。
……な、なんかちょっと、なんともいえない。
「よかったですね、これでできることがひとつ増えましたよ、茜ちゃん」
パチパチパチ、とホウキとビニール袋を手にしたまま、真帆さんは軽く両手を叩いた。
「で、でも、どうしてこの店に? あのお客さんは?」
すると真帆さんはにやりと笑んで、
「それはですねぇ――あぁっ!」
慌てたように眼を見張る。
「え、なになに?」
真帆さんは、ビニール袋に顔を向けながら、
「大変! 冷凍食品とアイスが溶けちゃう! 茜ちゃん、詳しい話はあとにしましょう! 早く冷蔵庫に入れないと!」
いうが早いか、真帆さんはたったったと小走りに、開けっ放しになったガラス戸の方へと駆けていった。
「あ、ちょっと、真帆さん!」
わたしもそんな真帆さんのあとを追って、お店の中へ小走りに駆けた。
わたしの影が、わたしの動きに少し遅れるように、わたしについてくるのを横目に見ながら。
……ふたりめ、おしまい。さんにんめにつづく。
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