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月の魅力は孤独により輝くーーーーーーーーーーーーーーー
───それを見たのは、丑三つ時より少し前、澄んだ空気が心地よい廃墟の屋上だった。
僕には行きつけの廃墟がある。
先月古稀を迎えた近所の朗爺さんが、幼少期にはすでにその廃墟としてあった、と言っていたので、年季はかなりのものなのだろう。
湾岸沿いにあるその廃墟は緑が侵食していて、妙な様相を呈している。
僕が初めて廃墟を見たのは越してきてすぐの事だった。第一印象は妙なものだった。敵意、だった。そこから確かな敵意を感じた。
自分の周りを漂っている以前の街の匂いをその廃墟は敵視していた。
誰も居らず、何もない。それなのにひしひしと感じる圧迫感に、年月の恐ろしさを実感した。
祖父母の言葉に形容しがたい説得力や深みを感じるのと、これは同様だと思った。
年月が言葉以上の意味を与える。
背景に気圧されてしまう。彼らの轍が、言葉一つに重みを与える。
それは決して生きている者のみに働く作用ではない。今立ち尽くし眺望しているこの景色や、廃墟も同様だった。
そう思って僕はここを魅力的な廃墟だと思った。
そんな妙な魅力のある廃墟に惹かれて、僕は度々ここを訪れた。
廃墟が自らをさらけ出すのは、夜だけだった。朝や昼に訪れても、廃墟からは何も感じない。
僕がただ単に夜が好きで、廃墟から感じていたものは全て夜の魔力が作り出していた幻想なのではないかと、ふと思ったことがある。
それ程までに朝と昼がこの廃墟は嫌いなのだろう。
その、夜のせいだろうかと言う懐疑的な思いが誤りだった事は案外すぐに分かった。
それは二階のかつては書斎だったであろう一室から無い窓を通して湾岸を見た時の事だった。
景色が煌めいていた。ゆるやかに打つ波、漂う雲、かすかに輝く星と三日月。
それらはこの一室から見ることで、良景から無類の夜景へと姿を変えた。
廃墟までの道中でも同じような景色は見える。だからこそ胸に感動を与えているのが、夜でないことを僕は確信した。
この廃墟は夜に輝く。
僕はそれが分かった時、無性にジムノペディが聞きたくなった。
そうして僕は今日も廃墟を訪れていた。
時刻はどれくらいだろうか。
そう思い携帯を開くと1:50と表示される。もうすぐ丑三つ時だ。
お気に入りのこの書斎でただただ星を眺める。今日もいつも通りの絶景だった。
そう言えば、と僕はふと屋上の事を思った。
一度も行ったことのない屋上。廃墟を隅々まで探索したと言うのに何故か屋上には行っていなかった。
今まで意識の外にあったのか不思議だ。そうだ、この廃墟の屋上からの眺めは絶景に決まっている。
古ぼけた椅子から立ち上がり、僕はすぐに屋上に向かった。慣例通りと言うか、今まで全ての部屋の扉がそうだったように屋上への扉は容易く開いた。
軋む音と共に扉を開ける。月光がゆっくりと僕を染めるように照らす。
「あら、こんばんわ」
「────」
絶句した。
人が居たからじゃない。屋上でポツンと椅子に座っていたからでも、突然話しかけれられたからでもない。
僕が絶句したのは、彼女の月光に照らされていたからだった。
琴線が編まれていく。僕に中にあった幻想的な美しさに対する常識や観念が、淡く崩れ去る音が頭に響く。
月光の音を、僕は初めて聞いた。
「ふふ、一緒に話しましょう?」
呆然と立ち尽くす僕に近づいて、彼女は近付いてきて、半ば強引に手を引きながらそう言った。
僕は引かれるままに歩いていって、彼女の隣の椅子に座った。
屋上は広く平坦で、中央にあるこの椅子以外にはなにもない。
「ようやく此処に来てくれたのね」
余韻の抜けきっていない頭で僕はなんとか口を開く。
「き、君は?」
彼女はふふ、と微笑んで言った。
「ずっと此処に居たわ。アナタと一緒ね」
ずっと…それはおかしい。自分以外に人が居るなんて思いもしなかった。
当然だ。人の出入りする姿も、どころか足音も、気配も、この三ヶ月で一度として見ていないし、聞いていないし、感じていない。
一体何時から?何故ここに?どうやって?自分に何時から気付いてた?
