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歪んだ中太です。暴力表現あり
薄暗い玄関の鍵が回る音が、静まり返った部屋に重く響く。 太宰治はソファの上で小さく肩を揺らし、膝を抱え込んだ。時計の針は午前二時を回っている。この部屋の主であり、太宰をこの閉塞した安寧に繋ぎ止めている男、中原中也の帰宅だ。
「……ただいま」
返ってきた声は、ひどく低く、濁っていた。 中也がリビングに入ってくると、部屋の空気が一変する。重力そのものが密度を増したような、肌を刺すような威圧感。彼はコートを乱暴に脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら太宰の前に立った。その瞳には、仕事で溜め込んできた苛立ちと、処理しきれない「生」の澱みがどろりと渦巻いている。
「太宰、飯は」
「……まだ。君と一緒に食べようと思って、待っていたんだよ」
太宰が無理に作った笑みを浮かべた瞬間、乾いた音が室内に弾けた。 中也の拳が、太宰の頬を容赦なく弾く。
「……っ!!」
衝撃でソファから床へ転げ落ちる。視界が火花を散らし、遅れてやってきた鈍い痛みが脳を揺らした。口内が切れ、鉄の味が広がる。太宰が顔を上げようとした瞬間、次は腹部に強い衝撃が走った。
「誰が待てっつった。俺は今、手前の顔を見るだけで虫唾が走るんだよ」
中也の言葉は鋭利な刃物だ。何度も、何度も、中也の拳や足が太宰の身体に沈んでいく。太宰は身を護るように丸まり、ただ嵐が過ぎ去るのを待った。 痛い。熱い。苦しい。 太宰は心底、中也を憎んだ。こんな暴力でしか己を保てない男、自分の身体を痣だらけにする男。大嫌いだ。今すぐここから逃げ出して、冷たい海にでも身を投げたいと、細胞の一つ一つが叫んでいる。
だが、不意に暴力が止まる。 太宰の鼻から赤い雫が滴り、床に小さな水溜りを作った。太宰の目から、生理的な涙が溢れ出し、頬を伝って床の血と混ざり合う。
「……あ」
上から降ってきたのは、呆然とした、ひどく幼い声だった。 中也は、自分の拳を戦慄したように見つめている。彼はさっきまでの狂気を嘘のように消し去り、膝をついて太宰を抱き寄せた。
「……すまねえ、太宰。……クソッ、俺は何を……。おい、大丈夫か」
震える手が、太宰の血を拭う。中也の顔は今、深い後悔と慈愛に満ちていた。 彼は泣きじゃくる太宰を壊れ物を扱うように抱きしめ、その耳元で何度も何度も、呪文のように謝罪を繰り返す。
「ごめん、太宰……。愛してる、お前がいないと俺はダメなんだ。捨てないでくれ、頼むから……」
中也の強い腕が、太宰の肋骨をきしませる。 この瞬間、太宰の胸に広がるのは、憎悪でも恐怖でもなかった。 それは、ひどく甘やかで、毒のような「安心感」だ。
ああ、この男は、私がいなければ壊れてしまう。 私を殴り、その血を見て、私を抱きしめることでしか、この男は自分の形を保てないのだ。
「……中也……」
太宰は震える手で、自分を傷つけた男の背中に回した。 痛いのは大嫌いだ。中也のことも嫌いだ。けれど、この暴力と謝罪のループの中で、自分は確かに「誰かに、絶対的に必要とされている」という実感を得ていた。
世界中の誰からも理解されず、自分自身でさえ持て余しているこの空虚を、中也の暴力という熱が、そしてその後の涙に濡れた抱擁が、一時的に埋めてくれる。
「……いいよ、中也。……私は、ここにいるよ」
鼻血の混じった声で囁くと、中也は子供のように声を上げて太宰の胸で泣いた。 太宰は、暗い部屋の中で中也の頭を優しく撫でる。 自分を壊す男を、自分が救っているという奇妙な逆転現象。
この部屋は、二人だけの地獄だ。 けれど、外にあるどんな天国よりも、今の太宰にとってはここが唯一の居場所だった。
「……愛してるよ、中也」
嘘ではない。 けれど、それは決して、綺麗なものでも、健やかなものでもなかった。 夜が明ける頃には、中也はまた優しい恋人の顔で太宰を世話し、夜になれば再び、その拳を太宰に振り下ろすだろう。
その繰り返しこそが、二人の愛の形だった。 太宰は、痣だらけの身体に中也の体温を感じながら、静かに目を閉じた。
