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『主様であれない主様』
第2話 主様ではない?
朝は、静かに始まった。
昨日の空気が嘘みたいに、屋敷はいつも通りに動いている。
廊下を歩きながら、律は小さく息を吐いた。
「……」
考えないようにしていた。
主様とは何か。命令とは何か。
考えれば、また止まってしまう気がしたから。
⸻
食堂に入ると、既に数人の執事が揃っていた。
「おはようございます、主様」
ベリアンが穏やかに頭を下げる。
「……おはようございます」
ぎこちなく返す。
視線が集まる。
昨日と同じだ。
違うのは――少しだけ、距離があること。
⸻
「本日の業務についてですが」
ハウレスが切り出す。
「主様のご指示を――」
言いかけたところで、止まる。
律が、先に口を開いたからだ。
「……今日の清掃は、東側を優先してください」
一瞬、全員が固まる。
「昨晩、風が強かったので……窓周りの汚れが多いはずです」
淡々と続ける。
「調理は仕込みを少し前倒しに。昼の来客が増える可能性があります」
ロノが目を見開く。
「え、なんで分かんすか」
「……雰囲気が…少し変わっていたので」
それ以上は言わない。
自然に言葉が出ていた。
考えるより先に、体が動くように。
⸻
沈黙。
ほんの数秒。
「……承知しました」
最初に動いたのはハウレスだった。
だが、その声にはわずかな戸惑いが混じっている。
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「ボスキさんは外周の見回りを。右側の死角に注意を」
「……あぁ」
ボスキが短く返す。
ほんの一瞬だけ、驚いたように目を細めた。
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「アモンさんは庭の花の状態を確認して。湿度が上がってる」
「了解っす」
アモンが軽く笑う。
「よく見てるっすね、主様」
⸻
「ラムリさんは清掃を。昨日の清掃。まだ終わってないでしょう」
「……っ」
ラムリは言葉を詰まらせる。
図星だった。
⸻
気づけば、全員に指示を出していた。
無理に考えたわけじゃない。
ただ、“見れば分かる”。
それだけだった。
⸻
「……以上です」
言い終えた瞬間、我に返る。
空気が、妙に静かだった。
全員がこちらを見ている。
その視線が、重い。
「……何か、問題でも」
思わず口にする。
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「いや……」
ロノが頭を掻く。
「その、完璧…です」
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「え?」
⸻
「正直、めちゃくちゃやりやすいっす」
苦笑しながら言う。
他の執事たちも、否定はしない。
むしろ――
「的確です」
ナックが小さく呟く。
「無駄がない」
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褒められている。
はずなのに。
胸の奥が、ひどくざわついた。
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「……違う?」
気づけば、声に出ていた。
全員が止まる。
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「これは……主様ではない…?」
自分でも、何が違うのか分からない。
けれど、確信だけがあった。
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それは“主様の言葉”じゃない。
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「……主様?」
ベリアンが静かに呼ぶ。
その声に、少しだけ救われそうになる。
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「今のは、命令ではありませんね」
ナックが言う。
冷静な声だった。
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「え……」
⸻
「指示としては完璧です。ですが――」
一拍置く。
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「“主様の命令”ではない」
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その言葉が、まっすぐ突き刺さる。
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分かっている。
さっきの自分は、“主様”じゃなかった。
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ただの――
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「執事、だ」
ぽつりと、呟く。
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静まり返る空間。
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「……は?」
ロノが顔を上げる。
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「今のは……全部、執事の動きだ」
自分で言って、はっきりする。
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先回りして、状況を見て、最適を出す。
命令じゃない。
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“仕える側”の思考。
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「……なるほどね」
ルカスが、どこか楽しそうに笑った。
「完全に、そっちだ」
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「主様」
ハウレスの声が、少しだけ硬くなる。
「それでは困ります」
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「……分かってる」
すぐに返す。
分かっている。
分かっているのに。
⸻
「じゃあ、命令してみろよ」
ロノの声だった。
真っ直ぐな目で、こちらを見る。
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「……え」
⸻
「今みたいにじゃなくて、“主様として”」
逃げ場が、なくなる。
⸻
視線が集まる。
期待と、不安と、わずかな疑い。
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口を開く。
言葉が出ない。
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“命令”。
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頭の奥で、何かが軋む。
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「……っ」
息が詰まる。
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言えない。
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どうしても。
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「……できない」
かすれた声が落ちる。
⸻
沈黙。
⸻
誰も動かない。
⸻
「……主様」
ベリアンの声が、今度は少しだけ低い。
⸻
「……申し訳、ありません」
また、言ってしまう。
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その瞬間、ロノが顔を歪めた。
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「……違ぇだろ」
小さく、吐き捨てるように。
⸻
「謝ってほしいわけじゃねぇよ」
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胸が、強く締め付けられる。
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何をすればいいのか、分からない。
何が正しいのか、分からない。
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ただ一つ、はっきりしているのは
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自分は、“主様じゃない”ということ。
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その日、屋敷は問題なく回った。
完璧に。
何一つ滞りなく。
⸻
――主様が、いなくてもいいかのように。
第2話 おわり
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