疑問が浮かんでは消える。そんなことはどうでも良いような気持ちになってしまう。
いや、本当はどうでも良いはずがないのだけれど、今はどうしても彼女の素性を問うことが野暮に感じられた。
紡ぐべき言の葉は、僕の口から自然と言葉が出てきた。
「空、綺麗だ……」
「そうね。半月もとっても綺麗だわ」
夜景は彼方まで果てしなく澄みわたって、星一つ無い。
真っ二つに斬られたような見事な半月だけが、そこに燦然と輝いていた。
屋上からの眺めは細部に渡る全ての情景の彩度を限りなく高めていた。
書斎とは違う趣がある。あの部屋は童話や物語で、姫が牢の格子から夜空を眺めるようなそんな感傷があった。
ここは、屋上は違う。格子もなければ、部屋もなく、壁もない。
境界線が、無い。
僕は隣を見た。夜空を眺める彼女をふと、見ていた。
宵闇のように黒く塗り潰されたの腰ほどの長髪、品格を感じる姿勢の良さ、睫毛の綺麗な切れ長の目、凛としたむ顔つきに、月光に照らされたしなやかな白い手。
彼女を形作る要素の一つ一つが、その何もかもが夜と呼応していた。
「夜空より、綺麗?」
彼女は空を見つめたままそう言った。
「──え?」
「そんなにじっと見つめられるの、初めてよ。アナタにとっては私の方が興味深いみたいね」
「……僕以外に人が居ると思わなかったから」
「ふふ、私に見惚れている事は認めるのね」
こちらを見て優しく微笑む。
「え、いや、見惚れるって…………」
否定出来ない。
微笑む彼女は芸術めいた美しさを持っていた。
広く知れ渡った名作の美観ではなく、一部に熱狂的な信者を持ち狂気的な信仰を集めてしまう、そんな作品の美しさに似ている。
彼女の世界に囚われてしまいそうだ。
「……」
「ふふ、好きなだけ見て良いわ」
ずいっと彼女は近くに寄ってきた。彼女は僕の顔に陶芸品のような整った白さの手を伸ばしてくる。
突然の行動に思考が鈍って反応できないまま、彼女の手が僕の右頬に触れた。
触れた場所から、電流を流されたような痺れがした。同時に爆発しようなくらい心臓が脈打つ。
咄嗟に彼女の手を払い除け、椅子から立ち上がって、後退する。足がもつれて転びそうになってしまう。
「い、いや!その、ごめん!」
彼女は驚いてはいなかったが、手をさすっている。
ダメだった。常に注意していなければならないと言うのにすっかり忘れてしまっていた。
頬の痺れはまだひかない。心臓の拍動の忙しなさに嫌な懐かしさを覚える。そして、軽い眩暈がしてくる。
「……ごめんなさい。軽薄だったわ」
申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめん…今日はもう帰るよ」
「さようなら」
僕は彼女を振り返らず、走って帰った。
冷たい空気が肺に入り込む。乾いて、少し痛い。
家までついて、二階の自室に掛けている梯子で上がり、梯子をしまう。折りたたんで、ベッドに体を預けて呼吸を整える。
「はぁ…はぁ……」
頬の痺れな未だ微かにある。
「ダメか……」
拍動が忙しないのは、走ったからではない。女性と接したからだ。
窓を閉め、光を遮断して布団にうずくまる。
あの場所なら、夜なら大丈夫だと、勘違いしていた。
相変わらず、僕は女性が怖いのだ。太陽と同じように。