突き指しそうな勢いで手を自分の背に回す。
眼前の行人も大きく目を見開いて、我に返ったという表情。
「で、出なよ?」
「えっ?」
「行人の携帯じゃないの?」
「えっ……あっ!」
床に置かれた鞄が、音の出処に違いなかった。
その音は、さっき絶望の中で聞いたスマートフォンのバイブ音に他ならない。
音の長さから通話であるのは間違いなく、画面には今は思い出したくないあの名前が出ているに違いない。
珍しいことに、行人が現実に戻りきっていないという表情でキョロキョロとしているうちに音は途切れた。
少し迷う素振りはうかがえるが、彼はその場を動く様子はない。
「い、いいの?」
「うん……」
小さく頷くその表情は穏やかで、優しい。
星歌は焦った。
「い、いいんだよ? お姉ちゃんのことは気にしなくて。折り返したらどう?」
──私より大切な相手なんでしょう、という言葉がどうしても口から出てこない。
「………………」
「行人?」
彼の手が、そっと星歌の爪に触れた。
大きな手の平が、さきほどのようにスルスルと星歌の指先を包み込む。
そのまま手を持ち上げて、祈るような動きで行人は彼女の人差し指に唇を寄せた。
「俺は星歌を姉だなんて思ったことないよ?」
身体の先端に、柔らかな感触。
星歌はパクパクと口を動かした。
何か言わなきゃという思いが、しかし見事にカラ回る。
腹に呑みこんだ言葉が、ズシリと重量を増すようで。
「そ、それは……傷つくかな。頼りないお姉ちゃんってのは分かってるけどもね」
軽口で己の感情を誤魔化すので精いっぱい。
「でもやっぱりおねえちゃんはおねえちゃんなんだしつまりそのそんちょう」
「ん?」
「でっ、でもっ! やっぱり、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだし、尊重っていうか……あっ」
指の先に触れている柔らかな肉に、湿り気を感じて彼女は小さく小さく声をあげた。
行人の唇が軽く音を立てて、星歌の人差し指を吸ったのだ。
まるで魅入られたよう。艶やかに濡れたその場所に視線を囚われる。
次いで、驚愕を表すように震わせた瞳は義弟に注がれた。
行人の伏せられた睫毛がゆっくりと震える。
彼の黒目が移動する──星歌の指、腕、肩、首、唇、そして眼に。
「星歌……」
行人が口を開きかけたと同時に、星歌の呪縛が解けた。
硬直していた身体がぎこちない動きで、しかし素早く一歩後ずさる。
この瞬間、彼女の全身を覆っていたのは戸惑いよりも恐怖の感情。
義弟は優しかった。
彼女がなにを言っても「ハイハイ」と聞いてくれる、まるで頼れる保護者のような存在だった。
今だって彼は多分、優しい──でも、何かが違う。
「ゆきと……?」
絞り出した声は、哀れなくらい震えていた。
だから、彼女は気付かなかったのだ。
義弟の唇が、彼女の心と同じくらい震えを帯びていることに。
「言ったよね。俺は、星歌をお姉ちゃんなんて思ったことないって。意味、分かるよね?」
囁き声が耳元に近づき、星歌は固く目を瞑った。
それはまるで愛のことばに聞こえて、脳が勘違いしそうになる。
チガウ──必死になって心に囁き続ける言葉はその三文字だけ。
「でも、でも……私にとって、行人は弟なんだよ……っ」
「星歌?」
「バカなこと言わないでよ。行人は私の弟。本当の姉弟じゃないけど、でも……でも、私の弟なんだよっ?」
「………………」
頬に触れるくらい近づいていた温かな息が、離れる。
背を向けた行人の傍らで、冷たい空気に包まれるように星歌は立ち尽くしていた。
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