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Side深澤
昼休み、教室の隅。
いつもどおりの昼食風景。俺の机の上には、購買で買った焼きそばパンと照がくれた紙パックのいちごオレ。
「なあふっか、それ、またいちご?」
「うん。俺これ好きなんだよね」
「ガキじゃん」
「うるせーな。お前こそまた牛乳かよ。骨太か」
笑いながら何気ないやりとり。
机をくっつけてパンをかじってる俺たちに、斜め前の席から近藤がぽつりとつぶやいた。
「なんかさ……お前らって、夫婦みたいだよな」
「ぶ、夫婦?」思わず変な声が出た。
照も口にしてたサンドイッチを止めて、「は?」って顔で近藤を見た。
「いや、なんか……弁当分け合ったり、他人の飲み物勝手に飲んでたり、言わなくても通じてる感あるし。つか、深澤が箸で取った唐揚げを岩本が普通に口開けて受け取ってる時点で、な?」
「……ああ、それな。あいつ冷める前に食わせてくんないと文句言うからさ」
「照、食いもんに関してはガチでうるせぇからな」
俺は笑って返したけど、なんか胸の奥がチクっとした。
照は何も言わずにまたサンドイッチに戻ってたけど、その目は少し泳いでるように見えた。
近藤は、知らない。
俺と照が付き合ってるってことを。
半年。周囲には黙ってきた。なんとなく、言い出すタイミングがなかっただけで。
「夫婦みたい」──たぶんそれは、いい意味だったんだろう。
けど、言われた瞬間、心のどっかに引っかかった。
俺たち、そんなに“落ち着ききってる”のか?
「付き合ってる感」なんて、もうないのか?
隣にいるのに、なんでこんなに不安になるんだろう。
―――昼休みが終わっても、なんとなく近藤の「夫婦みたい」って言葉が頭から離れなかった。
そのまま午後の授業をぼんやり過ごして、放課後、窓際の席でカバンを片付けながらふと考える。
──そういや、最後に喧嘩したのって、いつだっけ。
たぶん、ない。
付き合い始めて半年、記憶にある限り一度も言い合いになったことがない。
あまりにも自然すぎて、
一緒にいるのが当たり前になりすぎて、
なんか“恋人”っていうより、ほんとに“生活の延長”って感じだった。
……でも、付き合ったきっかけは、ちゃんとあったんだ。
思い出すのは、去年の冬。
校舎裏の自販機の前、寒さで手をこすりながら、照がぽつりと言った。
『……ふっかって、なんか、落ち着く』
そう言って、俺が持ってたホットココアを奪っていった。
その時、なんとなく「じゃあ付き合う?」って言ったら、照はびっくりした顔して──それから、笑った。
『いいよ』って。
なんか、拍子抜けするくらいあっさりだったけど、でも、うれしかった。
だって俺は、それよりずっと前から照のこと、気になってたから。
最初のころは照の笑顔にドキッとしたし、登下校が一緒ってだけで舞い上がってたのに。
いつの間にか、それが“普通”になって、
気づけば、ドキドキよりも“安心感”のほうが勝ってて。
……これって、恋人同士としては正しいんだろうか。
俺は、照のことが好きだ。
でも、あいつの中にも“好き”って気持ち、まだあるのかな。
言葉にされない不安が、静かに胸に広がっていく。
──あれ。そういえば。
「好き」って。
照から、言われたこと……あったか?