カーテンを閉め切った薄暗いリビングには、不快なほどに重苦しい空気が淀んでいた。 休日だというのに、中原中也は朝から一度も笑っていない。ソファに浅く腰掛け、何度も指を組み替え、貧乏ゆすりを繰り返すその横顔には、死人のような隈が深く刻まれていた。 連日の任務による極限の疲労。それ以上に、彼を蝕んでいるのは得体の知れない苛立ちだ。
太宰治は、キッチンとリビングの境界線に立ち尽くし、ただその様子を伺っていた。 何か声をかけるべきか、それとも視界に入らないようにすべきか。 掃除をすれば「うるせえ」と怒鳴られ、黙っていれば「無視してんのか」と拳が飛んでくる。何が正解で、何が地雷なのか。この数年、中也の隣にいてさえ、太宰には今の彼の「怒りのトリガー」がどこにあるのか、さっぱり分からなかった。
「……おい、太宰」
地を這うような中也の声。 太宰は心臓を掴まれたような衝撃を覚えながら、微かに肩を震わせた。
「……何だい、中也」
「いつまでそこに突っ立ってやがる。……俺を、馬鹿にしてんのか」
「そんなこと、一度も思ったことはないよ。……何か、飲む?」
太宰が差し出そうとした言葉は、中也が投げつけた灰皿の音に掻き消された。 ガシャン、という派手な衝撃音と共に、壁に飾られた絵画が斜めに歪む。
「『何か飲む?』だと? ……手前はいつもそうだ。そうやって、他人事みたいなツラして……俺の神経を逆撫でしやがる」
中也が立ち上がる。その足取りは危うく、けれど放たれる殺気は本物だった。 太宰は逃げなかった。いや、逃げられなかった。中也が自分を求めている――たとえそれが、暴力という歪んだ形であっても、自分が必要とされているという事実が、太宰の足をその場に縫い付けていた。
中也の手が太宰の胸ぐらを掴み、そのまま壁へと乱暴に押し付けた。背中に走る鈍い痛み。
「……殴りたいなら、殴ればいい。……それで君が少しでも楽になるなら」
「……っ、手前は、そういうところが……一番、気に食わねえんだよッ!!」
振り下ろされた拳が、太宰の口端を裂く。 視界が火花を散らし、脳が揺れる。一度始まってしまえば、あとは嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。 中也は言葉にならない叫びを上げながら、力任せに太宰を壊そうとする。殴打の音。太宰の短い喘ぎ。 痛い。本当に、痛い。骨が軋み、内臓が悲鳴を上げるたび、太宰は中也という男の「醜さ」と、それゆえの「愛おしさ」を同時に噛み締めていた。
この男は、私がいなければ、この怒りの行き場を失って、独りで自壊してしまう。 私を殴ることで、ようやく彼は、自分が生きている実感を繋ぎ止めている。
太宰の視界が、溢れ出した涙と血で赤く染まる。 やがて、中也の動きが止まった。荒い呼吸だけが静かな部屋に響き、中也の拳が太宰の胸元で力なく震えている。
「……はぁ、……っ、……あ」
中也の瞳に、焦点が戻る。 血塗れになった太宰の顔と、痣だらけの身体。それを見た瞬間、中也の顔から一切の感情が消え、代わりに底なしの絶望が浮かび上がった。
「……ごめん。……ごめん、太宰……」
中也は崩れ落ちるように太宰を抱きしめた。 血で汚れることも厭わず、その細い身体を腕の中に閉じ込め、子供のように泣きじゃくる。
「……また、やった。……俺は、手前を……大事にするって決めたのに……。死にたい、俺なんて死んじまえばいい……っ」
中也の涙が、太宰の首筋に落ちて熱を伝える。 太宰は、痛みに震える腕をゆっくりと動かし、自分を傷つけたその男の背中に回した。
「……いいんだよ、中也。……大丈夫だ」
中也の謝罪を受け入れるたび、太宰の心に、毒のような安堵が広がっていく。 暴力の後にやってくる、この濃密な、窒息しそうなほどの愛。 中也が自分に縋り、自分なしでは生きていけないと泣く。その瞬間だけ、太宰は自分がこの世界に存在していいという「許可」を得たような気がするのだ。
「中也、……私を見て」
太宰は掠れた声で囁き、中也の顔を上げさせた。 後悔で歪んだ顔。隈だらけの、ボロボロな中也。
「君には、私しかいない。……私も、君しかいない。……そうでしょ?」
