テラーノベル
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アイン様が公務の挨拶のために私の傍を離れた、わずか数分の出来事だった。
華やかなシャンデリアの光が降り注ぐダンスホールの片隅で
私を取り囲む人の垣根は、逃げ場のない檻のようにじわじわと狭まっていく。
中心に立つ叔母の口元には
かつて薄暗い地下室で私を追い詰めた時と同じ、歪んだ愉悦が浮かんでいた。
「あらあら、震えて。そのドレス、一体いくらするのかしら?」
「泥棒猫が王子の温情に付け入って、分不相応な夢を見ているようだけど……そろそろ現実に引き戻してあげなきゃね」
叔母の嘲笑に同調するように
周囲の令嬢たちが扇で口元を隠しながら、クスクスと湿り気を帯びた冷笑を漏らす。
色とりどりのドレスを纏った彼女たちの視線は
今や鋭いナイフとなって、私の柔らかな肌を無情に削り取っていくようだった。
「アイン様をたぶらかし、私たちの席を横取りした罪は重いわよ。……ねえ、皆様?この女の化けの皮、ここで剥がしてしまいましょう?」
「……っ!」
叔母が耳元で、毒蛇が這うような低い声が響く。
「あんたには汚れた姿がお似合いよ、灰かぶり。さあ、いい加減に身の程をわきまえなさい」
「……一発殴られれば、少しは寝ぼけた目が覚めるかしら?」
叔母が憎悪を込めて、その右手を高く振り上げる。
周囲を囲む令嬢たちは、これから起こる凄惨な「見世物」を期待に満ちた目で見つめていた。
私は絶望に身を竦ませ、強く目を閉じた。
(…嫌…また、アイン様に迷惑をかけてしまう…っ)
頭の中でそう叫んだ瞬間
空気を鋭く切り裂くような音が響いた。
───パァンッ!という、乾いた衝撃音。
けれど、いつまで待っても私の頬に痛みは来なかった。
恐る恐る目を開けると、そこには、私の視界をすべて埋め尽くすような、逞しく広い背中が立ちはだかっていた。
「…アイン、様……?」
震える声が、私の喉から漏れる。
叔母の全力で振り下ろした平手打ちは
私の代わりに、アイン様の彫刻のように整った左頬を真っ向から捉えていた。
会場全体が、氷を流し込まれたような冷徹な静寂に包まれる。
オーケストラの音さえ遠のいていく。
あまりの事態に、叔母は血の気が引き
土気色になった顔で自分の右手を見つめ、ガタガタと歯の根も合わないほどに震え始めた。
「あ、あ……アイン様……!?ち、違うのです、これは、その…!不埒な娘を教育しようと……!」
アイン様は、赤く腫れ始めた自らの頬を隠そうともせず、冷徹極まりない
氷の刃のような眼差しで叔母を見据えた。
その瞳には、私と二人きりの時に見せてくれる温かな陽だまりなど、微塵も残っていない。
「……俺の妻に、一体何をするつもりだった?」
地を這うような、低く、そして重い声が広間に低く響き渡る。
アイン様はゆっくりと振り返り、私の震える肩を抱き寄せた。
その腕の力強さは、壊れそうな宝物を守る騎士のようであり
同時に、自分の獲物に触れようとする者を決して許さない、猛烈な独占欲に満ちていた。
「この女性は、俺が選び、俺が愛し、俺がこの国の妃にすると決めた唯一無二の存在だ」
「……彼女への無礼は、この俺への、ひいては王家への反逆とみなす」
アイン様の烈火のような宣告に、周囲の令嬢たちは悲鳴を上げるようにして後ずさった。
アイン様は私を、その逞しい腕で抱きかかえるようにして、騒然とする会場を足早に後にする。
馬車に乗り込み、王城へと戻る道すがら。
けれど、私の胸の中は
救われた感謝よりも、どろりとした黒い罪悪感で塗り潰されていた。
私のせいで、誰よりも高貴であるはずのアイン様の顔に、醜い傷がついた。
私のせいで、彼は社交界という晴れ舞台で
あんなにも無様なスキャンダルに巻き込まれてしまった。
───私はやっぱり、彼の隣にいてはいけない人間なんだ。
アイン様の腕の中で、私は声を押し殺して泣き始めた。
彼の優しさに触れるたび、胸が締め付けられる。
この幸せな魔法のような日々が
自らの汚れた存在のせいで解けてしまうことを、何よりも恐れながら。
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