思い返す。付き合い始めてからの半年。
確かに、隣にいる時間は増えた。
一緒にコンビニ寄って、お互いの家に上がり込んで、テスト前は勉強したり、気づけば普通にどっちかが作った飯を並んで食ってたり。
でも──そういう“近さ”の中に、「好き」って言葉はなかった気がする。
もちろん嫌われてるとは思わない。
むしろ信頼されてるとは思う。
だけどそれは、“恋人”だからなのか、“ただ気の合う友達”でも成立する関係なのか、今になってわからなくなってきた。
……てか、俺も。言ってない。
「好きだよ」なんて、恥ずかしくて。
言わなくても伝わってるって、どこかで思い込んでた。
でも、ほんとは違うのかもしれない。
伝えてなかったのかもしれない。
伝わってなかったのかもしれない。
「俺たち、ちゃんと……“恋人”なんだよな?」
誰にも聞こえないように、心の中で呟く。
けどその言葉は、自分自身への問いかけにしかならなかった。
まるで、足元がちょっとずつ揺らいでるような、そんな感覚だった。
―――――――――――
「なあ、阿部ちゃん……俺って、恋人っぽく見える?」
放課後、校舎裏のベンチ。
指定図書の返却ついでに捕まえた阿部ちゃんに、唐突にそんなことを聞いていた。
「は?」
「いや、あの……俺と照、さ。最近、周りに“夫婦みたい”って言われてさ……それってどう思う?」
阿部ちゃんは持っていた文庫本をパタンと閉じて、眉をひそめる。
「それ、深澤が気にするタイプだったんだ?」
「……気にしてねぇし」
「いや気にしてんじゃん。だって今わざわざ俺に聞いてきたし」
「……はい、すんません」
頭を掻いて苦笑いすると、阿部ちゃんはちょっと楽しそうに笑った。
「まあでも、落ち着いて見えるってことじゃないの? 付き合ってる感があるっていうか。
逆に、“ザ・恋人!”みたいにベタベタしてたら、今ごろみんなにドン引きされてるよ」
「……そりゃそうだけどさぁ」
「なんかあったの?照と」
「いや……別に、喧嘩したわけじゃない。けど、なんか……“恋人感”がないっていうか」
「一緒にいるのが当たり前すぎる感じ?」
「そう。しかも、ふと気づいたんだけど……好きって、言われたことないかもしんない」
阿部ちゃんはちょっとだけ驚いた顔をして、それから肩をすくめた。
「でも、言葉がすべてじゃないと思うけどな。照ってそういうの口に出すタイプじゃないでしょ」
「それはわかってんだけどさ。俺も言ったことねぇし。だからこそ……“これって、本当に恋人?”って思えてきてさ」
「……うーん。じゃあさ、言わせてみたら?」
「は?」
「“俺のこと好き?”って聞いてみるとか。言わせたらいいじゃん。それか、“俺はお前のこと好きだぞ”って先に言ってやるとか。大事だよ、そういうの」
「言えるかよ、そんなん……」
「だからモヤモヤしてんじゃん」
「…………うるせぇ」
図星を突かれて、思わずため息が漏れる。
阿部ちゃんの言ってることは正論だし、間違ってない。
だけど……なんか、どれもしっくりこない。
“言葉にして確認しないと不安になるような関係”って、なんか違う気がして。
でも、何も言葉がないのも、それはそれで不安で。
堂々巡りの思考に、ますますモヤモヤが募るばかりだった。
「ま、いざとなったら相談乗るよ。俺、恋愛相談得意なんで」
「……信頼していいのかわかんねぇな」
「ひどっ」
そんなふうに笑い合ってても、心のどこかが晴れないまま。
帰り道、いつものLINE通知を見ても、
照の名前に、ほんの少しだけ指が止まってしまう自分がいた。
阿部ちゃんと別れて校門を出ると、ちょうど自転車置き場の前で照がこっちに手を振ってた。
「遅っ。何してた?」
「阿部ちゃんとちょっと……話してただけ」
並んで歩き出す。駅まではいつものルート。
何気ない会話が始まるはずだった。
けど、俺の中では、もう収まりきらなかった。
阿部ちゃんのアドバイスも、考えすぎだって自分に言い聞かせたことも、全部──照の無邪気な顔を見るたび、かき消されていく。
言ってくれたらいいのに。
好きだって、たった一言。
それだけで俺は、安心できるのに。
沈黙が続いた。
照がちらっと俺を見る。
「……なに? 今日、機嫌悪い?」
「……悪くない」
「嘘だな、それ。顔に書いてある」
少し歩みが遅れた。
気づいたら、つい口にしていた。
「なあ……俺たちってさ……ほんとに、付き合ってるんだよな?」
照は足を止めて、目を丸くする。
「……は? なに急に」
「いや、だって、さ。最近ずっと思ってたんだよ。なんかさ、“付き合ってる感”っていうか……そういうの、ないような気がして」