中也は言葉にならず、ただ何度も頷き、太宰の唇を求めた。 血の味が混じる、苦い口づけ。 休日の午後、カーテンの隙間から差し込む陽光は、二人を祝福しているのか、それとも見捨てているのか。
太宰は痣だらけの顔で、微笑んだ。 痛みを引き換えにして手に入れる、この閉ざされた平穏。 二人だけの、地獄の休日。 太宰は中也の温もりの中に溶けていきながら、次の暴力が訪れるまでの短い天国を、ただ享受し続けた。
カーテンを閉め切った寝室には、不気味なほど濃密な静寂が横たわっていた。 街灯の光さえ拒絶した闇の中で、中也の荒い呼吸と、太宰の浅く震える吐息だけが重なり合う。昼間の暴力の余韻を消し去るように、あるいはさらに深く刻み付けるように、中也の指先は太宰の痣の上を執拗になぞっていた。
「……痛えか」
中也の声は、懺悔のような響きを持って太宰の耳を打った。 太宰は答えず、ただシーツを握りしめた。日中に受けた殴打の痕が、中也の体温に触れるたび、ズキズキと熱を持って拍動する。
中也は、自分が壊したものを修復しようとする芸術家のような手つきで、太宰の服を剥ぎ取った。露出した白い肌には、至るところに痛々しい赤紫の痕が散っている。それを見た瞬間、中也の瞳に再びどろりとした執着と、自分自身への嫌悪が混ざり合った「欲」が宿る。
中也は、太宰の首筋に深く、噛みつくような口づけを落とした。
「……あ、っ……」
太宰は短く声を漏らし、背中を弓なりに反らせる。 中也の愛撫は、決して優しいものではなかった。どこまでも支配的で、独占的。太宰の身体のすべてに自分の印を刻み込もうとするような、暴力に近い情愛。
「嫌いだって言えよ、太宰。……俺のこと、死ぬほど憎いって言ってみろよ」
中也は太宰の両手首を頭上で一つにまとめ、力任せに押さえつけた。拘束された腕が軋み、太宰は苦痛に顔を歪める。だが、その瞳に宿るのは拒絶ではない。
「……言わないよ。……だって、君は私を……こうして、……確かめて、くれているん、だろう……?」
「……っ、手前は、本当に……!」
中也は太宰の唇を塞いだ。血の混じった唾液を飲み込み合い、互いの境界線が溶けていく。 中也が太宰の内に侵入した瞬間、太宰は全身を震わせ、声を殺して泣いた。
痣に触れるたびに走る痛み。けれど、その痛みが、自分が今ここで中也に「抱かれている」という圧倒的な現実を突きつけてくる。 中也は太宰の腰を強く掴み、何度も、何度も、その存在を刻み込むように腰を振った。
「太宰、太宰……っ、俺を見ろ。俺の腕の中で壊れろ……ッ」
「……あ、あぁっ……中也……っ、……もっと、強く……」
太宰は自由な方の手を伸ばし、中也の背中に爪を立てた。 自分を傷つけ、自分を汚し、自分を救ってくれる男。 この痛みを伴う快楽こそが、太宰にとっては唯一の、純度の高い「愛」だった。
中也が絶頂に達した瞬間、彼は太宰の首筋に顔を埋め、獣のような唸り声を上げた。その直後、彼は崩れ落ちるように太宰の上にのしかかり、再び子供のように震え始めた。
「……すまねえ、……また、痛くした……ごめん、……太宰……」
中也の涙が、太宰の胸元に落ちる。 太宰は、解放された手で中也の汗ばんだ髪を優しく撫でた。 痛みは引き、代わりに全身を包み込むのは、泥のような倦怠感と、そして確かな「安心」だ。
ああ、今、私は、この男のすべてを支配している。 私の痛みを通して、中也は私に繋がっている。
「……いいんだよ、中也。……おやすみ」
太宰は痣だらけの腕で、自分を傷つけ、今は震えているその男を強く抱きしめた。 明日になれば、また新しい痣が増えるかもしれない。中也はまた、狂ったように太宰を殴り、そして狂ったように謝罪するだろう。
けれど、この地獄がある限り、太宰治は独りではない。 闇の中で、二人の心音だけが、一つになって響き続けていた。
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やばい…DV系…ノベルだと全然読めますね。ハマりそうです…
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