「……」
「ケンカもないし、イチャイチャとかも、ないし。お前、俺のこと……好きなんだよな?」
「……なにそれ。急にどうした」
「そ、それに……その……」
言葉が喉に詰まる。でも、止められなかった。
「“好き”とか……言われたこともない、し」
一瞬の沈黙。
照の目が少し見開かれて、そのあと、ふっと伏せられる。
「……言わなくても、伝わってると思ってた」
「……俺には、伝わんなかった」
返ってきた声は、思ったより小さくて、自分でも驚いた。
でも、その声には間違いなく、“寂しさ”が混じっていた。
照が一瞬だけ口を開きかけたけど、すぐに閉じる。
代わりに出てきたのは、少し棘のある声だった。
「……じゃあ何? “好き”って言わなきゃダメだったの? 毎回確認しなきゃ不安になるわけ?」
「……そういうことじゃねぇよ」
「じゃあ何なんだよ。俺はお前と一緒にいて楽しいし、落ち着くし、安心する。それじゃ足りないのかよ」
「足りねぇよ!」
思わず声が上ずる。
照がびくっと肩を揺らしたのが見えた。
「俺だって、お前といるのは好きだよ。楽しいし、居心地もいい。けどそれだけじゃ、ほんとに“恋人”でいられてるのか、不安になるんだよ」
「……」
「お前、俺のこと“好き”って……一回も言ってねぇじゃん。“付き合おう”ってなった時も、流れって感じだったし。たまにはさ、言葉にしてくれたっていいだろ!」
「……お前だって言ってないくせに」
「俺は、ずっと言いたかったよ。けど、言ってこないお前に、言うのが怖かったんだよ!」
照が言葉に詰まる。
夕焼けが、背中に影を落とす。
聞こえるのは、少し荒くなった呼吸と、通りを走る自転車の音だけ。
「……なあ照。俺たちってさ、本当にちゃんと恋人だったのかな」
気づけば、問いかけるように呟いてた。
その言葉に、照ははっきり顔をしかめて、吐き捨てるように言った。
「だった、じゃねぇだろ。まだ終わってねぇし」
「……わかんねぇよ、もう」
言い終わると同時に、胸がキュッと締め付けられた。
自分で言っておいて、こんなに苦しくなるなんて思ってなかった。
だけど、それでも、黙ってるのがもう無理だった。
このまま何も言わなかったら、どんどん“当たり前”になって、
いつか“ただの友達”になってしまいそうで──それが怖かった。
でも、言葉にした途端、
返ってくる照の無言が、こんなにもしんどいなんて、思ってなかった。
俯いたまま、照は何も言わなかった。
唇を噛んで、拳をぎゅっと握りしめて、
でもそのまま時間だけが流れていく。
それが、答えなんだろうか。
だったら、もう……この場にいる意味なんてない。
「……悪ぃ。今日は先、帰るわ」
できるだけ何でもないみたいに言って、背を向けた。
「ふっか──」
照の声が追いかけてきたけど、振り返れなかった。
もしあのとき、振り向いたら、
引き止めてくれるんじゃないかって期待してしまいそうで。
「……じゃあな」
言い終わってから、小さく息を吐く。
足早に歩きながら、肩にかかる夕日がやけにまぶしかった。
ほんとはもっと話したかった。
ほんとは、ただ“好きだ”って言ってほしかっただけなのに。
──どうして、こんなふうになったんだろう。
自分でもわからないまま、足音だけが冷たいアスファルトに響いていた。
――――――――――――
朝のHRが始まってすぐ。
担任の佐藤先生が、プリントを配る手を止めて、ふと顔を上げた。
「それともう一つ連絡。岩本くん、今日お休みです。昨日、帰り道でちょっとした事故に遭って、今は病院にいます。命に別状はないので安心してください。ご家族と連絡は取れてます。しばらくはお休みになるかもしれません」
その一言に、教室がざわついた。
「え、マジで?」
「大丈夫なんかな」
「てかどこで?」
誰かがそう口にしたとき、俺の中で“ざわつき”が波のように広がっていった。
──昨日、帰り道で。
先生は確かにそう言った。
それってつまり──
俺が、あいつにあんなことをぶつけて、
何も聞かずに背を向けて、
一人で帰らせた……あの直後。
机の上に置いたペンが、カタ、と音を立てて転がる。
拾いもせずに、ただ視線を落としたまま動けなかった。
“命に別状はない”って言葉は、ちゃんと耳に入ってる。
だけど、それだけじゃ足りなかった。
頭のどこかでずっと叫んでる。
──なんで、あのとき引き返さなかったんだ。
──なんで、あんな言い方しかできなかったんだ。
こめかみにじっとり汗が滲む。
心臓が、さっきから変なリズムで脈打ってる。
照が……事故?
ほんの数時間前まで隣にいたのに。
怒った顔、困った顔、全部、俺の中には昨日のまま残ってるのに。
それが──
あの瞬間で途切れてしまってたなんて。
俺が最後に見た照の顔は、
なにも言えずに黙り込んだままの、あの顔で──
ぐちゃぐちゃに混ざり合う後悔と不安に、胸の奥がキリキリと痛んだ。
気づいたら、教室を飛び出していた。
スマホで病院の場所を確認して、電車を乗り継ぎ、今は最寄り駅から早歩きで坂を登ってる。
急いでいるはずなのに、足が重い。
照が事故ったって聞いた瞬間、頭が真っ白になって、
それと同時に、昨日の自分の声が何度も何度も頭の中でリピートされていた。
──“そ、それに……好きとか言われたこともない、し”
なんで、あんな言い方したんだろう。
あのとき、照は何も言い返せなかった。
それはきっと──言葉に詰まるほど、傷つけたからなんだ。
“言ってくれない”って、勝手に責めて、
“足りない”って、勝手に物差しを突きつけて、
一番そばにいたくせに、全然わかってやれてなかった。
もしかして俺、
──高望みしてたのかな。
当たり前みたいに毎日隣にいてくれて、
なんでもない話で笑って、
唐揚げを取り合って、時々うたた寝して。
それだけでも、十分だったはずなのに。
“好き”って言葉にしなきゃ、
“恋人っぽくなきゃ”って、思い詰めたのは、俺のほうじゃなかったか。
言葉にされない想いだって、あったのかもしれない。
でも俺はそれを見ようとしなかった。
怖かったから。
不安になって、聞いて、傷ついて、
勝手に背中を向けたのは俺だ。
……これって、
照の記憶から俺がいなくなったのって、
俺の言葉のせいなんじゃないか。
──これが、欲張った罰なんだとしたら、
俺は、許されないかもしれない。
手のひらにじんわりと汗が滲んでくる。
靴の音だけが無機質に響く坂道で、俺は今、自分の過去に踏み込まれていく気がしていた。
―――――病院の受付で名前を告げると、案内されたのは三階の個室だった。
ドアの前に立って、軽くノックをする。返事はない。
でも、看護師さんに「起きてますよ」と言われたから、意を決してドアを開けた。
「……よ」
カーテンの奥。
病院のパジャマ姿でベッドにもたれかかっていた照が、こちらを向く。
会った瞬間、胸が締めつけられる。
どこもかしこも無事じゃなかったらどうしようって思ってたけど、
ちゃんと動いてる。顔色も思ったより悪くない。
ホッとした──その直後。
「……誰?」
ぽつりと、照が言った。
笑いながら冗談を言うような口調じゃない。
ほんの少しだけ目を細めて、訝しむような顔。
でも、そこに“俺を知ってる人間の目”はなかった。
「……え?」
声が出るのに少し間がかかった。
それくらい、想像していた中でも一番信じたくない展開だった。
「ごめん……誰? 先生? それとも、見舞いに来た友達?」
「……ふっか、だよ。深〇……辰〇」
「……」
沈黙。
照の目が、どこか遠くをさまようみたいに泳いでいた。
ああ、そうか。
わからないのか──俺が、誰か。
──記憶が…ない?。
名前を名乗っても、表情は変わらなかった。
俺の声も、俺の顔も、照の中には何一つ、残っていない。
その事実が、胸のど真ん中に突き刺さる。
昨日、あんなふうに背中を向けなければ。
あと一歩だけ、勇気を出せていたら。
ぐるぐると悔いが渦を巻いても、どうしようもなかった。
──これが、
本当の罰なのかもしれない。
“好き”の一言を求めた俺に、
返ってきたのは「誰?」というたった二文字。
言葉は刃にもなるって、きっとこういうことなんだ。
崩れ落ちそうな心を必死で支えながら、俺は、ぎこちない笑みを浮かべてみせる。
でも、照の瞳はただただ、不思議そうに俺を見ているだけだった。
何をどう返せばいいのか分からず、気まずい沈黙が流れる。
そんな時だった。
「失礼しまーす」
ノックもそこそこに、病室のドアが開いた。
思わず振り返る。
白いブラウスにベージュのロングスカート。少し年上に見える、見覚えのない女が花束を抱えて立っていた。
「あ、起きてたんだ。よかった……」
「……え?」
戸惑う照をよそに、女は微笑みながらベッドに近づくと、俺を一瞥した。
「えっと……あなたは?」
「あ……俺は、その……」
「岩本くんの彼女です。すみません、ちょっと席、外してもらってもいいですか?」
その言葉があまりに自然で、あまりにさらっとしていて、
俺は、返事すらできなかった。
「……彼女?」
呟いたのは照本人だった。
混乱している様子。だが、それでも、女の存在を完全には否定しない。
「びっくりしたでしょ。でも、お医者さんに聞いてすぐ来たの。照くん、私のこと……まだ思い出せないかな?」
女が花束を机に置きながら、優しく語りかける。
その光景が、まるで“俺の知らない照”の世界のようで、
足元から冷たい何かに飲み込まれていく気がした。
「……わざわざ来てくれたの?本当にありがとう。お友達……なんですよね?」
「……あ、ああ……」
友達。
たしかにそう見えるんだろう。
俺も、何も言わなければ、ただのクラスメイトだ。
でも本当は──違った。
俺は、照の“恋人”だった。
……はずだった。
でも、照の記憶から俺は消えて、
今、あいつの隣には“彼女”を名乗る女が座ってる。
何がどうなってるのか、分からない。
嘘かもしれない。
でも、照が否定しなければ、それが“今の真実”になってしまう。
「……じゃあ、俺、行くわ」
やっとの思いで言葉を絞り出し、
振り返る前に、照の顔をちらりと見る。
不安そうな顔。
俺に向けられているけど、それは“友達”に対するものだ。
“恋人”への眼差しじゃない。
──もう、どこにも俺の居場所はなかった。
ドアの向こうに出た瞬間、肺の奥まで冷たい空気が流れ込んできた。
けど、それでも涙は流れなかった。
その代わり、心の奥で何かがゆっくりと、音もなく崩れていくのがわかった。
病院の門を出た途端、足が止まった。
目の前の道路を行き交う車の音、
隣を通り過ぎる人の気配、
全部が、別の世界の出来事みたいだった。
ポケットの中のスマホが重い。
連絡先の一番上にある“照”という名前が、今はただの文字列にしか見えなかった。
ゆっくり歩き出す。
足取りは重くて、地面を踏むたびに心臓まで沈んでいく気がした。
──記憶喪失。
──彼女を名乗る女。
そんな、ドラマみたいなことが現実に起きるなんて。
……訳がわからない。
混乱しすぎて、何も整理できない。
さっきまで隣にいた人が、自分を「誰?」って言う。
それだけでもう、心がどうにかなりそうだったのに──
そこに“彼女”なんて単語を重ねられたら、もう、どうしていいかわからなかった。
好きって、言ってほしかっただけなのに。
たった一言でよかった。
そんなに、重いことだったのかな。
そんなに、いけないことだったんだろうか。
自分が、間違ってたのか?
自分のほうが、照を苦しめてたのか?
わかんないよ。
何が正しくて、何が悪かったのか──
肩をすくめた拍子に、視界が滲んだ。
気づいたら、頬に熱いものが伝っていた。
こんなところで泣きたくなんかないのに。
でも、もう止められなかった。
「……罪が……重すぎるよ……」
声にならない声が漏れる。
震えたまま、両手で顔を覆った。
どうして、こんなことになったんだ。
俺は、ただ──
「……好き、って……言ってほしかっただけ、なのに……」
しゃくりあげる声を誰にも聞かれたくなくて、
通りの隅に腰を下ろして、ただひとり、泣いた。
涙はいつまでも止まらなかった。
泣きながら何度も同じことを心の中で繰り返す。
──神様がいるなら、どうか……
このまま、溶けてなくなりたいです。
夜の街は、やけに静かだった。
俺の存在なんて、もともとこの世界に必要なかったみたいに、
冷たく、優しく、全てを飲み込んでいった。
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